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第7章 編集者、名乗る〜そして“物語”は社会へ
書くのは、誰のため?
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その晩、風籠荘の部屋に戻ったひかるは、ひとつ息をつくと、机の引き出しから分厚いノートを取り出した。
表紙は少し傷み、角がめくれている。けれど、手にすると、どこか安心する重みがあった。
これが、最初の「妄想ノート」。
蒼と榊原の関係が、まだ名前も姿もなかったころ、ひかるが夢中で書きつけた、あらゆる萌えの断片。
ページをめくるたびに、懐かしさと同時に、胸の奥がほんの少しだけ痛む。
「主従関係に見えるけど、互いの立場を曖昧にしたい」
「沈黙は愛情表現のひとつ」
「榊原が蒼の背を追う、あの視線にこそ温度がある」
「語らぬことは、拒絶ではなく信頼」
万年筆の濃淡が揺れていて、当時の筆圧の強さがそのまま紙に残っている。
ひかるは、それらの言葉にそっと指を滑らせた。
自分は、なぜ書き始めたのか。
最初に文章を綴った日の気持ちを、久しぶりに丁寧に思い出そうとした。
それは、誰かに褒められたくてでも、評価されたいからでもなかった。
ただ、「ここにいる」と証明するため。
自分の中にある想いが、形になり得ると信じたくて。
そして、それをいつか、誰かと分かち合いたくて。
視線をそらしているだけの二人が、なぜこんなにも胸を打つのか。
互いに名を呼ばず、言葉を尽くさず、それでも確かに在る関係性。
ひかるは、その“在るのに語られない”空白に魅せられていた。
机の端に置いた封筒には、今日受け取った三条からの手紙が入っている。
ひかるはそっと封を開け、手紙を取り出した。
その中の一節。
「あの二人の背中には、まだ言葉が足りないと思う。
物語が終わっても、彼らの間に流れる時間は続いているはずです。
わたしは、その続きを読みたいと願ってしまいます」
その文を読み返すうちに、胸の奥がじんわりと熱を帯びてきた。
蒼と榊原の物語。
自分の中では、あの“別れ”がすべてだった。
背を向ける蒼。
見送る榊原。
そして、互いに言葉を発さぬまま、立ち去るふたり。
それは、ひかるにとって“完成された余白”だった。
けれど、もし――
あの背中の先に、まだ語られていない時間があったとしたら?
沈黙の後の、また別の沈黙。
離れたまま、思い出だけが互いを温めるような夜。
あるいは、言葉にならぬまま、それでもまた出会ってしまう未来。
「妥協じゃない」
ひかるは、ぽつりと呟いた。
これは、ただ“読者のために書き換える”のではない。
ましてや、三条に気に入られるためでもない。
これは、自分自身の問いへの答えかもしれない。
「彼らの関係は、これからどうなるのか」
その問いに、自分の手で言葉を与えることができるなら。
ノートの空白の頁を開き、ペンを握る。
何も書かれていないその頁の広さが、今は希望のように見えた。
思い浮かぶのは、列車の中。
車窓に映る蒼の横顔。
傍らに誰もいない席。
そして、遠くの町で、似たような空を見上げる榊原の姿。
直接会わずとも、再会を描ける。
言葉を交わさずとも、再び物語を紡げる。
ふたりの“未来”を書いてみたい。
今まで踏み込まなかったその時間に、そっと筆を伸ばしてみたい。
ふと、脳裏に深町の手紙がよぎった。
「もし蒼が、未来で“言葉”を手にしたなら、それを誰に向けると思いますか?」
あの素朴な問いが、今ようやく自分の中で形になろうとしている。
ひかるはページの上に一行、ゆっくりと書いた。
「あなたが黙ることで、わたしは言葉を選べた」
筆先が紙を滑るとき、心が少し震えた。
この先、自分が何を書くのかは、まだわからない。
けれど、書かずにはいられない。
それだけは確かだった。
窓の外では、風が音もなく草を揺らしていた。
その音を聞きながら、ひかるはまた筆を取った。
書くとは、誰のために。
その問いに、今日からまた、少しずつ答えていくのだと決めながら。
表紙は少し傷み、角がめくれている。けれど、手にすると、どこか安心する重みがあった。
これが、最初の「妄想ノート」。
蒼と榊原の関係が、まだ名前も姿もなかったころ、ひかるが夢中で書きつけた、あらゆる萌えの断片。
ページをめくるたびに、懐かしさと同時に、胸の奥がほんの少しだけ痛む。
「主従関係に見えるけど、互いの立場を曖昧にしたい」
「沈黙は愛情表現のひとつ」
「榊原が蒼の背を追う、あの視線にこそ温度がある」
「語らぬことは、拒絶ではなく信頼」
万年筆の濃淡が揺れていて、当時の筆圧の強さがそのまま紙に残っている。
ひかるは、それらの言葉にそっと指を滑らせた。
自分は、なぜ書き始めたのか。
最初に文章を綴った日の気持ちを、久しぶりに丁寧に思い出そうとした。
それは、誰かに褒められたくてでも、評価されたいからでもなかった。
ただ、「ここにいる」と証明するため。
自分の中にある想いが、形になり得ると信じたくて。
そして、それをいつか、誰かと分かち合いたくて。
視線をそらしているだけの二人が、なぜこんなにも胸を打つのか。
互いに名を呼ばず、言葉を尽くさず、それでも確かに在る関係性。
ひかるは、その“在るのに語られない”空白に魅せられていた。
机の端に置いた封筒には、今日受け取った三条からの手紙が入っている。
ひかるはそっと封を開け、手紙を取り出した。
その中の一節。
「あの二人の背中には、まだ言葉が足りないと思う。
物語が終わっても、彼らの間に流れる時間は続いているはずです。
わたしは、その続きを読みたいと願ってしまいます」
その文を読み返すうちに、胸の奥がじんわりと熱を帯びてきた。
蒼と榊原の物語。
自分の中では、あの“別れ”がすべてだった。
背を向ける蒼。
見送る榊原。
そして、互いに言葉を発さぬまま、立ち去るふたり。
それは、ひかるにとって“完成された余白”だった。
けれど、もし――
あの背中の先に、まだ語られていない時間があったとしたら?
沈黙の後の、また別の沈黙。
離れたまま、思い出だけが互いを温めるような夜。
あるいは、言葉にならぬまま、それでもまた出会ってしまう未来。
「妥協じゃない」
ひかるは、ぽつりと呟いた。
これは、ただ“読者のために書き換える”のではない。
ましてや、三条に気に入られるためでもない。
これは、自分自身の問いへの答えかもしれない。
「彼らの関係は、これからどうなるのか」
その問いに、自分の手で言葉を与えることができるなら。
ノートの空白の頁を開き、ペンを握る。
何も書かれていないその頁の広さが、今は希望のように見えた。
思い浮かぶのは、列車の中。
車窓に映る蒼の横顔。
傍らに誰もいない席。
そして、遠くの町で、似たような空を見上げる榊原の姿。
直接会わずとも、再会を描ける。
言葉を交わさずとも、再び物語を紡げる。
ふたりの“未来”を書いてみたい。
今まで踏み込まなかったその時間に、そっと筆を伸ばしてみたい。
ふと、脳裏に深町の手紙がよぎった。
「もし蒼が、未来で“言葉”を手にしたなら、それを誰に向けると思いますか?」
あの素朴な問いが、今ようやく自分の中で形になろうとしている。
ひかるはページの上に一行、ゆっくりと書いた。
「あなたが黙ることで、わたしは言葉を選べた」
筆先が紙を滑るとき、心が少し震えた。
この先、自分が何を書くのかは、まだわからない。
けれど、書かずにはいられない。
それだけは確かだった。
窓の外では、風が音もなく草を揺らしていた。
その音を聞きながら、ひかるはまた筆を取った。
書くとは、誰のために。
その問いに、今日からまた、少しずつ答えていくのだと決めながら。
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