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朝日の向こうに、言葉はなかった
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障子の隙間から差し込んだ淡い朝日が、畳の上をゆっくりと染めていた。
まだ誰も起きていない。旅館の朝は静かだった。
遠くから微かに聞こえる廊下の足音と、どこかの部屋で立てられる湯の音だけが、この世界に時間が流れていることを知らせていた。
凪は、ふと目を開けた。
浅く眠っていたせいか、意識がゆっくりと浮上してきて、すぐに現実の中に身を置くことができた。
布団の中で身体を動かす。
背中に触れていた掛け布団の温もりが、少しずつ失われていく。
視線を右に向けると、隣の布団に結翔が眠っていた。
目を閉じたまま、動かない。
その寝顔に、嘘はなかった。
だけど、凪はそれが本当に眠っている顔なのか、確信が持てなかった。
昨夜のあの沈黙が、今もなおこの空間を支配していた。
何も返ってこなかった。
声も、視線も。
自分の言葉は、どこかの空間に吸い込まれたまま、戻ってこなかった。
あの時の“無言”が何より重かった。
拒絶なのか、困惑なのか、それともただの保留だったのか。
判断できるほど冷静ではなかった。
ただひとつだけ分かったのは、沈黙がこんなにも苦いということだった。
ゆっくりと上体を起こす。
布団の中から手を抜き、軽く伸びをした。
浴衣の裾がわずかに崩れ、首元に朝の空気が触れた。
障子越しに差し込む光が、凪の横顔を淡く照らしていた。
顔の半分にだけ陽が当たっていて、もう片方は薄い影の中にあった。
その光と影の境界線が、今の心の輪郭と似ていた。
傍らにあったスマホに手を伸ばす。
画面をつけると、まだ通知は静かで、時間は午前六時を少し過ぎていた。
写真アプリを立ち上げ、数枚撮った中から一枚を選ぶ。
それは、障子に差し込む朝日を撮った一枚だった。
画角の隅に、ぼんやりと布団の輪郭が写り込んでいる。
その中に、結翔の寝姿がかすかに見えた。
はっきりとは映っていない。
だが、そこに“誰かがいる”と分かるだけの存在感がある。
数秒、画面を見つめる。
写真を見ているはずなのに、頭の中では昨夜の一言が何度も反芻されていた。
「俺さ……たぶん、君に“負けてもいい”って思いかけてる」
それを言ったときの自分の声、言葉を受け止めなかった沈黙、布団の中の時間、そして結翔の背中。
すべてが曖昧に浮かび上がっては、また消えていく。
指先が、投稿画面のテキスト入力欄に触れる。
一度だけ深呼吸して、短く言葉を打ち込んだ。
「触れられる距離が、いちばん遠い」
ほんの一文だけ。
説明も、比喩も、補足も要らなかった。
この言葉以上に、今の気持ちを正確に表すものは思いつかなかった。
投稿ボタンを押すと、数秒の読み込みの後に、画面が更新された。
小さなハートマークがひとつ、またひとつと増えていく。
通知が点滅し始める。
けれど、凪はそれを見ない。
スマホをそっと伏せ、隣の布団を再び見る。
結翔は相変わらず、微動だにしなかった。
心の中で何かが、すっと静かになっていくのを感じた。
あの言葉を返されなかったことは、たぶんもう変えられない。
でも、言ったことを後悔するつもりはなかった。
言葉にしなければ、すべては未完成のままだった。
だから、これは自分の中での終わり方であり、始まりだった。
そのとき、廊下から誰かの足音が近づいてきた。
朝の支度が始まりつつある気配が、外の世界に戻る合図のように思えた。
凪は、布団を丁寧に整え、立ち上がる。
結翔の布団には目をやらないようにしながら、浴衣の裾を直し、静かに障子を開ける。
外の空気は少し冷たかった。
朝日が庭の石畳を斜めに照らしていた。
その光の眩しさが、昨夜の沈黙よりずっと遠く感じられた。
そしてSNSの向こう側では、凪の投稿が静かに広まりはじめていた。
「何があったの」
「詩人すぎる」
「これはもう……片想い確定案件……」
その中に、まゆと御堂筋のスクショと短いコメントも混ざっていた。
「これは……完全に“来てる”。観測しました」
「……ねえ、これ結翔くん、どう返すつもりなの?」
凪の耳には届かない言葉たちが、画面の中で交錯していた。
けれど、凪の中にはもう、何も返ってこないことへの覚悟が少しずつ、育ち始めていた。
まだ誰も起きていない。旅館の朝は静かだった。
遠くから微かに聞こえる廊下の足音と、どこかの部屋で立てられる湯の音だけが、この世界に時間が流れていることを知らせていた。
凪は、ふと目を開けた。
浅く眠っていたせいか、意識がゆっくりと浮上してきて、すぐに現実の中に身を置くことができた。
布団の中で身体を動かす。
背中に触れていた掛け布団の温もりが、少しずつ失われていく。
視線を右に向けると、隣の布団に結翔が眠っていた。
目を閉じたまま、動かない。
その寝顔に、嘘はなかった。
だけど、凪はそれが本当に眠っている顔なのか、確信が持てなかった。
昨夜のあの沈黙が、今もなおこの空間を支配していた。
何も返ってこなかった。
声も、視線も。
自分の言葉は、どこかの空間に吸い込まれたまま、戻ってこなかった。
あの時の“無言”が何より重かった。
拒絶なのか、困惑なのか、それともただの保留だったのか。
判断できるほど冷静ではなかった。
ただひとつだけ分かったのは、沈黙がこんなにも苦いということだった。
ゆっくりと上体を起こす。
布団の中から手を抜き、軽く伸びをした。
浴衣の裾がわずかに崩れ、首元に朝の空気が触れた。
障子越しに差し込む光が、凪の横顔を淡く照らしていた。
顔の半分にだけ陽が当たっていて、もう片方は薄い影の中にあった。
その光と影の境界線が、今の心の輪郭と似ていた。
傍らにあったスマホに手を伸ばす。
画面をつけると、まだ通知は静かで、時間は午前六時を少し過ぎていた。
写真アプリを立ち上げ、数枚撮った中から一枚を選ぶ。
それは、障子に差し込む朝日を撮った一枚だった。
画角の隅に、ぼんやりと布団の輪郭が写り込んでいる。
その中に、結翔の寝姿がかすかに見えた。
はっきりとは映っていない。
だが、そこに“誰かがいる”と分かるだけの存在感がある。
数秒、画面を見つめる。
写真を見ているはずなのに、頭の中では昨夜の一言が何度も反芻されていた。
「俺さ……たぶん、君に“負けてもいい”って思いかけてる」
それを言ったときの自分の声、言葉を受け止めなかった沈黙、布団の中の時間、そして結翔の背中。
すべてが曖昧に浮かび上がっては、また消えていく。
指先が、投稿画面のテキスト入力欄に触れる。
一度だけ深呼吸して、短く言葉を打ち込んだ。
「触れられる距離が、いちばん遠い」
ほんの一文だけ。
説明も、比喩も、補足も要らなかった。
この言葉以上に、今の気持ちを正確に表すものは思いつかなかった。
投稿ボタンを押すと、数秒の読み込みの後に、画面が更新された。
小さなハートマークがひとつ、またひとつと増えていく。
通知が点滅し始める。
けれど、凪はそれを見ない。
スマホをそっと伏せ、隣の布団を再び見る。
結翔は相変わらず、微動だにしなかった。
心の中で何かが、すっと静かになっていくのを感じた。
あの言葉を返されなかったことは、たぶんもう変えられない。
でも、言ったことを後悔するつもりはなかった。
言葉にしなければ、すべては未完成のままだった。
だから、これは自分の中での終わり方であり、始まりだった。
そのとき、廊下から誰かの足音が近づいてきた。
朝の支度が始まりつつある気配が、外の世界に戻る合図のように思えた。
凪は、布団を丁寧に整え、立ち上がる。
結翔の布団には目をやらないようにしながら、浴衣の裾を直し、静かに障子を開ける。
外の空気は少し冷たかった。
朝日が庭の石畳を斜めに照らしていた。
その光の眩しさが、昨夜の沈黙よりずっと遠く感じられた。
そしてSNSの向こう側では、凪の投稿が静かに広まりはじめていた。
「何があったの」
「詩人すぎる」
「これはもう……片想い確定案件……」
その中に、まゆと御堂筋のスクショと短いコメントも混ざっていた。
「これは……完全に“来てる”。観測しました」
「……ねえ、これ結翔くん、どう返すつもりなの?」
凪の耳には届かない言葉たちが、画面の中で交錯していた。
けれど、凪の中にはもう、何も返ってこないことへの覚悟が少しずつ、育ち始めていた。
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