嘘告からはじまるカップルスローライフ《朱夏編第一話完結》

藍条森也

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朱夏編第一話

三章 名付け論争

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 「かんぱ~い!」
 歴史を感じさせる畳敷きの六畳間。厚い壁と障子戸とに囲まれた部屋のなかに笑苗えなの陽気な声が響いた。
 帰国してはじめての夜。笑苗えないつきは自分たちの家の、自分たちの部屋で、お互いに寝間着に着替え、よく冷えたビールを注いだグラスを打ちあわせていた。
 いまでこそいつきたちの名義となっているが、もともとはいつきの面倒を見てくれた祖父の家であり、祖父の死後はいつきの父親の名義になっていた。それを、いつきが大学を卒業した際に、
 「これで、お前も一人前だから」
 という理由で、いつきの名義に変更することを申し出た。そこでいつきが、
 「おれと笑苗えなの家だから」
 という理由で、自分と笑苗えなの共同名義とした。
 かくして、晴れて『夫婦の家』になったわけである。
 慶吾けいごみお雅史まさふみとあきらの二組の夫婦も一緒に住むことが決まっていたので、そのために多少のリフォームはした。とはいえ、基本的には古い日本家屋。代々、いつきの一族が住みつづけてきた、古民家と言ってもいいほどに古くて無骨な家だ。
 それだけに頑丈な作りであり、すでに一〇〇年以上の歴史をもつ家だが、いまどきの、三~四〇年で駄目になってしまう新築家屋よりよっぽど長持ちするだろう。
 大家族が当たり前の農家の家とあって、広さも充分。そのために、三組の夫婦が同居していてもそれぞれの部屋を確保できている。
 今頃、慶吾けいごみお雅史まさふみとあきらの二組も自分の部屋でそれぞれに『夫婦の時間』を楽しんでいることだろう。
 そのなかで、笑苗えないつきは寝間着に着替えてリラックスし、お互いにあぐらをかいて向かい合わせに座って晩酌を楽しんでいるのだった。
 ゴッゴッゴッ、と、笑苗えなは勢いよくグラスを傾け、白い泡が一杯のビールを豪快に喉に流し込む。『ぷはあ~』と、満面の笑顔で昔の親父みたいな息をつく。
 「思いきり働いて、お風呂入って、ビール飲んで寝る。これぞ、人生の幸せよねえ」
 笑苗えなは片手を頬に当ててコロコロ笑う。その表情がなんとも愛らしい。
 笑苗えなはとくに酒に弱いというわけではないのだが、とにかくすぐに顔に出るタイプ。ビール一杯ですぐに顔が真っ赤になってしまうので、大学時代から『こいつにアルコール検知器はいらないな』と言われていたものだ。
 その体質は三年間の海外暮らしを経てもかわることはなく、いまも飲んだ途端に頬が桜色に染まっている。そんな上気した顔で片手を頬に当ててコロコロ笑っているのだ。
 もともとが正統派アイドルを思わせるかわいい顔立ち。常に、その容姿をもってスクールカースト上位に君臨してきた美女子。そんな美女子が酒に酔って上気した顔でコロコロと笑っている。
 愛らしさと色っぽさとが絶妙にマッチして、これがもうたまらなく魅力的。
 もし、この姿をネットにあげようものなら、たちまち大バズりしてゴマンという数の男性ファンができるにちがいない。もちろん、そんなことはいつきが許しはしないわけだが。
 そんな美女子を独り占めできている幸運な夫はいま、愛らしくも色っぽい妻の姿を堪能しながら幸せな微笑みを浮かべている。
 「ああ、そうだな」
 と、妻の言葉に同意した。
 もちろん、若くて、健康で、人目をはばからずにイチャつくバカップルのことであるから『寝る』と言っても辞書的な意味での『寝る』ではない。
 おとなな意味での『寝る』である。
 そりゃあもう『幸せ』と思うのが当たり前。とは言え――。
 気になるのは音の面。
 なにしろ、古い日本家屋。防音設備などなにもない。頑丈な作りだけあって壁も厚いので、その点が救いだがやはり、声漏れは気になる。
 ――でもまあ、慶吾けいごたちは三年間、この家で暮らしてきたわけだしな。案外、大丈夫なのかもな。
 そう思い、とりあえず自分を安心させるいつきであった。
 そこで、笑苗えながふと気づいた。
 「あ、そうだ。自分の家に帰ってきたわけだし、もうIUDとってもいいかな?」
 IUD。
 子宮内避妊具。
 ポリエチレン製の器具に銅のコイルを巻いたもので、これを子宮内に入れておくと銅から発生するイオンが、精子が卵子に到達することを防ぐ。
 その避妊成功率はコンドームよりも高く、ピルと同程度とされている。ただし、性病の感染を防げるわけではないので、コンドームとの併用が推奨されている。
 ピルとちがって副作用の心配もほとんどないし一度、入れてしまえば一〇年はもつという優れもの。ただし、子宮の形によっては入れてもすぐに落ちてしまうこともあるそうだが、笑苗えなの場合は幸運にも安定して入れておくことができた。
 学生の身で妊娠するわけにはいかないし、視察旅行から帰ってきたら三人家族になっていた……などいうことになろうものなら、
 「なにしに行ったんだ⁉」
 という全方向からのツッコみを受けることは明白。と言うわけで、大学時代にIUDを入れて以来ずっとそのまま。
 ちなみに、みおとあきらも笑苗えなと一緒に入れている。いまも入れたままかは知らないが。
 しかし、こうして帰ってきた以上、もはやなんの遠慮もいらないはず。IUDをとって、自然の流れに任せてもいいはずだった。しかし――。
 いつきは妻の言葉に首をかしげた。
 「いや、でも、おれたちだけならともかく慶吾けいごたちもいるんだ。同居人の都合を無視して子作りというわけにもいかないだろう」
 「あ~、そっか。同時期に妊娠してもまずいしねえ」
 ひとつ屋根の下に妊婦が三人……などということになったら『地獄』などと言うのも生ぬるいありさまとなるだろう。
 「そういうことだ。だから、みんなできちんと話して、どうするかを決めよう。それまでは入れておこう」
 「そうね。残念だけど、苗樹なえぎに会うのはもう少し先になるかあ」
 「なえぎ? 誰のことだ?」
 「あたしたちの子どもよ、もちろん」
 もちろん、と、笑苗えなは胸を張って強調した。
 「笑苗えなの『苗』といつきの『樹』で苗樹なえぎ。いい名前でしょ?」
 これなら、男女どっちにも使えるしね。
 と、笑苗えなは桜色に染まった頬でコロコロ笑う。
 いつきはあわてて口を挟んだ。
 「いやいや、勝手に決めるなよ。おれにだって、希望というものが……って言うか、『なえぎ』は苗木であって、苗樹じゃないんだ。字がちがうだろう」
 そんな夫の反論に――。
 笑苗えなは桜色に染まった頬をぷくうっとふくらませて見せた。
 「なによ? 愛する妻が必死に考えた名前が気に入らないって言うの?」
 「い、いや、気に入るとか、入らないとか、そういう意味じゃ……」
 「じゃあ、どういう意味よ?」
 「だから、ひとりで勝手に決めないでくれって意味で……」
 「結局、気に入らないんじゃない!」
 「だから、ちがうって!」
 「じゃあ、どんな名前ならいいっていうのよ? さぞかし、素敵な名前があるんでしょうねえ」
 「い、いや、子どもの名前なんて、まだ考えたこともなかったけど……」
 「考えたこともない? それなのに、あたしの考えた名前にケチをつける気⁉」
 「わ、わかった、いま、考える! 考えるから!」

 ところで――。
 農家の朝は早い。
 毎日、日の出前に起きて日の光を浴びる前の、味と栄養がギュッと詰まった新鮮野菜を収穫しなくてはならない。日の出の早い夏ともなれば、四時には起きて仕事をはじめなければならない。
 と言うわけで慶吾けいごみお雅史まさふみとあきら、二組の夫婦はその日も早くから起き出し、準備を整え、いつき笑苗えなが起きてくるのをまっていた。が――。
 肝心のふたりがちっとも起きてこない。
 「どうしたんだ、いつき笑苗えなは? まさか、三年間でこの時間に起きることを忘れたのか?」
 「あのふたりに限って、そんなはずはないだろう」
 慶吾けいごが言うと、雅史まさふみがお得意の『メガネを指で直してクイッ』のポーズでそう答えた。
 「時差ボケなんじゃない?」
 「ああ、そうかもねえ」
 あきらの言葉に、みおが納得のうなずきをする。
 とにかく、一向に起きてこないので四人そろって様子を見に行った。障子との外から声をかけ、戸を開ける。そして、四人が見たものは――。
 一睡もしていないことが明らかな充血した目で立ちあがり、汗まみれになって、肩で息をしながら向かい合ういつき笑苗えな、そして、その周囲に散乱する無数の紙くず……だった。
 「……なんだ、これは?」
 雅史まさふみがメガネを直しながらそう言った。質問というよりは、単なる疑問だったが。
 「あ、いや、子どもの名前で……」
 「子どもの名前?」
 いつきは事情を説明した。
 雅史まさふみとあきらの顔にたちまちあきれた表情が広がっていく。
 「それで、一晩中、子どもの名前をああでもない、こうでもないと言いあって、朝になっていることにも気づかなかったと?」
 「……そういうこと」
 「なにをやってるんだ、お前たちは⁉」
 雅史まさふみがどなった。
 ずば抜けた長身の上に、いかにもなメガネ優等生タイプのイケメンとあって、怒るとなかなかに怖いものがある。
 「まだ、子どもなんてできていないのに、いまから子どもの名前で争っていてどうする! 第一、いつき笑苗えな。お前たちはおれたち六人の中心だろう。そのお前たちが畑仕事の時間も忘れてどうする⁉」
 まさに、正論中の正論なのでなにひとつとして言い返せない。
 いつきも、笑苗えなも、縮こまって恥ずかしがるばかり。そのなかで、慶吾けいごが陽気を通りこして極楽とんぼな笑い声をあげた。
 「なんだよ、なんだよ。そんなことで揉めるなんてなあ。その点、うちは面倒ないぞ。子どもの名前は『慶太けいた』で決まってるからな」
 慶吾けいごは自信満々に断言したが、たちまち妻の攻撃にあってしまった。
 みおは小柄な体を精一杯、伸ばして夫の顔をにらみつけ、両手を腰に当てて、ふくれっ面で言ってのけた。
 「ちょっと! なにを勝手に決めてるのよ。だいたい、なんで男の子だって決めつけてるのよ⁉」
 「えっ? いや、だって、おれの子どもなんだから、おれが決めるのは当たり前で……」
 「産むのはあたしよ。名前を決める権利はあたしにあるに気まってるでしょ」
 「横暴だぞ! おれにだって、自分の子どもに名前をつける権利はある!」
 と、今度は慶吾けいごみおがギャンギャンやりはじめてしまった。
 それを見て雅史まさふみが、自分の妻に視線を向けた。
 「……あきら。君も子どもの名前を考えたりしているのか?」
 「まだ、全然、考えたこともなかったけど……雅史まさふみは?」
 「おれも考えたことなんてないが……『雅史まさふみ』と『あきら』で『雅明まさあき』とか?」
 「それって、メチャクチャ安直じゃない?」
 「……だな。そもそも、名付けは子どもにとって一生に一度の出来事だ。ここはやはり、字画などもきちんと調べて」
 雅史まさふみはいきなりスマホを取り出して、字画やらなにやらについて調べはじめた。かくして――。
 三組の夫婦そろって、子どもの名前論争第2Rがはじまってしまったのだった。
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