40 / 66
鏡のなかで、名前が消えていく
しおりを挟む
湯気がまだ完全に引かない洗面所。
鏡の表面はうっすらと曇っていた。
曇ったガラスの向こうに、自分の顔が浮かび上がる。
輪郭はある。
だが、それが誰の顔なのか、すぐには認識できなかった。
楷は、濡れた髪をタオルで拭きながら、鏡のなかの自分と向き合った。
拭き残した水滴が、首筋を伝って鎖骨に落ちる。
部屋の照明は背後から落ちていて、顔全体に柔らかい影を落としていた。
額に貼りついた髪が、左右不均等に分かれている。
何の整えもないままの表情は、無言でそこにあった。
目の奥に力はなかった。
充血もしていないし、目元の皮膚が腫れているわけでもない。
ただ、“光”がない、そう形容したくなる静けさだった。
タオルを手から落とす。
音もなく床に沈む。
鏡の前で、楷はゆっくりと息を吐いた。
胸の奥に引っかかっていたものが、煙のように流れていく…ような気がしていた。
実際には、何ひとつ流れ出るものなどなかった。
「……誰だっけ」
声にならないほどの小さな囁きだった。
けれど、その言葉は確かに口から漏れていた。
部屋の空気に、かすかに振動を残した気がした。
誰にも聞かれることのない声。
自分ですら、聞きたくなかった問い。
「誰だっけ」
それは問いではなく、確認の拒絶だった。
目の前の鏡には、形の整った顔が映っている。
頬骨のラインも、眉の角度も、唇の厚さも──
どれも、他人から「綺麗だ」と言われてきたものだった。
“中性的”という形容も、“美人”という表現も、言葉としては正しかったのかもしれない。
だがその正しさは、楷自身にとって何の意味もなさなかった。
“俺”は、ここにいるのか。
この顔が“俺”なのか。
この肌、この骨、この目、この声──
それらを纏っている存在が、自分と呼べるのか。
シャワーの音がまだ耳の奥に残っていた。
誰かの体温も。
重ねられた呼吸も。
相手の手が触れた箇所が、まだ熱を持っていた。
けれど、そこに“自分”はいなかった。
ただ反応する体だけがあり、快楽の余韻は皮膚に残っていた。
内側は、静かすぎるほどに空っぽだった。
「この顔に、誰かの記憶を貼りつけることはできても、“俺自身”は見当たらなかった」
思考が、声にならないまま胸の奥を滑り落ちていく。
この顔に“男”の記憶を貼りつけることはできる。
“女”の記憶も貼りつけられる。
楷という名前すら、誰かの記憶にしか残っていない気がした。
自分の感情はどこにいるのか。
何かに達したはずなのに、達した自分の姿が思い出せない。
名前も、性も、身体の輪郭すら、曖昧になっていく。
楷は鏡の中の自分に手を伸ばす。
指先が鏡の冷たい面に触れる。
水滴が残ったガラスは、すべりの悪い冷たさだった。
その感触に、ようやくわずかな“現実”が戻ってきた。
鏡の奥の目が、楷を見返す。
だが、その目は、こちらを見てはいなかった。
どこか遠くの、誰でもない場所を見つめているようだった。
そんな自分を、楷は黙って見つめていた。
見失ったというより、
初めから“在った”ことがないのかもしれない。
誰かに抱かれるたびに、
誰かの目に映る“誰か”になっていく。
その繰り返しのなかで、“楷”という輪郭は、
他者の記憶のなかでだけ、輪郭を保っていた。
気づけば、唇が震えていた。
寒いわけではなかった。
感情があったとも言えなかった。
ただ、反応だけが起きていた。
自分のなかに、なにかを感じたわけではない。
それでも身体は、まるで何かを拒むように、静かに揺れていた。
手を下ろし、鏡から視線を逸らす。
タオルを拾い上げ、首筋を拭く。
ルーティンのように動きながら、心は依然としてそこにいなかった。
顔を拭き、髪を整え、また鏡を見た。
だが、そこに“誰か”が戻ってくることはなかった。
冷たい鏡の向こうで、“自分”がぼんやりと消えていく。
そしてそのことに、
もう驚きすら覚えなくなっている自分がいた。
鏡の表面はうっすらと曇っていた。
曇ったガラスの向こうに、自分の顔が浮かび上がる。
輪郭はある。
だが、それが誰の顔なのか、すぐには認識できなかった。
楷は、濡れた髪をタオルで拭きながら、鏡のなかの自分と向き合った。
拭き残した水滴が、首筋を伝って鎖骨に落ちる。
部屋の照明は背後から落ちていて、顔全体に柔らかい影を落としていた。
額に貼りついた髪が、左右不均等に分かれている。
何の整えもないままの表情は、無言でそこにあった。
目の奥に力はなかった。
充血もしていないし、目元の皮膚が腫れているわけでもない。
ただ、“光”がない、そう形容したくなる静けさだった。
タオルを手から落とす。
音もなく床に沈む。
鏡の前で、楷はゆっくりと息を吐いた。
胸の奥に引っかかっていたものが、煙のように流れていく…ような気がしていた。
実際には、何ひとつ流れ出るものなどなかった。
「……誰だっけ」
声にならないほどの小さな囁きだった。
けれど、その言葉は確かに口から漏れていた。
部屋の空気に、かすかに振動を残した気がした。
誰にも聞かれることのない声。
自分ですら、聞きたくなかった問い。
「誰だっけ」
それは問いではなく、確認の拒絶だった。
目の前の鏡には、形の整った顔が映っている。
頬骨のラインも、眉の角度も、唇の厚さも──
どれも、他人から「綺麗だ」と言われてきたものだった。
“中性的”という形容も、“美人”という表現も、言葉としては正しかったのかもしれない。
だがその正しさは、楷自身にとって何の意味もなさなかった。
“俺”は、ここにいるのか。
この顔が“俺”なのか。
この肌、この骨、この目、この声──
それらを纏っている存在が、自分と呼べるのか。
シャワーの音がまだ耳の奥に残っていた。
誰かの体温も。
重ねられた呼吸も。
相手の手が触れた箇所が、まだ熱を持っていた。
けれど、そこに“自分”はいなかった。
ただ反応する体だけがあり、快楽の余韻は皮膚に残っていた。
内側は、静かすぎるほどに空っぽだった。
「この顔に、誰かの記憶を貼りつけることはできても、“俺自身”は見当たらなかった」
思考が、声にならないまま胸の奥を滑り落ちていく。
この顔に“男”の記憶を貼りつけることはできる。
“女”の記憶も貼りつけられる。
楷という名前すら、誰かの記憶にしか残っていない気がした。
自分の感情はどこにいるのか。
何かに達したはずなのに、達した自分の姿が思い出せない。
名前も、性も、身体の輪郭すら、曖昧になっていく。
楷は鏡の中の自分に手を伸ばす。
指先が鏡の冷たい面に触れる。
水滴が残ったガラスは、すべりの悪い冷たさだった。
その感触に、ようやくわずかな“現実”が戻ってきた。
鏡の奥の目が、楷を見返す。
だが、その目は、こちらを見てはいなかった。
どこか遠くの、誰でもない場所を見つめているようだった。
そんな自分を、楷は黙って見つめていた。
見失ったというより、
初めから“在った”ことがないのかもしれない。
誰かに抱かれるたびに、
誰かの目に映る“誰か”になっていく。
その繰り返しのなかで、“楷”という輪郭は、
他者の記憶のなかでだけ、輪郭を保っていた。
気づけば、唇が震えていた。
寒いわけではなかった。
感情があったとも言えなかった。
ただ、反応だけが起きていた。
自分のなかに、なにかを感じたわけではない。
それでも身体は、まるで何かを拒むように、静かに揺れていた。
手を下ろし、鏡から視線を逸らす。
タオルを拾い上げ、首筋を拭く。
ルーティンのように動きながら、心は依然としてそこにいなかった。
顔を拭き、髪を整え、また鏡を見た。
だが、そこに“誰か”が戻ってくることはなかった。
冷たい鏡の向こうで、“自分”がぼんやりと消えていく。
そしてそのことに、
もう驚きすら覚えなくなっている自分がいた。
6
あなたにおすすめの小説
余命半年の俺を、手酷く振ったはずの元カレ二人が手を組んで逃がしてくれません
ユッキー
BL
半年以内に俺は一人寂しく死ぬ。そんな未来を視た。きっと誰も悲しむ人は居ないだろう。そう思っていたから何も怖くなかった。なのにそんな俺の元に過去手酷く振り、今では世界的スターとなった元カレ二人がやってきた。彼らは全てを知っていた。俺がどうして彼らを振ったのか、そして俺の余命も。
全てを諦めた主人公と、主人公を諦めきれないイケメンサッカー選手とシンガーソングライターの再会が導く未来は?
幼馴染がいじめるのは俺だ!
むすめっすめ
BL
幼馴染が俺の事いじめてたのは、好きな子いじめちゃうやつだと思ってたのに...
「好きな奴に言われたんだ...幼馴染いじめるのとかガキみてーだって...」
「はっ...ぁ??」
好きな奴って俺じゃないの___!?
ただのいじめっ子×勘違いいじめられっ子
ーーーーーー
主人公 いじめられっ子
小鳥遊洸人
タカナシ ヒロト
小学生の頃から幼馴染の神宮寺 千透星にいじめられている。
姉の助言(?)から千透星が自分のこといじめるのは小学生特有の“好きな子いじめちゃうヤツ“だと思い込むようになり、そんな千透星を、可愛いじゃん...?と思っていた。
高校で初めて千透星に好きな人が出来たことを知ったことから、
脳破壊。
千透星への恋心を自覚する。
幼馴染 いじめっ子
神宮寺 千透星
ジングウジ チトセ
小学生の頃から幼馴染の小鳥遊 洸人をいじめている。
美形であり、陰キャの洸人とは違い周りに人が集まりやすい。(洸人は千透星がわざと自分の周りに集まらないように牽制していると勘違いしている)
転校生の須藤千尋が初恋である
Candy pop〜Bitter&Sweet
義井 映日
BL
完結済み作品。全6話。番外編1本追加!
「185cmの看板男」が、たった一人の恋人の前で理性を失う。
――三ヶ月の禁欲を経て、その愛は甘く、激しく、暴走する。
「あらすじ」
大学の「看板男」こと安達大介は、後輩の一之瀬功(いちのせ こう)を溺愛している。
ついに迎えた初めての夜。しかし、安達の圧倒的な「雄」の迫力に、功は恐怖して逃げ出してしまう。
「――お前は俺を狂わせる毒だと思ってた」
絶望した安達と、愛しているのに身体が竦む功。
三ヶ月の育みを経て、到達した二人の「じれったい禁欲生活」の行方は?
看板男の仮面が剥がれるとき、世界で一番甘い夜が始まる。
お話が気に入った、面白かった、と思ってくださったら、お気に入り登録、いいね、をお願い致します!
作者の励みになります!!
脱落モブ男が人気アイドルに愛されるわけがない
綿毛ぽぽ
BL
アイドルを夢見るも、デビューできずオーディション番組に出演しても脱落ばかりの地味男、亀谷日翔はついに夢を諦めた。そしてひょんなことから事務所にあるカフェで働き始めると、かつて出演していた番組のデビューメンバーと再会する。テレビでも引っ張りだこで相変わらずビジュアルが強い二人は何故か俺に対して距離が近い。
━━━━━━━━━━━
現役人気アイドル×脱落モブ男
表紙はくま様からお借りしました
https://www.pixiv.net/artworks/84182395
【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】
彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』
高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。
その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。
そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?
僕の恋人は、超イケメン!!
八乙女 忍
BL
僕は、普通の高校2年生。そんな僕にある日恋人ができた!それは超イケメンのモテモテ男子、あまりにもモテるため女の子に嫌気をさして、偽者の恋人同士になってほしいとお願いされる。最初は、嘘から始まった恋人ごっこがだんだん本気になっていく。お互いに本気になっていくが・・・二人とも、どうすれば良いのかわからない。この後、僕たちはどうなって行くのかな?
思い出して欲しい二人
春色悠
BL
喫茶店でアルバイトをしている鷹木翠(たかぎ みどり)。ある日、喫茶店に初恋の人、白河朱鳥(しらかわ あすか)が女性を伴って入ってきた。しかも朱鳥は翠の事を覚えていない様で、幼い頃の約束をずっと覚えていた翠はショックを受ける。
そして恋心を忘れようと努力するが、昔と変わったのに変わっていない朱鳥に寧ろ、どんどん惚れてしまう。
一方朱鳥は、バッチリと翠の事を覚えていた。まさか取引先との昼食を食べに行った先で、再会すると思わず、緩む頬を引き締めて翠にかっこいい所を見せようと頑張ったが、翠は朱鳥の事を覚えていない様。それでも全く愛が冷めず、今度は本当に結婚するために翠を落としにかかる。
そんな二人の、もだもだ、じれったい、さっさとくっつけ!と、言いたくなるようなラブロマンス。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる