三〇代、独身、子なし、非美女弁護士。転生し(たつもりになっ)て、人生再始動!

藍条森也

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三一章

嫌いな上司をひっぱたき『辞めます』。人生の快感、これに極まる!

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  一ヶ月振りに島村武雄弁護士事務所にやってきた真梨子を迎えたのは彼女の予想通り、金の亡者な所長、島村武雄の泡をふいた怒声だった。
 『客もいないのにクーラーつけるなんて電気代がもったいない』と言う理由で、島村武雄弁護士事務所では八月に入っても依頼人の来る直前といる間だけしか冷房が入らない。
 オフィスの予定表には島村自らが作成した『冷房予定表』がでかでかと張っており、そこには依頼人が来る時間、その何分前に冷房を入れ、オフィスを涼しくしておくかなどが細かく指定され、分単位で書き込まれている。
 『この予定表があるだけでオフィスの不快指数が三〇パーセントは上がる』と、毎年、職員たちを嘆かせる真夏の悪夢である。
 その真夏の悪夢に支配された暑苦しいオフィスの空気をさらに暑苦しくさせるような島村のわめき声が響き渡った。
 「一ヶ月も何してたんだ、お前は! 依頼人を放っぽり出して大損だぞ。給料の返上や減給くらいじゃすまないからな!」
 島村が大人気なくわめき散らすのはいつものこととして、職員たちが驚いたのはそれを平然と聞き流す真梨子の態度だった。髪を切り、服装もすっかり変えてイメージチェンジしたその姿もさることながら、態度が以前とまるでちがう。以前の真梨子はいつでも苛々した感じで、不満を抱えていそうな、いかにも居心地の悪い感じのする女だった。友だちにしたいとは思わない、もっとはっきり言ってしまえば、あまり側にいてほしくない、という存在だった。
 いまの真梨子はまるでちがう。何ともおちついた感じで毅然とした様子。かつてはもっさりした髪に覆われ、暗く沈み込んでいた目はいまやそのまわりをすっきりと開放され、明るく、生きいきと輝いている。その輝きはわめき立てる島村の目などよりよっぽど力強かった。怒りの暴風雨を前に毅然としてたたずむその姿には、どこか女王めいた風格さえ漂っているようだった。
 服装からしてちがう。アイボリーのスーツにソフトなオレンジ色のシャツなどという明るくてフェミニンな色の服は以前の真梨子なら決して着たりはしなかった。おまけに上着の前をとめず、胸のふくらみを強調するかのように堂々とシャツ姿を見せつけている。
 これもまた、以前の真梨子からは想像できない。以前の真梨子は体型を隠すかのようにいついかなるときもスーツの前ボタンをきちんととめていたものだ。それがいまは……。
 いったい彼女に何があったのかと、事務所中の人間が興味津々の体で真梨子を見つめていた。
 島村はまだまだ怒鳴りつづける気のようだった。
 「だいたい、あの世界的金ヅルはどうしたんだ! お前が担当したいと言うから任せたんだぞ、それなのに怒らせて帰すわ、その後まるで音沙汰ないわ、どうなってるんだ! まさかお前、あいつを抱き込んで別の事務所に移るつもりじゃ……」
 突然だった。突然、肉が肉を激しく叩く音が響き、島村の怒声を断ち切った。何の予備動作もなくいきなり、真梨子が島村の頬を張り飛ばしたのだ。
 島村は予想もしたことのない反撃に怒鳴るのも忘れ、何が起きたのか理解できない目で真梨子を見、まわりの職員たちは声を上げ、身を乗り出してその様を見ていた。
 真梨子は舞台を支配する主演女優よろしく懐から辞表を取り出すと、島村の胸に投げつけた。振り向き様、一言、
 「辞めます」
 職員たちから歓声があがった。
 真梨子は島村に背を向け、見られないようにしながら感激に身をふるわせた。
 気に入らない上司を張り飛ばして辞表を叩きつけるこの快感。世界中の務め人が一度はやってみたいにちがいない。
 世界中の務め人の夢を叶えるという快挙を為し遂げたその快感に酔いながら、真梨子は出口に向かって歩き出した。その前に風のようなすばやさで小山のような肉体が立ちはだかった。
 荒井啓子だった。
 恰幅もよければそれ以上に度胸のいい『事務所の裏番』たるおふくろさんは、年輪を重ねた厳しい目で真梨子をにらみつけた。真梨子は見返した。唐突に、おふくろさんは柔和な笑顔となった。手にした多くの封筒を差し出す。
 「はいよ。あんたの依頼人たちの書類一式」
 真梨子は封筒を受けとりながら驚いた目でおふくろさんを見た。おふくろさんは粗野なほど力強い、しかし、たしかな愛情の感じられる目で『職場の娘』のひとりを見つめていた。
 「わかってたよ。あんたはもともと、あの金の亡者の下にいられる人間じゃないってことはね。やっと、本来の自分を取り戻したようだね。何があったか知らないけど……よかったね」
 その言葉に真梨子は涙があふれそうになった。彼女は知っていたのだ。愚痴や泣き言をこぼしたことがあるわけではない。それでも、事務所の母親として『娘』の気持ちは手にとるように察していたのだ。この八年間、真梨子が感じていた苦悩も、葛藤も、そのすべてを。そしていま、真梨子が本来の人生を取り戻そうとしていることを悟って笑顔でエールを送ってくれている。その暖かさに真梨子は彼女が本当の母親のように思えた。子供に返ってそのたくましい胸にすがり付き、泣きじゃくりたい気持ちに刈られたほど。
 真梨子はそんな気持ちになったことに気づいて照れくさそうに微笑した。さすがにこの歳になってそこまではできない。入社して一、二年目ならできたかも知れない。気持ちのままに行動し、満足感を得られたかも知れない。それを思うと自分の人生に戻ることをここまで引き延ばしてきたことが悔やまれる。まったく、人生には『ふさわしい時』というものがあるものだ。
 真梨子はしがみついて泣くかわりに渡された封筒を掲げ、心からの思いを込めて微笑んだ。
 「ありがとう、おふくろさん。あなたに会えただけでこの事務所にきた甲斐があったと思えるわ」
 「がんばんなよ」
 「ええ。もう二度と……」
 『もう二度と』なんなのか。それを聞く必要はおふくろさんにはなかった。彼女には真梨子の思いが手にとるようにわかっていたのだから。
 おふくろさんはその巨体からは想像もできない、ダンスのように軽やかな体裁きで身を横にずらした。その脇を真梨子が通りすぎる。島村が泡を噴いて追いかける。
 「おい、こら、まてっ! やめるって、お前やっぱり、あいつを抱き込んでどこか別の事務所に移るつもりだな! そんなことは許さんぞ! 置き土産にあいつだけは置いていけ!」
 わめき散らし、怒鳴り散らし、放っておけば真梨子の髪をひっつかんでオフィス内に戻しかねない島村を、おふくろさんが後ろからがっしりと羽交い締めにした。
 『オリンピックに金銭欲種目があれば金メダル確実!』と、豪語してはばからない島村も力ではおふくろさんにはとうていかなわない。全身の力を込めても一歩も進めず、それどころかずるずると引きずり戻され、駄々っ児のように――と言うか、駄々っ児そのもの――手足をじたばたさせるのが精一杯。
 「裏切りものぉっ!」
 との、島村の金銭欲の叫びを聞きながら、真梨子は事務所を出た。後ろ手に勢いよくドアをしめる。大きく息を吸い込んだ。両腕を広げ、背筋を伸ばした。真梨子はいま、かつてない心からの解放感を味わっていた。
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