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三〇章
思い出した。やるべきこと
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それからのことはふたりにはスローモーションのように見えた。すべてがひどくゆっくりと動く。信じられないほど鮮明にひとつひとつの光景が、しかし、まるで現実感を感じさせることなく目に写った。
車のフロントがガードレールに接触する。ガードレールがゆがむ。車がさらに突き進む。ガードレールが大きく湾曲し、中央から紙のように左右に切れる。アスファルトに打ちこまれた棒が勢いに引きずられて飛び出してくる。ちぎれたガードレールがその勢いで大きく左右に開く。その間をフロントをひしゃげさせた車が飛び出して行く。
ふたりを乗せた車は宙に飛び出した。鴻志と真梨子を無重力状態が襲った。その無重力の時間はふたりにとって一瞬のようでもあり、永遠のようでもあった。
それから急に体が後ろ後方にひっぱり上げられる感覚が襲った。車が飛び出した勢いのまま、前方に向かって放物線を描いて落下しているのだ。
車は盛大な水音を立てて道路下の川に飛び込んだ。フロントが川底に衝突し、砕ける感触が伝わった。一度バウンドし、今度は後方部分が叩きつけられた。ふたりは顔を青ざめさせ、鴻志はダッシュボードに、真梨子はハンドルに、それぞれ突っ伏すようにしてじっと固まっていた。シートベルトが胸に食いこんでひりひり痛む。窓の外を見るみる水が覆った。ふたりはこのまま車が沈んで行くことを覚悟した。だが、沈む気配はなかった。車はそのままだった。
「とまった……な」
鴻志が呟く。
「え、ええ……」
真梨子が答える。
その川はちょうど、車の屋根が出るぐらいの深さだったのだ。
ふたりはしばし青ざめた顔のまま沈黙していた。先に我に返ったのは鴻志だった。
「何やってんだ、お前はっ!」
雷鳴のような怒鳴り声が車内に満ちる。このときばかりはさすがにおとなの度量も、辛抱強さも消し飛んでいた。怒りに任せて怒鳴り散らした。
「森山鴻志を殺す気かっ! そんなことして世界中の人間にどう詫びるつもりだ! 死にたいならひとりで死ねっ、他人を巻き込むな!」
「ご、ごめんなさい……」
真梨子はようやくそれだけを言った。とりあえずはそう言うしかない。恐怖よりも自分のバカさ加減に対する恥ずかしさでいっぱいで、他の言葉が出てこない。
「……別に死ぬ気なんて。事故を起こしたくて起こしたわけじゃないし、ただ……」
「何でもいい! お前、二度と他人を乗せるな!」
鴻志は荒々しく叫ぶと、引きちぎるような勢いでシートベルトを外した。ドアに手をかけ、外に出ようとする。それを見て真梨子も外に出ようとした。鴻志がふと気がついたように言った。
「おい、ちょっと待て。こんな事故起こして……身元がばれたらまずくないか?」
「……たしかに」
真梨子は不安な面持ちでうなずいた。
現役の弁護士と世界的作家。そのふたりがスピードを出しすぎた挙句にガードレールをぶち破って川に飛び込んだとなれば、高校生が無免許運転で事故を起こした程度の騒ぎてばすむまい。今後の仕事にも関わるだろうし、事によったら無理やり記者会見を開かせられ、カメラのフラッシュとマイクが立ち並ぶ前で『騒ぎを起こしたことを心からお詫び申し上げます』などと、上辺だけのお決まりの文句を述べる儀式をさせられかねない。そんなのは絶対、ごめんだ。うとましい。
ふたりはあわてて車内から身元が割れそうなものの回収をはじめた。後部座席の下までのぞき込んで目につくものを片っ端からポケットに詰め込む。
鴻志はいかにも不機嫌そうにぶちぶちとこぼしはじめた。
「……一昔、いや、二昔前ならなあ。有名人はこの程度のことはお目こぼしがあったんだが。いまは有名人ほど厳しく監視されるからなあ。無名のやつらはやりたい放題だってのに。有名になる甲斐なんざありゃしない。凡人どものひがみ根性のせいで窮屈な世の中になったもんだ」
良識家をもって任ずる人々が聞けば眉をつり上げて怒るにちがいない不道徳なぼやきをこぼしながら、どうにか回収作業をすませた。
水の重さに逆らって体ごとドアを開けた。水がどっと車内に流れ込んでくる。全身をずぶ濡れにしながら外に出る。胸まで水につけながら何とか岸に向かって歩き出す。真梨子が声をかけた。
「待って」
「……何だ?」
振り返る鴻志の声と表情ときたら『不機嫌』に額縁をつけて金持ちの集まるオークションに出展したよう。真梨子は一瞬、気後れした。
「その……ナンバープレート、外さないと……」
鴻志は一瞬、ぽかんとした。それからいまいましそうに舌打ちすると車に戻った。その表情を見た真梨子は『今度会ったらぶっ殺してやる』と思っているにちがいないと確信した。
ふたりは川底の石をひろい、全身濡れネズミになりながらナンバープレートを外しにかかった。真梨子が平たい石を隙間に差し込み、鴻志が上から石を打ち下ろす。流れる水のせいでどんなに力を込めても情けないほどわずかな力しか加わらない。舌打ちしながら何度もなんどもくり返す。流れる水に全身を浸し、しぶきを顔にかけながらの作業は気が狂って叫びたくなるほどもどかしい。
いまが夏で水がぬるいのが救いだ。これが真冬だったりしたら氷のような水にさらされて低体温症になりかねない。そうなったら生命に関わる。生命を選ぶか、つるし上げを選ぶかという、不毛な二者択一をせずにすむのはたしかにありがたい。
だからと言って、腹立たしさがおさまるわけでもない。とうとう鴻志は頭にきた。石を放り出す。立ち上がる。車に捕まり、力任せに蹴りつけた。発情中の雄牛も頬を赤らめるような怒声付きで。
それをくり返し、ようやくナンバープレートを外すことができた。ポケットをパンパンにふくらませ、外すというより引きちぎったナンバープレートを手にふたりはようやく岸に上がった。
ふたりとも疲れ果てていた。ずぶ濡れであることを気にする余裕もなく、砂利だらけの岸に倒れるようにして仰むけに寝転がる。雲ひとつないあざやかな夜空。あざやかな月が無数の星を従えて輝いている。月のウサギがころころと笑っているようで無性に腹が立つ。 しばらく、荒い息をついてひたすら胸を上下させていた。
「……ったく」
ようやく、鴻志が言った。
「なんなんだよ、いったい。殺されかけなきゃならん、どんなことをおれがした……って、まあ、毎度のことだけど」
「……ごめんなさい」
真梨子は体を起こし、鴻志の顔をのぞき込みながら言った。
「……バカをしてみたかったのよ。何か、思いっきりバカなこと。あなたの話を聞いて、あたしもあなたと同じだと思って……」
「おれと?」
「そう。あなたは目的のために人生を失ったんでしょう? あたしも同じ。小さい頃から弁護士になることばかり考えてきて、他のことはみんな、後まわしにしてきた。人並みのことは何ひとつ経験してないってことに気がついたのよ。それで……」
真梨子は一端、言葉を切った。思いきるように顔を振ると、話しはじめた。
「無性にバカなことをやってみたくなったの。他の人たちが学生時代にやるようなことを。何て言うか、その……」
真梨子は言い淀んだ。頬をかすかに赤く染めて、視線をさ迷わせた。鴻志はそんな真梨子を見てかすかに息を吐いた。
「……つまり、おれみたいになりたくなかったわけだ」
「……そう」
真梨子は消え入りそうな声で答えた。頬はますます赤く染まり、何ともバツの悪い表情になっている。鴻志はそんな真梨子を哀れみを交えた視線で見た。
「それで、バカをやりたくなった。そうすることで少しでも失った時間を取り戻したくて」
「……そう。その通りよ。でも、あたしのことだけじゃないわ。その……あなたにも少しでも味わってほしくて……もっと、その……前を向いて歩いてほしいから……」
そんな流行歌のフレーズみたいなことを現実に他人に向かって言うことがあるなどとは夢にも思ったことのない真梨子である。恥ずかしさに全身を縮こませた。自分がひどく青くさい子供に思えた。
「気持ちはわかるがね」
鴻志は静かに言った。
「失った時間は決して取り戻せない。決してだ。取り戻せないものを取り戻そうとしてあがけば、それこそいまを失うことになる。そうなればまた悔いが積み重なるだけだ。過ぎた時間を取り戻そうとするのは無意味だ。いま、できることをやらないとな」
「そう……ね。その通りよね」
真梨子はさらに縮こまり、吐息をついた。ひたすらに恥ずかしく、いたたまれない。この場にいたくはないけれど逃げることさえ考えつかない。唇をかみ締め、視線をさ迷わす子供っぽい表情に、そんな思いがありありと浮かんでいた。
「はあ……」
そんな真梨子を見ながら、鴻志はわざとらしいほど大きく、やけくそのようなため息をついた。
「わかったよ、もう。全部、白状するよ」
「えっ?」
真梨子はいぶかしい思いで鴻志を見た。
「こんなこと、他人に話すつもりはなかったんだが……また連れ出されて殺されかけちゃたまらんからな」
「どういうこと?」
鴻志は月のウサギを見上げながらいった。
「お前に言ったことな。あれ、本音ってわけじゃないんだ」
「ええっ!」
真梨子は叫んだ。本気で驚いた。鴻志の言葉の数々は真梨子の心の奥底まで深く、深く、突きささり、消えない傷となっていた。その衝撃に、鴻志の言葉は彼の魂の奥底から吐き出されたものだと信じていた。
それが本音ではないなんて。地球が宇宙の中心だと信じていたのに、実は太陽のまわりをまわる惑星のひとつに過ぎないのだと知らされた中世の神学者のように、真梨子の心のなかでがらがらと音を立てて崩壊するものがあった。
真梨子は眠れる森の美女に襲いかかる暴漢の勢いで鴻志につめよった。覆い被さるようにして叫んだ。
「それ、どうゆうこと! 本音じゃないってどういう意味! まさか、本当に売名のために騒ぎを起こすつもりだけだったってこと」
鴻志はきまり悪そうに唇をゆがませた。
「……いや、本音は本音なんだが。もう一枚、裏があってな」
「どんな裏よ!」
鴻志はふと、夜空を見上げた。ふいに、遠い目となった。その目のあまりの深さ、静けさに、真梨子は言葉を失った。鴻志はやがて話し出した。
「『戦争にはもう飽きた。うんざりだ』。そう言ったろう?」
突然、話が変わったことに戸惑いながら真梨子はうなずいた。
「おれが子供の頃に読んだマンガのなかでは、人類は二一世紀には宇宙に飛び出して異星人とも付き合っていたんだ。それがどうだよ。いまだにテロだ、戦争だと、身内同士でガチャガチャやっていやがって。戦争のニュースを聞いて携帯を壁に叩きつけた。頭にきた。腹が立った。怒り狂った。そして、思った。『もうたくさんだ! こんな世の中、おれが変えてやる!』とな」
「変えてやる?」
「そうだ。こんな、身内どうして争っているような世の中、根こそぎ変えてやる。そう思った。そして、気がついた。それができるのは、おれたち社会被害者だと言うことにな」
「どういうこと?」
「テロも、戦争も、結局は正義が引き起こす。端から見てどう思えようと、やっている本人はまちがいなく正義として行っている。そして、正義の本質とは何かと言えば復讐だ。
『やつらはひどいことをした。だから、報いを受けさせなければならない』
それが、正義。そして、テロや戦争の元凶。正義に異を唱える者はこう言われる。
『被害者より加害者を大事にする人でなし』
だが、おれに、おれたち社会被害者にその言い分は通用しない。何しろ、おれたちを殺しているのはそう言って正義を振りかざす連中自身なんだ。おれたちに向かってその台詞を言うことは、おれたちに自分たち自身を殺す権利を与えることになる。だから、おれは世界中の人間に向かって言うことにした。
『おれたちを殺している罪を死んで償え。それがいやなら、務めろ。自分の罪を許してもらうために他人の罪を許すように』とな」
「……じゃあ、そのために?」
「そうだ。すべての人間に向かってそう言うために、死刑にするだの何だのと口にした。おれたちは滅ぼされる。それは仕方ない。子育てなんてただでさえ苦労の連続なんだ。その上、よけいな苦労まで背負い込むよう強制することなんてできるわけがない。だが、もし、おれたちを殺すことが『権利』ではなく『罪』なのだと認識されれば、おれたちを殺している罪を許してもらうために、他人の罪を許すよう努めるようになれば、世界はいまほど暴力に満ちた場所ではなくなるだろう。おれたちが滅ぼされることで世界が少しでもましな場所になるのなら……」
鴻志はいったん、言葉を切ってからつづけた。
「……滅ぼされる甲斐もある」
その言葉に真梨子は自分が鴻志を見損なっていたことを知った。そこにいたのは自分自身の人生を武器に世界と戦おうとする人間、自分自身のすべてを捧げて世界をより良い場所に作り替えようとしている人間だった。
鴻志のことを心配していた。何とか救いたいと思っていた。とんでもないことだった。そんな必要はなかったのだ。森山鴻志は自分の不幸に押しつぶされ、自暴自棄になるような人間ではなかった。あくまでも未来のために生き抜こうとする人間だったのだ。
鴻志はゆっくりと立ちあがった。
そのまま、歩き去った。
真梨子は岸辺に座り込んだまま、前髪から水の滴をたらしながらその後ろ姿をいつまでも見送っていた。やがて、鴻志の姿が小さくなり、豆粒のようになり、そして、消え去った。そのとき、真梨子は見えない姿に向かって微笑んで見せた。
一度は見失った夢。
進むべき道。
それを再び見出したことに彼女は気づいていた。
車のフロントがガードレールに接触する。ガードレールがゆがむ。車がさらに突き進む。ガードレールが大きく湾曲し、中央から紙のように左右に切れる。アスファルトに打ちこまれた棒が勢いに引きずられて飛び出してくる。ちぎれたガードレールがその勢いで大きく左右に開く。その間をフロントをひしゃげさせた車が飛び出して行く。
ふたりを乗せた車は宙に飛び出した。鴻志と真梨子を無重力状態が襲った。その無重力の時間はふたりにとって一瞬のようでもあり、永遠のようでもあった。
それから急に体が後ろ後方にひっぱり上げられる感覚が襲った。車が飛び出した勢いのまま、前方に向かって放物線を描いて落下しているのだ。
車は盛大な水音を立てて道路下の川に飛び込んだ。フロントが川底に衝突し、砕ける感触が伝わった。一度バウンドし、今度は後方部分が叩きつけられた。ふたりは顔を青ざめさせ、鴻志はダッシュボードに、真梨子はハンドルに、それぞれ突っ伏すようにしてじっと固まっていた。シートベルトが胸に食いこんでひりひり痛む。窓の外を見るみる水が覆った。ふたりはこのまま車が沈んで行くことを覚悟した。だが、沈む気配はなかった。車はそのままだった。
「とまった……な」
鴻志が呟く。
「え、ええ……」
真梨子が答える。
その川はちょうど、車の屋根が出るぐらいの深さだったのだ。
ふたりはしばし青ざめた顔のまま沈黙していた。先に我に返ったのは鴻志だった。
「何やってんだ、お前はっ!」
雷鳴のような怒鳴り声が車内に満ちる。このときばかりはさすがにおとなの度量も、辛抱強さも消し飛んでいた。怒りに任せて怒鳴り散らした。
「森山鴻志を殺す気かっ! そんなことして世界中の人間にどう詫びるつもりだ! 死にたいならひとりで死ねっ、他人を巻き込むな!」
「ご、ごめんなさい……」
真梨子はようやくそれだけを言った。とりあえずはそう言うしかない。恐怖よりも自分のバカさ加減に対する恥ずかしさでいっぱいで、他の言葉が出てこない。
「……別に死ぬ気なんて。事故を起こしたくて起こしたわけじゃないし、ただ……」
「何でもいい! お前、二度と他人を乗せるな!」
鴻志は荒々しく叫ぶと、引きちぎるような勢いでシートベルトを外した。ドアに手をかけ、外に出ようとする。それを見て真梨子も外に出ようとした。鴻志がふと気がついたように言った。
「おい、ちょっと待て。こんな事故起こして……身元がばれたらまずくないか?」
「……たしかに」
真梨子は不安な面持ちでうなずいた。
現役の弁護士と世界的作家。そのふたりがスピードを出しすぎた挙句にガードレールをぶち破って川に飛び込んだとなれば、高校生が無免許運転で事故を起こした程度の騒ぎてばすむまい。今後の仕事にも関わるだろうし、事によったら無理やり記者会見を開かせられ、カメラのフラッシュとマイクが立ち並ぶ前で『騒ぎを起こしたことを心からお詫び申し上げます』などと、上辺だけのお決まりの文句を述べる儀式をさせられかねない。そんなのは絶対、ごめんだ。うとましい。
ふたりはあわてて車内から身元が割れそうなものの回収をはじめた。後部座席の下までのぞき込んで目につくものを片っ端からポケットに詰め込む。
鴻志はいかにも不機嫌そうにぶちぶちとこぼしはじめた。
「……一昔、いや、二昔前ならなあ。有名人はこの程度のことはお目こぼしがあったんだが。いまは有名人ほど厳しく監視されるからなあ。無名のやつらはやりたい放題だってのに。有名になる甲斐なんざありゃしない。凡人どものひがみ根性のせいで窮屈な世の中になったもんだ」
良識家をもって任ずる人々が聞けば眉をつり上げて怒るにちがいない不道徳なぼやきをこぼしながら、どうにか回収作業をすませた。
水の重さに逆らって体ごとドアを開けた。水がどっと車内に流れ込んでくる。全身をずぶ濡れにしながら外に出る。胸まで水につけながら何とか岸に向かって歩き出す。真梨子が声をかけた。
「待って」
「……何だ?」
振り返る鴻志の声と表情ときたら『不機嫌』に額縁をつけて金持ちの集まるオークションに出展したよう。真梨子は一瞬、気後れした。
「その……ナンバープレート、外さないと……」
鴻志は一瞬、ぽかんとした。それからいまいましそうに舌打ちすると車に戻った。その表情を見た真梨子は『今度会ったらぶっ殺してやる』と思っているにちがいないと確信した。
ふたりは川底の石をひろい、全身濡れネズミになりながらナンバープレートを外しにかかった。真梨子が平たい石を隙間に差し込み、鴻志が上から石を打ち下ろす。流れる水のせいでどんなに力を込めても情けないほどわずかな力しか加わらない。舌打ちしながら何度もなんどもくり返す。流れる水に全身を浸し、しぶきを顔にかけながらの作業は気が狂って叫びたくなるほどもどかしい。
いまが夏で水がぬるいのが救いだ。これが真冬だったりしたら氷のような水にさらされて低体温症になりかねない。そうなったら生命に関わる。生命を選ぶか、つるし上げを選ぶかという、不毛な二者択一をせずにすむのはたしかにありがたい。
だからと言って、腹立たしさがおさまるわけでもない。とうとう鴻志は頭にきた。石を放り出す。立ち上がる。車に捕まり、力任せに蹴りつけた。発情中の雄牛も頬を赤らめるような怒声付きで。
それをくり返し、ようやくナンバープレートを外すことができた。ポケットをパンパンにふくらませ、外すというより引きちぎったナンバープレートを手にふたりはようやく岸に上がった。
ふたりとも疲れ果てていた。ずぶ濡れであることを気にする余裕もなく、砂利だらけの岸に倒れるようにして仰むけに寝転がる。雲ひとつないあざやかな夜空。あざやかな月が無数の星を従えて輝いている。月のウサギがころころと笑っているようで無性に腹が立つ。 しばらく、荒い息をついてひたすら胸を上下させていた。
「……ったく」
ようやく、鴻志が言った。
「なんなんだよ、いったい。殺されかけなきゃならん、どんなことをおれがした……って、まあ、毎度のことだけど」
「……ごめんなさい」
真梨子は体を起こし、鴻志の顔をのぞき込みながら言った。
「……バカをしてみたかったのよ。何か、思いっきりバカなこと。あなたの話を聞いて、あたしもあなたと同じだと思って……」
「おれと?」
「そう。あなたは目的のために人生を失ったんでしょう? あたしも同じ。小さい頃から弁護士になることばかり考えてきて、他のことはみんな、後まわしにしてきた。人並みのことは何ひとつ経験してないってことに気がついたのよ。それで……」
真梨子は一端、言葉を切った。思いきるように顔を振ると、話しはじめた。
「無性にバカなことをやってみたくなったの。他の人たちが学生時代にやるようなことを。何て言うか、その……」
真梨子は言い淀んだ。頬をかすかに赤く染めて、視線をさ迷わせた。鴻志はそんな真梨子を見てかすかに息を吐いた。
「……つまり、おれみたいになりたくなかったわけだ」
「……そう」
真梨子は消え入りそうな声で答えた。頬はますます赤く染まり、何ともバツの悪い表情になっている。鴻志はそんな真梨子を哀れみを交えた視線で見た。
「それで、バカをやりたくなった。そうすることで少しでも失った時間を取り戻したくて」
「……そう。その通りよ。でも、あたしのことだけじゃないわ。その……あなたにも少しでも味わってほしくて……もっと、その……前を向いて歩いてほしいから……」
そんな流行歌のフレーズみたいなことを現実に他人に向かって言うことがあるなどとは夢にも思ったことのない真梨子である。恥ずかしさに全身を縮こませた。自分がひどく青くさい子供に思えた。
「気持ちはわかるがね」
鴻志は静かに言った。
「失った時間は決して取り戻せない。決してだ。取り戻せないものを取り戻そうとしてあがけば、それこそいまを失うことになる。そうなればまた悔いが積み重なるだけだ。過ぎた時間を取り戻そうとするのは無意味だ。いま、できることをやらないとな」
「そう……ね。その通りよね」
真梨子はさらに縮こまり、吐息をついた。ひたすらに恥ずかしく、いたたまれない。この場にいたくはないけれど逃げることさえ考えつかない。唇をかみ締め、視線をさ迷わす子供っぽい表情に、そんな思いがありありと浮かんでいた。
「はあ……」
そんな真梨子を見ながら、鴻志はわざとらしいほど大きく、やけくそのようなため息をついた。
「わかったよ、もう。全部、白状するよ」
「えっ?」
真梨子はいぶかしい思いで鴻志を見た。
「こんなこと、他人に話すつもりはなかったんだが……また連れ出されて殺されかけちゃたまらんからな」
「どういうこと?」
鴻志は月のウサギを見上げながらいった。
「お前に言ったことな。あれ、本音ってわけじゃないんだ」
「ええっ!」
真梨子は叫んだ。本気で驚いた。鴻志の言葉の数々は真梨子の心の奥底まで深く、深く、突きささり、消えない傷となっていた。その衝撃に、鴻志の言葉は彼の魂の奥底から吐き出されたものだと信じていた。
それが本音ではないなんて。地球が宇宙の中心だと信じていたのに、実は太陽のまわりをまわる惑星のひとつに過ぎないのだと知らされた中世の神学者のように、真梨子の心のなかでがらがらと音を立てて崩壊するものがあった。
真梨子は眠れる森の美女に襲いかかる暴漢の勢いで鴻志につめよった。覆い被さるようにして叫んだ。
「それ、どうゆうこと! 本音じゃないってどういう意味! まさか、本当に売名のために騒ぎを起こすつもりだけだったってこと」
鴻志はきまり悪そうに唇をゆがませた。
「……いや、本音は本音なんだが。もう一枚、裏があってな」
「どんな裏よ!」
鴻志はふと、夜空を見上げた。ふいに、遠い目となった。その目のあまりの深さ、静けさに、真梨子は言葉を失った。鴻志はやがて話し出した。
「『戦争にはもう飽きた。うんざりだ』。そう言ったろう?」
突然、話が変わったことに戸惑いながら真梨子はうなずいた。
「おれが子供の頃に読んだマンガのなかでは、人類は二一世紀には宇宙に飛び出して異星人とも付き合っていたんだ。それがどうだよ。いまだにテロだ、戦争だと、身内同士でガチャガチャやっていやがって。戦争のニュースを聞いて携帯を壁に叩きつけた。頭にきた。腹が立った。怒り狂った。そして、思った。『もうたくさんだ! こんな世の中、おれが変えてやる!』とな」
「変えてやる?」
「そうだ。こんな、身内どうして争っているような世の中、根こそぎ変えてやる。そう思った。そして、気がついた。それができるのは、おれたち社会被害者だと言うことにな」
「どういうこと?」
「テロも、戦争も、結局は正義が引き起こす。端から見てどう思えようと、やっている本人はまちがいなく正義として行っている。そして、正義の本質とは何かと言えば復讐だ。
『やつらはひどいことをした。だから、報いを受けさせなければならない』
それが、正義。そして、テロや戦争の元凶。正義に異を唱える者はこう言われる。
『被害者より加害者を大事にする人でなし』
だが、おれに、おれたち社会被害者にその言い分は通用しない。何しろ、おれたちを殺しているのはそう言って正義を振りかざす連中自身なんだ。おれたちに向かってその台詞を言うことは、おれたちに自分たち自身を殺す権利を与えることになる。だから、おれは世界中の人間に向かって言うことにした。
『おれたちを殺している罪を死んで償え。それがいやなら、務めろ。自分の罪を許してもらうために他人の罪を許すように』とな」
「……じゃあ、そのために?」
「そうだ。すべての人間に向かってそう言うために、死刑にするだの何だのと口にした。おれたちは滅ぼされる。それは仕方ない。子育てなんてただでさえ苦労の連続なんだ。その上、よけいな苦労まで背負い込むよう強制することなんてできるわけがない。だが、もし、おれたちを殺すことが『権利』ではなく『罪』なのだと認識されれば、おれたちを殺している罪を許してもらうために、他人の罪を許すよう努めるようになれば、世界はいまほど暴力に満ちた場所ではなくなるだろう。おれたちが滅ぼされることで世界が少しでもましな場所になるのなら……」
鴻志はいったん、言葉を切ってからつづけた。
「……滅ぼされる甲斐もある」
その言葉に真梨子は自分が鴻志を見損なっていたことを知った。そこにいたのは自分自身の人生を武器に世界と戦おうとする人間、自分自身のすべてを捧げて世界をより良い場所に作り替えようとしている人間だった。
鴻志のことを心配していた。何とか救いたいと思っていた。とんでもないことだった。そんな必要はなかったのだ。森山鴻志は自分の不幸に押しつぶされ、自暴自棄になるような人間ではなかった。あくまでも未来のために生き抜こうとする人間だったのだ。
鴻志はゆっくりと立ちあがった。
そのまま、歩き去った。
真梨子は岸辺に座り込んだまま、前髪から水の滴をたらしながらその後ろ姿をいつまでも見送っていた。やがて、鴻志の姿が小さくなり、豆粒のようになり、そして、消え去った。そのとき、真梨子は見えない姿に向かって微笑んで見せた。
一度は見失った夢。
進むべき道。
それを再び見出したことに彼女は気づいていた。
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そこは、数百年分の備品や資材が山と積まれ、あまりの混沌ぶりに探検隊が遭難したとまで噂される、王家最大の禁足地。
絶望的な光景を前に、ミカが覚悟を決めてスキルを発動した瞬間――世界は、彼女の「お片付け」が持つ真の力に震撼することになる。
これは、地味スキルでうっかり国のすべてを最適化してしまった元社畜令嬢が、カタブツな騎士団長や有能すぎる皇帝陛下にその価値を見出され、なぜか過保護に甘やかされてしまう、お仕事改革ファンタジー。
転生したら世界一の御曹司だった〜巨乳エルフメイド10人と美少女騎士に溺愛されています〜
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