転生腐女子、筆一本で大正ロマンを征く!〜美少年よ、吾が筆に舞え〜

中岡 始

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第7章 編集者、名乗る〜そして“物語”は社会へ

原稿用紙の向こうに、誰かが待っている

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春鏡社からの封筒が届いたのは、夕立の過ぎた静かな午後だった。  
濡れた庭の土が蒸し上がるようなにおいの中、風籠荘の玄関先でひかるはそれを受け取った。  
白く上質な封筒には、春鏡社の刻印が浮き出しており、封緘の糊も丁寧だった。  
中には、印刷された依頼状と、編集部からの簡潔なスケジュール表、そして三条の直筆の手紙が添えられていた。

「桃野ひかり様

この物語が、読者にとってただの物語ではなく、“誰かの心の奥に残る風景”となることを願っております。

春鏡社 編集部 三条誠一」

手紙の筆致は、以前よりもすこし柔らかかった。  
固さの中に、信頼を滲ませるような文字。  
ひかるはそれを両手で抱えながら、深く息をついた。

いよいよ、始まるのだ。  
自分だけのための妄想でもなく、同志と笑い合うための同人誌でもなく、  
世に出ることを前提にした“作品”を書くということ。

夜、机に原稿用紙の束を並べる。  
何も書かれていない紙の面積は、なぜこんなにも静かで、広くて、そして少しこわいのだろう。  
ひかるは万年筆を手に取り、深呼吸した。

初めての商業原稿。  
ページ数も、読者層も、ある程度想定されている。  
提出日も決まっていて、掲載号のテーマにも沿う必要がある。  
それらをすべて考えながら書くのは、今までの創作とはまるで違う感覚だった。

筆が、紙に触れる。  
ひかるは一行目をゆっくりと書き出す。

「春、夜汽車の窓に映る影があった」

榊原の視点から始まる物語。  
それは、別れてから二年後の時間軸。  
再会ではなく、回想でもなく、“今”の榊原の内側にある蒼の気配を書こうと決めていた。

榊原は、あの夜、蒼が言葉を発さなかった理由を、今も言葉にできずにいる。  
けれど、彼の不在そのものが、日々の中にうっすらと染み込んでいる。

机の上には、いつものように、蒼の後ろ姿を描いたスケッチが置かれていた。  
あの柔らかな線を目でなぞるたびに、ひかるは“萌え”を思い出す。  
初めて蒼を見たときの、喉の奥に溜まった小さな悲鳴。  
言葉にできなかったあの高鳴り。  
それは今も、自分の創作の中心にある。

商業原稿だからといって、そこから外れるつもりはない。  
万人に届ける作品にするために、最も必要なのは、  
“誰よりも自分が萌えている”ことだと、ひかるは思っていた。

指が、紙の上を滑っていく。  
蒼の不在を描く榊原。  
榊原の記憶に現れる蒼の手の仕草、視線の傾き、沈黙の余白。

これまで描いてきた物語の延長ではあるけれど、  
どこかで新しい時間が流れ始めているのを感じた。

語られることのなかった“その後”。  
読者にとっても、そして自分にとっても、初めて踏み込む領域だった。

頁が十枚、二十枚と埋まっていく。  
夜が更けても、筆を止める気にならなかった。

物語は、静かに未来へ向かっていた。

榊原が見つめる窓の外、夜汽車のガラスに映った人影。  
それは蒼ではない。けれど、蒼の残した何かだった。

「君があの日、言葉を飲み込んだことで、  
わたしは今も、その意味を考え続けている」

その一文を書き上げたとき、ひかるの胸にふと温かいものが灯った。

これは、読者に届ける言葉であると同時に、  
自分がもう一度、蒼と榊原の関係を信じるための物語なのだ。

窓の外では、夜風がやわらかく庭の植え込みを揺らしていた。  
障子の隙間から差し込む月の光が、原稿用紙の端を照らしている。

ひかるは手を止めて、少しだけ眼を閉じた。

商業誌に載るという現実の重み。  
万人に届くかもしれないという不安と期待。  
けれど、今ここにある言葉は、あの頃と何も変わっていない。

机の上に、原稿用紙の束が積まれていく。  
そこに綴られているのは、“言葉にできなかった感情”の軌跡。

筆を置きながら、ひかるは心の中でつぶやいた。

あなたが沈黙を選んだことで、  
わたしは、語るべき言葉を見つけることができた。

それが、きっとこの物語の核心なのだと。  
そしてそれを、誰かが受け取ってくれるかもしれないと、  
今は、ほんの少しだけ信じられる気がした。
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