三〇代、独身、子なし、非美女弁護士。転生し(たつもりになっ)て、人生再始動!

藍条森也

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九章

あたしが一体、何をした⁉ 『何もしなかったのよ(by 母親)』

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んん 静かな音を立ててドアが閉まった。その瞬間、外界と自分が切りはなされ、世界から取り残されたような気がして真梨子は心細くなった。そんな気分を振り払おうと真梨子は首を左右に激しく振った。
 「な~に、言ってんの! 明日もあさっても世界はつづく。さあ、仕事、仕事!」
 自分を励ますためにわざと大声を張り上げて次の裁判のための書類を取り出した。牧野夫妻対豊田事件。うん、これならいい。うちの事務所にしてはまともな事件だ。
 真梨子は少し気分よくなった。
 新居に越したばかりの新婚夫婦が近所の主婦にいやがらせを受け、損害賠償を求めている事件だ。もちろん、依頼人は夫妻側。普通なら島村が引き受けるような事件ではない。それを真梨子自身が説得した。新妻側に土地持ちの親戚がいることを利用して『彼女にいい印象をもってもらえれば土地持ちの親戚を紹介してもらえますよ!』と主張して引き受けさせたのだ。
 真梨子の理想から言えばスケールは小さい。それでも、人助けにはちかいない。困っている人の力になれればどんなささやかなことでも気分はいい。少なくとも金のためにセクハラ親父やキレたテロリストの弁護をするよりずっとましだ。
 この事件に没頭し、夫妻を助けることができたなら、きっと気分も晴れるだろう。真梨子は自分にそう言い聞かせながら仕事にとりかかった。
 丹念に書類を調べ、告訴内容を点検した。前例を調べ、頭のなかで方針を組み立てる。そうしているうちに徐々に興奮がおさまり、冷静になってきた。鴻志の姿を思い浮かべても怒り狂うこともなく、想像の唾を吐きかける程度ですむようになった。
 ただひとつ、鴻志が最後に言った台詞だけが耳の奥にこびりついている。
 『世間さま』
 鴻志はそう言った。自分の『師匠』は『世間さま』なのだと。
 「……そうよね。『人を殺したら死んで償え』と言っているのはあたしたちだし、『犯罪者の気持ちを理解してやるべきだなんて、信じられない偽善者』、『被害者よりも加害者を大事にする人でなし』も、全部ぜんぶ、あたしたち自身の言っていること。あいつの言うことのどれひとつとったって、あたしたち自身の言っていないことなんてなかったわ」
 『べらべらとまくし立てた殺戮正当化の根拠はすべて、日本が支持する世界正義の総元締めに教わったとそういったのだ。
 自分自身、そうではなかったか。殺人犯が死刑にされないと知って『何で死刑のしないの⁉』と叫んだことが何度あった? そもそも、弁護士になったのは『被害者よりも加害者が大事にされる社会』に怒りを抱いたからではなかったか。
 ――あいつの言葉にあたしが感じた苛立ちや怒り、憎悪、その他諸々の割りきれない思い。そのすべては森山鴻志自身が何年にもわたって感じてきたってこと……?
 自分もまた、彼を傷つけ、苦しめてきた人間のひとり……。
 そこまで思いを巡らせたところ真梨子はハッとなった。恐怖に駆られたように椅子から立ちあがった。頭に浮かんだ思いを消そうとするかのように部屋のなかをうろつき周り、無意味に両腕を振りまわす。
 「な、何言ってんの……! いくら傷つけられたからって他人を傷つけていいことになるわけないじゃない。そんなの常識よ。そうよ、気にすることないわよ、あんなやつ……」
 自分を納得させるために無理やり声に出してみる。言っている最中に、しかし、社会の側は『傷つけられたことに対する報復』を認めているのだと言うことに気がついてしまった。気づきたくなどないけど、気づいてしまう。
 自分たちの不公平さを見せつけられて真梨子は落ち込みかけた。その寸前で何とか立ちどまり、頭を強く振って鴻志のことを追い出した。意識を書類に戻す。この仕事に没頭することですべてを忘れようとした。
 事実関係の確認のために依頼人に電話しようとした。その寸前、携帯電話がかかってきた。スーツの内ポケットから携帯を取り出す。
 「はい……えっ、秋子? 何よ、こんな時間に。仕事中よ」
 電話してきたのは大学時代の友人、河村かわむら秋子あきこだった。美人で、度胸があって、はた迷惑なぐらい行動力抜群。大学時代は他の大学にまで名前のとどろいた名物女王さまだった。
 そして、仕切り屋。とにかく、何でもかんでも自分の思い通りにことを進めないと気のすまないわがまま娘。友だちと言っても秋子のほうが勝手にそう決めつけたと言うほうが正しい。
 そうは言っても、真梨子としては屈折した感謝の気持ちをもってもいる。中学、高校と、デートもせず、男の子の話題にも乗らず、勉強ばかりしていた真梨子は周囲から煙たがられ、ろくに友だちもいなかった。もともとさほど社交的でもないし、そのままなら大学もひとりで過ごしていただろう。それがなぜか秋子に気にいられ、引っ張り回されたおかげで、いまも付き合いがつづく友人グループの一員に入れたし、友だち同士のスキーや旅行にも参加できた。秋子が大学時代を豊かにしてくれた恩人であることはまちがいない。
 真梨子の初体験の相手は秋子が道端ですれちがい様、尻をつかんで振り向かせ、無理やりくっつけてくれた相手だった。秋子がいなければいまだに未経験のままだったかも知れない。それを思うとさすがにゾっとする。
 だから、一応、感謝はしている。してはいるのだけど……。
 ――あんなに高ピーで押し付けがましくなきゃ、素直に感謝する気にもなるんだけど。
 そんな思いにため息を付きながら、真梨子は話を聞いた。
 「えっ? 美里が婚約? うそ!」
 真梨子は思わず叫んでいた。ショックだった。北野きたの美里みさとは友人グループのなかで真梨子をのぞけば唯一の独身者。独立した経営コンサルタントを営む真梨子以上のキャリア・ウーマン。結婚なんかに興味はないと広言していた。そんな美里が間近にいたから真梨子も少しは安心していられた。もし、結婚できないまま四〇になって、他がみんなかわいい子供に囲まれて暮らしていても、美里とだけは気楽なシングルトン同士の絆を保っていられると思っていたのに……。
 このままでは自分ひとり、家庭をもつこともできずに他人の団欒を物欲しそうに涎を流してのぞき見するおばさんになってしまう!
 ――ああ、神さま!
 真梨子は心のなかで天に向かって叫んだ。
 裏切られた思いだった。今日はすでに憎っくきSF作家に裏切られたというのにまたしても。それも、今度は一〇年来の友人に……。
 ――一日に二度もこんな手ひどい裏切りに合うなんて、あたしがいったい何をしたと言うんです⁉
 『何もしなかったのよ』
 神の声ならぬ母親の声が響いた。
 『あたしの言う通り、おしゃれして、デートして、男を見る目を磨いて、さっさと手頃な相手を捕まえておけばよかったのよ。それをしないから見てごらんなさい。このざまじゃないの。このままじゃあなた、灰色のおばさんになって、若い詐欺師にころりとだまされて、他の女と遊ぶための金を貢ぎまくることになるわよ』
 母親ならきっとそう言うだろう。それが全面的に正しく思えて真梨子は心底、落ち込んだ。
 『そうなのよお』
 電話の向こうからメランコリーやさびしさとは無縁な秋子の陽気な声がした。
 『あたしも驚いちゃったあ。それも、相手はなんと二一歳らしいわよ』
 「二一⁉」
 驚きのあまり、落ち込みも吹きとんだ。
 「ちょっと! なによそれ? 児童福祉法違反よ。どこでそんな坊や、見つけてきたのよ?」
 『仕事相手の息子なんだって。画家の卵らしいわよ。それも、親の金で遊びながら絵を描いてるボンボンとはちがって、画家になるのを親に反対されたもんだから、家を飛び出して、高校も中退して、バイトで食いつなぎながら画家を目指している純真坊やなんだって。うまくやったもんよねえ』
 ――つまり、若くて純真な芸術青年を金で買いとったわけね。
 真梨子は意地悪く考えた。
 美里ならありそうなことだ。何しろ美里は大学時代から大の派手好きで負けずぎらい。グループ内では秋子の対抗馬で、ことあるごとに張り合っていた。このふたりが話をはじめるとまわりの空気そのものが静電気の塊と化すかのよう。真梨子を含め、他のメンバーは親イヌのケンカを身をすくめて見守る小イヌのように縮こまっておさまるのをまつのだ。
 秋子が大学教授の妻の座を射止め、玉の輿に乗ったときの美里の荒れ模様は尋常ではなかった。ほとんど番長グループのような勢いで夜の町を練り歩き、飲み屋をはしごした。真梨子たちも付き合わされ、さんざん愚痴を聞かされた。そんなもの、誰ひとりとして付き合いたくなどなかったのだが、後が怖くて誰も断われなかったのだ。
 そんな美里のことだ。それ以来ずっと、秋子の鼻をあかす方法を探っていたにちがいない。そして、秋子とはまるで逆の上玉に狙いをつけたわけだ。秋子の相手は社会的な地位も金もあるとは言え、五〇代のおじさま。ぴちぴちした若さで勝負、というわけだ。
 ――女同士の意地の張り合いに利用されるなんて、その子もかわいそうに。
 まだ見ぬ青年に心から同情して、真梨子はこっそりため息をついた。
 電話の向こうから秋子の声がした。
 『つまりは、若くて純真な芸術青年を金で買いとったわけよ』
 真梨子は思っても口にしないことを平気で言うのが秋子である。
 『それでね。今夜、その坊やのお披露目をするんですって』
 「お披露目? あたし、そんなの聞いてない」
 『だからいま、教えてあげたじゃない。八時に《W&G》でよ。美里は《D&G》にしたがったけど、あいつにはもったいないわ。無理やり《W&G》にかえてやったわよ。他のみんなもくるからあんたも必ずくること。服装は……そうね。普段着よりもちょっとフォーマルなぐらいでいいわ。くれぐれも言っとくけど、まちがっても地味でお固い弁護士ルックなんかではこないこと。あたしが教えてあげたんだから恥をかかせないでよ。いいわね?』
 「ちょ、ちょっとまってよ。勝手に決めないでよ。あたしにも都合ってものが……」
 『あたしの誘いを断わるっての?』
 「そうは言わないけど……」
 秋子の声に微妙な低気圧の気配を感じ、真梨子は首をすくめた。秋子に押されるとすぐに下手になってしまう。いつものことだが、我ながらかなり情けない。
 ――あたしってもしかして番長の子分?
 真梨子は深刻に疑った。
 向こうが親分風を吹かせまくるから仕方なく奉っているという部分はあるのだが……そもそも、親分風を受け入れてしまうというのが子分人間の証明かも知れない。と言って、美里みたいに空気をバチバチいわせて張り合うなんてとてもできない……。
 『じゃあ、決まりね。それじゃね~』
 秋子は一方的に納得して、上機嫌な声で電話を切った。その瞬間、真梨子は顔面からデスクに突っ伏した。
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