転生腐女子、筆一本で大正ロマンを征く!〜美少年よ、吾が筆に舞え〜

中岡 始

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第6章 同志、紙面に集う〜初めての即売会(私設文藝市)

差し出された名刺

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夕暮れが寺の屋根を撫でていた。  
石畳が長い影を引き、回廊の柱は夕陽を受けて深い赤褐色をまとっている。  
文藝市も終盤を迎え、あれほどにぎわっていた境内は少しずつ人の気配が薄れはじめていた。

蒼の書の机の上には、わずかに残った冊子が並べられ、  
その脇では小田切が布をたたみ、深町とすずえが荷物を風呂敷に包んでいた。  
ひかるは、椅子の上に立って背伸びをしながら掲げていた看板を外し、静かに机の脚元に置いた。

一日が、終わる。  
物語が語られ、手渡され、笑いと涙と語りと熱に満ちた、濃密な時間だった。

ふと、ひかるは視線の先に立っている人物に気づいた。  
机の向こう、陽が傾きかけた境内の石畳の上に、一人の青年が静かに立っていた。

白いシャツに黒いベスト。  
肩から提げた革のノートが、どこか古書のような風合いを帯びている。  
姿勢は控えめで、しかしまっすぐな視線をこちらに向けていた。

彼の立ち方には、どこか“待つ人”の気配があった。  
それは、無理に話しかけるでもなく、かといって立ち去るでもなく、  
ただそこに在って、タイミングを測っているような、そんな沈黙だった。

ひかるがゆっくりと机の反対側に回ると、青年は一歩だけ近づき、帽子を軽く取った。  
静かな口調で言葉を紡ぐ。

「桃野ひかり様――」  
その声音は、思ったよりも低く、柔らかかった。  
「あなたの物語を、以前から読ませていただいていました」

その言葉に、ひかるの心拍が一瞬跳ね上がる。  
声に出さずとも、内心で問いかけていた。

この人は――まさか。

青年は、懐から名刺を取り出した。  
差し出されたそれには、整った文字でこう記されていた。

三条誠一  
春鏡社 編集部

指先が、ぴたりと止まる。  
名刺の縁をなぞりながら、ひかるは頭の中で何度も“本郷女学館 三条”の文字を思い出していた。

文藝帳に最初に手紙をくれた読者。  
行間を読み、関係性の空白に心を震わせ、自らの感情に“尊い”と名を与えた人。

あの感想が、どれほどひかるを支えたか。  
初めて“理解者”が存在することを信じられた瞬間だった。

それが、今、目の前にいるこの青年――

「……あの、三条さん……?」  
かろうじて出た声に、彼は頷いた。

「はい。少女文藝帳では、妹の名義を借りて投稿していました。  
当時は、あの誌面に自分の名を載せることにためらいがありまして……でも、どうしても、あの作品に感想を伝えたかった」

ひかるは、少し口を開けたまま言葉を探していた。  
女学生だとばかり思っていた。  
そうでなければ、あの文体と感性を、どうしてあんなに共鳴できたのか。

でも今、この青年の語る口調、その静かな熱を感じていると、  
ひかるは不思議な納得に包まれていた。

伝えることに、性別も名前も、必要なかったのかもしれない。  
ただ、感じて、言葉にして、届けようとしたその想いが、  
あの日の手紙にはあった。

三条は、ゆっくりと続けた。

「ずっと、言葉にできなかった熱を、あなたの物語が代わりに描いてくれた気がしました。  
語られぬ関係、届かぬ視線、そして、名前のない誓い――  
それらを、あなたは物語という形で描いてくれた」

彼の目には、微かな光が宿っていた。  
紙ではなく、肉声で、想いを受け取る。  
それは、ひかるにとって初めての体験だった。

「春鏡社では、いま、新しい文藝誌の立ち上げを準備しています。  
定型にとらわれない、静かで、それでいて熱を孕んだ作品を探しているところです。  
桃野ひかり様――どうか、商業誌でも、その言葉を紡いでいただけませんか」

ひかるは、名刺を胸元に引き寄せた。  
重みはない。けれど、手の中に確かな熱がある。  
これは、“表現の場”が、さらに広がっていく音だ。  
私的な創作から、公共の創作へ。  
個人の感動から、誰かの共有へ。

深町の笑い声が、回廊の向こうから聞こえる。  
すずえの荷物が崩れたらしく、小田切が小声で指示を出している。  
そこには、今までと同じ日常がある。

けれど、ひかるの中には、別の時間が静かに始まりかけていた。

ページが、また一枚、めくられる。  
今度は、その先に何があるのか、誰にもわからない。

ひかるは、名刺を見つめながら、静かに頷いた。

紙の匂い。夕焼けの色。  
足元に舞った落ち葉の音。

そのすべてが、次なる物語の幕開けを告げているようだった。
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