おまえが堕ちろ

越知 学

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 迷いを断ち切るために、いつもなら媚びるヒモ男のように相手の様子を伺いながら何度も頭を下げその場を立ち去るのを敢えて封印し、振り返らなかった。
 実際に振り返らないことで自分の決意が固まる保証なんてない。
 しかし僕は形から入るタイプだと自負しており、こんな感じで自分で勝手に納得したなんのエビデンスもない方法に縋りがちだ。
 母が停めた駐車場は職員兼用であるため、平日にも関わらず多くの車が大規模なお見合いをしていた。
 その中でも僕が乗り込もうとしている車は、一層黒光りの目立つ男らしい顔をしており、休日に洗車してもらったのだと容易に判断できた。
 迷っていたと言いつつも、100人いれば1人くらい苦笑いしてくれそうなくだらないことを考えられるくらいには心に余裕があった。
 乗り込むと、久々の後部座席であるうえに高級感あふれるそのシートが、動き出してもなお乗り物に乗っている感覚さえ味併せてくれなかった。このシートはきっと人をダメにするだろう。
 体が勝手に進行方向に進むのを楽しんでいるのも束の間、母がオーディオをビデオからミュージックに切り替えたことで、既に引退された日本を代表する歌姫の曲が流れ始めた。
 この心を浄化していく音楽と、パワフルかつ繊細な歌声はきっと多くの人に元気や勇気を与えたに違いない。
 しかし僕に与えられたのはそれだけではなかった。
 その曲は僕に――恐怖をもたらした。
 理由は単純明快。僕が恐怖を感じる場面にその曲を、歌声をたくさん聴いたからだ。
 一人なのにどこからか「うらめしや」と聞こえれば背筋が凍るように、それを聴けば僕は忽ち嫌な記憶を想起する。
 故にその歌手は疎か、曲にさえなんの落ち度もない。
 悪いというか、馬鹿なのは僕の方だ。
 実家に帰り、数日後学校付近の下宿所に戻るため駅まで送ってもらっていた際に、この歌手の歌を聴きながら現実を忘れられる非日常から地獄の日常に戻る過程をほぼ毎週繰り返していた。
 他にもこういったとんでもない理由で僕は複数の素晴らしい曲を敬遠している。
 さっきまでのワクワクが一転、自分の不甲斐なさで心が重くなっても浮いている感覚は変わらずそこにあり続けた。
 心の重さと足運びの重さは比例するが、歩いていなければ当然適応外になるようだ。
 そのような心の重さを見抜いたのかは定かではないが、母は明るく振舞っているように感じた。
 今回に限らず、ずっと一緒にいると素の部分というか、母親らしいと言える力強い気持ちが声で分かるのだが、久し振りに会うとその口調が柔らかく感じる。
 これは本当に母が演出しているのか、僕のセンサーが鈍っているのか分からない。
 なんにせよ、僕はこれ以上歌姫の曲に意識を向けることなく、ただ母の話を聞いては相槌を繰り返した。
 どんな歌詞もどんな歌声も、塞いでしまえばなにも感じない。
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