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第6章 同志、紙面に集う〜初めての即売会(私設文藝市)
並ぶ冊子、交わる視線
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境内には朝の光が斜めに差し込み、寺の瓦屋根を淡く照らしていた。
空は澄み、風は柔らかかった。
本堂の脇に続く回廊沿いに、手製の机や屏風がずらりと並べられ、それぞれが布や紙で飾り付けられている。
机の上には、冊子、詩集、書簡集、挿絵つきの童話など、形も内容も異なる作品群が整然と並んでいた。
私設文藝市。
一日限りの小さな即売会。
けれど、そこに集まった人々の顔は皆、真剣で、少しだけ緊張していた。
「こっちで間違いないわよね」
伊藤すずえが、ひかるの袖を軽く引いた。
「“蒼の書”、これがわたしたちの船出ね」
用意された机の前に、深町が持参した藍色の布をかけ、中央に『誓い録・第二号』を十冊ほど並べた。
その脇には創刊号が数部、さらに小田切の論考集『義の理論』、すずえの短編集『瞳の毒と白い手袋』も重ねられていく。
深町の詩と挿絵をまとめた冊子は、手製の栞が添えられていた。
栞には「蒼の書」の筆文字が細く書かれており、それを見ただけで、世界観が伝わるような気配をまとっていた。
ひかるは、小説の最終頁を開いたままにして展示した。
見せるためではなく、紙に宿る余白そのものを“語る言葉”にしたかった。
そう思って、ページをそっとひらいた。
机の上には、説明書きが置かれていた。
『蒼の書』
関係性文学小冊子。
語られぬ言葉、交わらぬ視線、その先にあるものをめぐって。
あえて「BL」とは書かれなかった。
けれど、そう読めば読める。
むしろ、読む人の中にある感性に委ねるための、限界ぎりぎりの曖昧さだった。
まもなく、来場者がぽつぽつと現れ始めた。
文士風の若い男性、袴姿の女学生、品のよい年配の婦人。
皆、静かに各ブースをまわり、冊子を手に取っては、頁をそっとめくっていく。
「……これ、すごく空気が違う」
どこかの女学生が、ひかるたちのブースの前で立ち止まり、ぽつりとつぶやいた。
「主従……ですか?」
その隣にいた友人らしき少女が訊ねる。
「ううん、でもそれだけじゃない。何か、もっと…静かな温度がある」
彼女たちは『誓い録』を手に取り、ページを繰りながら顔を見合わせ、やがて一冊を購入していった。
その姿を見送るひかるの胸の中で、ゆっくりと何かが解けていった。
読まれている。
自分の物語が、知らない誰かの手に渡っている。
その人の中で何かが生まれ、言葉にならぬまま、そっと胸に降り積もる。
ひとりの青年が近づいてきた。
無地の綿シャツに、くたびれたノートを抱えている。
彼は『義の理論』と『誓い録・第二号』をじっと見比べたあと、冊子を手にしてひかるに声をかけた。
「このふたりの関係――名前はありますか?」
ひかるは少し迷ったあと、静かに答えた。
「あります。でも、読んでくださる方が、それぞれの言葉で呼んでくださればと思っています」
青年は頷き、冊子を手にしたまま、しばらく黙ってページを眺めていた。
やがて、おもむろに財布を取り出し、小銭を手渡しながら言った。
「名のない関係、というのは、美しいものですね」
それは、ひかるが初めて耳にする種類の感想だった。
彼の言葉が、体の深いところに静かに落ちていくのを感じた。
ほかにも、多くの人が足を止め、語らず、微笑み、あるいは首をかしげながら冊子を手にしていった。
ある女学生は「詩にある余白が、まるで沈黙の会話のよう」と呟いた。
別の青年は「この作品の“距離感”は、文学的に扱える構造だ」と、友人に向けて熱心に語っていた。
一部の来場者は質問を投げかけてきた。
「この関係は、恋愛ですか?」
「どうして言葉で伝えないんですか?」
ひかるは、そのたびに、丁寧に、しかし曖昧に答えた。
「言葉で言えないことが、関係性にはあるのだと思います」
「ふたりにとって、それが最善だったのかもしれません」
やがて、陽が少し傾いてきた。
参道の石畳に、並んだ机の影が長く伸びる。
ブースに並んだ冊子は、少しずつ減っていた。
机の下の段ボール箱に詰めた部数も、すでに残りわずか。
視線が交わり、言葉が交わされ、想像が渡っていく。
それは、ただの販売ではなかった。
自分の内にある物語が、他者の心に静かに着地していく、その瞬間の連続だった。
蒼と榊原のあの物語は、もうひかるだけのものではない。
それを読んだ誰かの中で、名前を変え、姿を変え、語られていく。
ひかるは、机の上の『誓い録』をそっと撫でた。
その指先の下にある紙のぬくもりが、まるで遠くの誰かの体温のように感じられた。
空は澄み、風は柔らかかった。
本堂の脇に続く回廊沿いに、手製の机や屏風がずらりと並べられ、それぞれが布や紙で飾り付けられている。
机の上には、冊子、詩集、書簡集、挿絵つきの童話など、形も内容も異なる作品群が整然と並んでいた。
私設文藝市。
一日限りの小さな即売会。
けれど、そこに集まった人々の顔は皆、真剣で、少しだけ緊張していた。
「こっちで間違いないわよね」
伊藤すずえが、ひかるの袖を軽く引いた。
「“蒼の書”、これがわたしたちの船出ね」
用意された机の前に、深町が持参した藍色の布をかけ、中央に『誓い録・第二号』を十冊ほど並べた。
その脇には創刊号が数部、さらに小田切の論考集『義の理論』、すずえの短編集『瞳の毒と白い手袋』も重ねられていく。
深町の詩と挿絵をまとめた冊子は、手製の栞が添えられていた。
栞には「蒼の書」の筆文字が細く書かれており、それを見ただけで、世界観が伝わるような気配をまとっていた。
ひかるは、小説の最終頁を開いたままにして展示した。
見せるためではなく、紙に宿る余白そのものを“語る言葉”にしたかった。
そう思って、ページをそっとひらいた。
机の上には、説明書きが置かれていた。
『蒼の書』
関係性文学小冊子。
語られぬ言葉、交わらぬ視線、その先にあるものをめぐって。
あえて「BL」とは書かれなかった。
けれど、そう読めば読める。
むしろ、読む人の中にある感性に委ねるための、限界ぎりぎりの曖昧さだった。
まもなく、来場者がぽつぽつと現れ始めた。
文士風の若い男性、袴姿の女学生、品のよい年配の婦人。
皆、静かに各ブースをまわり、冊子を手に取っては、頁をそっとめくっていく。
「……これ、すごく空気が違う」
どこかの女学生が、ひかるたちのブースの前で立ち止まり、ぽつりとつぶやいた。
「主従……ですか?」
その隣にいた友人らしき少女が訊ねる。
「ううん、でもそれだけじゃない。何か、もっと…静かな温度がある」
彼女たちは『誓い録』を手に取り、ページを繰りながら顔を見合わせ、やがて一冊を購入していった。
その姿を見送るひかるの胸の中で、ゆっくりと何かが解けていった。
読まれている。
自分の物語が、知らない誰かの手に渡っている。
その人の中で何かが生まれ、言葉にならぬまま、そっと胸に降り積もる。
ひとりの青年が近づいてきた。
無地の綿シャツに、くたびれたノートを抱えている。
彼は『義の理論』と『誓い録・第二号』をじっと見比べたあと、冊子を手にしてひかるに声をかけた。
「このふたりの関係――名前はありますか?」
ひかるは少し迷ったあと、静かに答えた。
「あります。でも、読んでくださる方が、それぞれの言葉で呼んでくださればと思っています」
青年は頷き、冊子を手にしたまま、しばらく黙ってページを眺めていた。
やがて、おもむろに財布を取り出し、小銭を手渡しながら言った。
「名のない関係、というのは、美しいものですね」
それは、ひかるが初めて耳にする種類の感想だった。
彼の言葉が、体の深いところに静かに落ちていくのを感じた。
ほかにも、多くの人が足を止め、語らず、微笑み、あるいは首をかしげながら冊子を手にしていった。
ある女学生は「詩にある余白が、まるで沈黙の会話のよう」と呟いた。
別の青年は「この作品の“距離感”は、文学的に扱える構造だ」と、友人に向けて熱心に語っていた。
一部の来場者は質問を投げかけてきた。
「この関係は、恋愛ですか?」
「どうして言葉で伝えないんですか?」
ひかるは、そのたびに、丁寧に、しかし曖昧に答えた。
「言葉で言えないことが、関係性にはあるのだと思います」
「ふたりにとって、それが最善だったのかもしれません」
やがて、陽が少し傾いてきた。
参道の石畳に、並んだ机の影が長く伸びる。
ブースに並んだ冊子は、少しずつ減っていた。
机の下の段ボール箱に詰めた部数も、すでに残りわずか。
視線が交わり、言葉が交わされ、想像が渡っていく。
それは、ただの販売ではなかった。
自分の内にある物語が、他者の心に静かに着地していく、その瞬間の連続だった。
蒼と榊原のあの物語は、もうひかるだけのものではない。
それを読んだ誰かの中で、名前を変え、姿を変え、語られていく。
ひかるは、机の上の『誓い録』をそっと撫でた。
その指先の下にある紙のぬくもりが、まるで遠くの誰かの体温のように感じられた。
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