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第7章 編集者、名乗る〜そして“物語”は社会へ
再会と名乗り
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大正十三年の東京は、春が深まり、どこか街の空気が柔らかくなりはじめる頃だった。
山手線の振動がまだ地を這うようだった時代、銀座の裏通りにひっそりと佇む洋館風の建物。
その扉にかかる小さな銘板には、古風な明朝体で「春鏡社」と記されていた。
ひかるは、その前で一度、深く息を吸った。
手の中には、三条誠一から送られてきた封書。
中には簡潔な文面と、添付された企画案、そして最後に手書きの一文。
「あなたの言葉を、もっと広く届けたいと願っています」
その一文が、今も胸の中でゆっくりと反芻されていた。
創刊予定の文藝誌の構想や掲載形式、初回原稿案まで整った提案書は、まぎれもなく“本気”だった。
扉を押すと、しんとした空気が迎えた。
床には深緑の絨毯が敷かれ、壁は白漆喰に濃い木の梁が映えている。
廊下の先に、すりガラスの引き戸。中からは万年筆の走る音と、わずかな紙の匂いが漂ってきた。
受付の女性に案内され、ひかるは応接室へ通された。
背の低いソファと、楕円形の木机。
その奥、窓辺には革張りの椅子がひとつ。
机の端には、銀のインク壺とよく磨かれたガラスペンが置かれている。
間もなく、扉が控えめに叩かれ、開いた。
入ってきたのは、例の文藝市で見かけたあの青年――三条誠一だった。
彼はいつも通りの白いシャツに黒のベスト姿で、だが今日は少しだけ髪が整っているように見えた。
手には革表紙のノートではなく、封筒を一枚だけ持っていた。
「お待たせしました。桃野ひかり様ですね」
ひかるは、小さく会釈する。
「ご足労いただき、ありがとうございます」
そう言って彼が差し出した封筒の中には、一枚の便箋があった。
ひかるがその文字に目を通した瞬間、喉奥がふるりと震えた。
それは、少女文藝帳の投稿欄で読んだ、あの感想文――
名もなく届けられた、ただ「本郷女学館 三条」とだけ記された、あの手紙だった。
「……これを、あなたが」
「はい。あのときは、妹の名義を使って投稿しました。
少女文藝帳は、女性のための雑誌でしたから。
でも、それでもどうしても、あなたの作品に感想を伝えたかった」
声は穏やかで、まっすぐだった。
偽るでも、謝るでもなく、ただ真摯に、あのときの思いを包んでいた。
「わたし、ずっと、てっきり……」
「女学生だと?」
ひかるは思わず頷いた。
それは、驚きではあったが、不快ではなかった。
むしろ今、目の前にいるこの人物が、あの言葉を送ったのだと思うと、胸の奥に確かな筋が通ったような気がした。
「投書の最後に、“これは恋とは呼べない。でも、尊いと感じました”とありましたよね」
「ええ。あれは、蒼と榊原を見て感じたこと、そしてあなたの文章を読んで思ったこと、その両方です」
三条は一瞬だけ目を伏せ、それから顔を上げた。
「あなたの物語は、語られない部分が核心にある。
だからこそ、読む者の心に、静かに火を灯すんです。
あの一篇を読んで、わたしは……言葉を持たないままに、熱を抱えてしまった」
ひかるは、その表現に静かに目を見開いた。
自分が文章を書くとき、求めていたのは、まさに“言葉にできない熱”だった。
それが今、言葉として返ってきた。
「……うれしいです」
ひかるは素直に言った。
「誰かが、そんなふうに読んでくれたこと。
言葉にできないものを、届けるのが創作だと、わたしは思っていたから」
しばらく沈黙が流れた。
だが、それは重さのある沈黙ではなかった。
互いに手の中に残る、言葉の余韻を確かめ合うような静けさだった。
やがて三条は、革の鞄から一冊の原稿綴じを取り出した。
それは、文藝帳に載ったひかるの初めての短編、『その敬礼は、誓いに似ていた』だった。
彼は頁を開き、ひと節を静かに読み上げた。
「“その背中に、別れの気配があることを、彼は知っていた。
けれど、それを口にすれば、誓いではなくなってしまうと、彼は思った。”」
言葉が、室内に、しんと響いた。
空気の密度が変わる。
その一文が、あらためて、ふたりのあいだに確かな軸を与えた。
ひかるは、胸の奥で確かに感じていた。
これは、偶然ではなかった。
あの日、自分が妄想と呼んでいたものが、誰かの心に“物語”として届いた。
そして今、その物語が、さらに先へと進もうとしている。
三条がそっと言った。
「あなたとなら、言葉の限界を試せる気がします。
届けることと、語ること。その両方を信じて、形にしてみたい」
その声に、ひかるは小さく頷いた。
胸の内に、ゆっくりと、けれど確かに、火が灯っていくのを感じながら。
山手線の振動がまだ地を這うようだった時代、銀座の裏通りにひっそりと佇む洋館風の建物。
その扉にかかる小さな銘板には、古風な明朝体で「春鏡社」と記されていた。
ひかるは、その前で一度、深く息を吸った。
手の中には、三条誠一から送られてきた封書。
中には簡潔な文面と、添付された企画案、そして最後に手書きの一文。
「あなたの言葉を、もっと広く届けたいと願っています」
その一文が、今も胸の中でゆっくりと反芻されていた。
創刊予定の文藝誌の構想や掲載形式、初回原稿案まで整った提案書は、まぎれもなく“本気”だった。
扉を押すと、しんとした空気が迎えた。
床には深緑の絨毯が敷かれ、壁は白漆喰に濃い木の梁が映えている。
廊下の先に、すりガラスの引き戸。中からは万年筆の走る音と、わずかな紙の匂いが漂ってきた。
受付の女性に案内され、ひかるは応接室へ通された。
背の低いソファと、楕円形の木机。
その奥、窓辺には革張りの椅子がひとつ。
机の端には、銀のインク壺とよく磨かれたガラスペンが置かれている。
間もなく、扉が控えめに叩かれ、開いた。
入ってきたのは、例の文藝市で見かけたあの青年――三条誠一だった。
彼はいつも通りの白いシャツに黒のベスト姿で、だが今日は少しだけ髪が整っているように見えた。
手には革表紙のノートではなく、封筒を一枚だけ持っていた。
「お待たせしました。桃野ひかり様ですね」
ひかるは、小さく会釈する。
「ご足労いただき、ありがとうございます」
そう言って彼が差し出した封筒の中には、一枚の便箋があった。
ひかるがその文字に目を通した瞬間、喉奥がふるりと震えた。
それは、少女文藝帳の投稿欄で読んだ、あの感想文――
名もなく届けられた、ただ「本郷女学館 三条」とだけ記された、あの手紙だった。
「……これを、あなたが」
「はい。あのときは、妹の名義を使って投稿しました。
少女文藝帳は、女性のための雑誌でしたから。
でも、それでもどうしても、あなたの作品に感想を伝えたかった」
声は穏やかで、まっすぐだった。
偽るでも、謝るでもなく、ただ真摯に、あのときの思いを包んでいた。
「わたし、ずっと、てっきり……」
「女学生だと?」
ひかるは思わず頷いた。
それは、驚きではあったが、不快ではなかった。
むしろ今、目の前にいるこの人物が、あの言葉を送ったのだと思うと、胸の奥に確かな筋が通ったような気がした。
「投書の最後に、“これは恋とは呼べない。でも、尊いと感じました”とありましたよね」
「ええ。あれは、蒼と榊原を見て感じたこと、そしてあなたの文章を読んで思ったこと、その両方です」
三条は一瞬だけ目を伏せ、それから顔を上げた。
「あなたの物語は、語られない部分が核心にある。
だからこそ、読む者の心に、静かに火を灯すんです。
あの一篇を読んで、わたしは……言葉を持たないままに、熱を抱えてしまった」
ひかるは、その表現に静かに目を見開いた。
自分が文章を書くとき、求めていたのは、まさに“言葉にできない熱”だった。
それが今、言葉として返ってきた。
「……うれしいです」
ひかるは素直に言った。
「誰かが、そんなふうに読んでくれたこと。
言葉にできないものを、届けるのが創作だと、わたしは思っていたから」
しばらく沈黙が流れた。
だが、それは重さのある沈黙ではなかった。
互いに手の中に残る、言葉の余韻を確かめ合うような静けさだった。
やがて三条は、革の鞄から一冊の原稿綴じを取り出した。
それは、文藝帳に載ったひかるの初めての短編、『その敬礼は、誓いに似ていた』だった。
彼は頁を開き、ひと節を静かに読み上げた。
「“その背中に、別れの気配があることを、彼は知っていた。
けれど、それを口にすれば、誓いではなくなってしまうと、彼は思った。”」
言葉が、室内に、しんと響いた。
空気の密度が変わる。
その一文が、あらためて、ふたりのあいだに確かな軸を与えた。
ひかるは、胸の奥で確かに感じていた。
これは、偶然ではなかった。
あの日、自分が妄想と呼んでいたものが、誰かの心に“物語”として届いた。
そして今、その物語が、さらに先へと進もうとしている。
三条がそっと言った。
「あなたとなら、言葉の限界を試せる気がします。
届けることと、語ること。その両方を信じて、形にしてみたい」
その声に、ひかるは小さく頷いた。
胸の内に、ゆっくりと、けれど確かに、火が灯っていくのを感じながら。
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