8 / 20
叱責
しおりを挟む家の中が静まり返る中、突然廊下から慌ただしい足音が響いた。その音は、まるで何かを切り裂くような緊張感を伴っていた。
「旦那様と奥様に、お話がございます!」
侍女エリーナの震える声が響き渡る。私の部屋に届くほどの大声だった。その声には、明らかな動揺と恐怖が含まれている。
私はその音を無視した。何が起ころうと、もはや私には関係のないことだ。世界が崩れようと、家が炎に包まれようと、私はただここに座っているだけだろう。
しかし、続く彼女の声が廊下を満たしたとき、耳を塞ぐことはできなかった。
「私……アリシア様が病気で臥せっていたとき、酷いことを……!」
その言葉が途切れ途切れに聞こえた。どうやら父と母に直接訴えているらしい。私は聞かないふりをしようとしたが、彼女の声が次第に高まり、その内容が耳に届いてしまった。
「私は……『アリシア様が亡くなれば、アルノー様とエリザベート様が結婚して丸く収まる』なんて言ってしまいました! 酷いことを、本当に、申し訳ありません!」
彼女の声は涙に詰まり、言葉が乱れている。その懺悔は、私にとって何の意味も持たない。過去に戻ることなどできないのだから。
「なんだと……?」
父の声が低く響いた。それは、怒りを抑えきれない瞬間の声だった。普段は穏やかな父が、その静かな威圧感を一気に放出する瞬間を、私は何度か見たことがある。そして今、その怒りが侍女エリーナに向けられている。
「お前……それが主に対して言う言葉か……!」
次に聞こえたのは、重い音だった。何かが強く叩かれる音――否、それは人が殴られた音だと直感的に分かった。
「屋敷から出て行け!直ぐにだ!」
父の怒声が響く。普段の彼とはまるで別人のようだった。廊下の空気が張り詰め、侍女たちが息を飲む気配が伝わってくる。
「申し訳ありません……申し訳ありません……!」
エリーナの泣き声が遠ざかる。彼女がこの家を去ることに、私は何も感じなかった。
ただ、廊下に戻った静寂が、何事もなかったかのように私の部屋に流れ込んでくるのを感じるだけだった。
その頃、外の世界では別の噂が広がっていた。
「アルノー様が、婚約者を追い込んだらしいわよ」
侯爵夫人たちが集う午後のティーサロン。窓辺から差し込む陽光がカップの縁を照らす中、ひそひそ声が広がる。
「病気で苦しんでいた婚約者を放っておいて、エリザベート様ばかり大事にしていたそうですの」
「まぁ、それはひどい……婚約者という立場がありながら、そんなことをするなんて」
彼女たちの言葉は、ため息と共に場を包み込む。明らかに非難の色が強いが、それを直接口にする者はいない。皆、少しずつ事実を装った噂を流し、それが広まるのを楽しんでいるのだ。
「しかも、婚約者が回復してからも何のお祝いもしないそうよ」
「確かにエリザベート様は美しい方だけれど……婚約者を放っておくなんて、あまりに軽率だわ!」
そうして噂は広がる。その中で、アルノー様の評判は次第に傷ついていく。彼の行動が軽率であること、婚約者に対する配慮が欠けていること、それらが人々の間で囁かれるようになる。
一方で、エリザベートにも微かな火の粉が降りかかる。
「まぁ、エリザベート様も、少しは遠慮すべきだったのではなくて?」
「おそらく彼女もそれを承知で、アルノー様の気を引いていたのでしょう」
そんな言葉が広がるのを、エリザベートが知るのはもう少し後のことだろう。
私はただ静かに、噂が広がっていくその空気を感じながら、部屋に座っていた。誰が何を言おうと、誰が何を思おうと、もはや私には関係がない。
「旦那様と奥様に、お話がございます!」
侍女エリーナの震える声が響き渡る。私の部屋に届くほどの大声だった。その声には、明らかな動揺と恐怖が含まれている。
私はその音を無視した。何が起ころうと、もはや私には関係のないことだ。世界が崩れようと、家が炎に包まれようと、私はただここに座っているだけだろう。
しかし、続く彼女の声が廊下を満たしたとき、耳を塞ぐことはできなかった。
「私……アリシア様が病気で臥せっていたとき、酷いことを……!」
その言葉が途切れ途切れに聞こえた。どうやら父と母に直接訴えているらしい。私は聞かないふりをしようとしたが、彼女の声が次第に高まり、その内容が耳に届いてしまった。
「私は……『アリシア様が亡くなれば、アルノー様とエリザベート様が結婚して丸く収まる』なんて言ってしまいました! 酷いことを、本当に、申し訳ありません!」
彼女の声は涙に詰まり、言葉が乱れている。その懺悔は、私にとって何の意味も持たない。過去に戻ることなどできないのだから。
「なんだと……?」
父の声が低く響いた。それは、怒りを抑えきれない瞬間の声だった。普段は穏やかな父が、その静かな威圧感を一気に放出する瞬間を、私は何度か見たことがある。そして今、その怒りが侍女エリーナに向けられている。
「お前……それが主に対して言う言葉か……!」
次に聞こえたのは、重い音だった。何かが強く叩かれる音――否、それは人が殴られた音だと直感的に分かった。
「屋敷から出て行け!直ぐにだ!」
父の怒声が響く。普段の彼とはまるで別人のようだった。廊下の空気が張り詰め、侍女たちが息を飲む気配が伝わってくる。
「申し訳ありません……申し訳ありません……!」
エリーナの泣き声が遠ざかる。彼女がこの家を去ることに、私は何も感じなかった。
ただ、廊下に戻った静寂が、何事もなかったかのように私の部屋に流れ込んでくるのを感じるだけだった。
その頃、外の世界では別の噂が広がっていた。
「アルノー様が、婚約者を追い込んだらしいわよ」
侯爵夫人たちが集う午後のティーサロン。窓辺から差し込む陽光がカップの縁を照らす中、ひそひそ声が広がる。
「病気で苦しんでいた婚約者を放っておいて、エリザベート様ばかり大事にしていたそうですの」
「まぁ、それはひどい……婚約者という立場がありながら、そんなことをするなんて」
彼女たちの言葉は、ため息と共に場を包み込む。明らかに非難の色が強いが、それを直接口にする者はいない。皆、少しずつ事実を装った噂を流し、それが広まるのを楽しんでいるのだ。
「しかも、婚約者が回復してからも何のお祝いもしないそうよ」
「確かにエリザベート様は美しい方だけれど……婚約者を放っておくなんて、あまりに軽率だわ!」
そうして噂は広がる。その中で、アルノー様の評判は次第に傷ついていく。彼の行動が軽率であること、婚約者に対する配慮が欠けていること、それらが人々の間で囁かれるようになる。
一方で、エリザベートにも微かな火の粉が降りかかる。
「まぁ、エリザベート様も、少しは遠慮すべきだったのではなくて?」
「おそらく彼女もそれを承知で、アルノー様の気を引いていたのでしょう」
そんな言葉が広がるのを、エリザベートが知るのはもう少し後のことだろう。
私はただ静かに、噂が広がっていくその空気を感じながら、部屋に座っていた。誰が何を言おうと、誰が何を思おうと、もはや私には関係がない。
668
お気に入りに追加
690
あなたにおすすめの小説

愛を求めることはやめましたので、ご安心いただけますと幸いです!
風見ゆうみ
恋愛
わたしの婚約者はレンジロード・ブロフコス侯爵令息。彼に愛されたくて、自分なりに努力してきたつもりだった。でも、彼には昔から好きな人がいた。
結婚式当日、レンジロード様から「君も知っていると思うが、私には愛する女性がいる。君と結婚しても、彼女のことを忘れたくないから忘れない。そして、私と君の結婚式を彼女に見られたくない」と言われ、結婚式を中止にするためにと階段から突き落とされてしまう。
レンジロード様に突き落とされたと訴えても、信じてくれる人は少数だけ。レンジロード様はわたしが階段を踏み外したと言う上に、わたしには話を合わせろと言う。
こんな人のどこが良かったのかしら???
家族に相談し、離婚に向けて動き出すわたしだったが、わたしの変化に気がついたレンジロード様が、なぜかわたしにかまうようになり――

「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。
あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。
「君の為の時間は取れない」と。
それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。
そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。
旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。
あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。
そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。
※35〜37話くらいで終わります。

もう、愛はいりませんから
さくたろう
恋愛
ローザリア王国公爵令嬢ルクレティア・フォルセティに、ある日突然、未来の記憶が蘇った。
王子リーヴァイの愛する人を殺害しようとした罪により投獄され、兄に差し出された毒を煽り死んだ記憶だ。それが未来の出来事だと確信したルクレティアは、そんな未来に怯えるが、その記憶のおかしさに気がつき、謎を探ることにする。そうしてやがて、ある人のひたむきな愛を知ることになる。

【完結】白い結婚をした悪役令嬢は田舎暮らしと陰謀を満喫する
ツカノ
恋愛
「こんな形での君との婚姻は望んでなかった」と、私は初夜の夜に旦那様になる方に告げられた。
卒業パーティーで婚約者の最愛を虐げた悪役令嬢として予定通り断罪された挙げ句に、その罰としてなぜか元婚約者と目と髪の色以外はそっくりな男と『白い結婚』をさせられてしまった私は思う。
それにしても、旦那様。あなたはいったいどこの誰ですか?
陰謀と事件混みのご都合主義なふんわり設定です。

氷の貴婦人
羊
恋愛
ソフィは幸せな結婚を目の前に控えていた。弾んでいた心を打ち砕かれたのは、結婚相手のアトレーと姉がベッドに居る姿を見た時だった。
呆然としたまま結婚式の日を迎え、その日から彼女の心は壊れていく。
感情が麻痺してしまい、すべてがかすみ越しの出来事に思える。そして、あんなに好きだったアトレーを見ると吐き気をもよおすようになった。
毒の強めなお話で、大人向けテイストです。

成人したのであなたから卒業させていただきます。
ぽんぽこ狸
恋愛
フィオナはデビュタント用に仕立てた可愛いドレスを婚約者であるメルヴィンに見せた。
すると彼は、とても怒った顔をしてフィオナのドレスを引き裂いた。
メルヴィンは自由に仕立てていいとは言ったが、それは流行にのっとった範囲でなのだから、こんなドレスは着させられないという事を言う。
しかしフィオナから見れば若い令嬢たちは皆愛らしい色合いのドレスに身を包んでいるし、彼の言葉に正当性を感じない。
それでも子供なのだから言う事を聞けと年上の彼に言われてしまうとこれ以上文句も言えない、そんな鬱屈とした気持ちを抱えていた。
そんな中、ある日、王宮でのお茶会で変わり者の王子に出会い、その素直な言葉に、フィオナの価値観はがらりと変わっていくのだった。
変わり者の王子と大人になりたい主人公のお話です。

仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが
ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。
定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない
そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

【完結】婚約破棄はお受けいたしましょう~踏みにじられた恋を抱えて
ゆうぎり
恋愛
「この子がクラーラの婚約者になるんだよ」
お父様に連れられたお茶会で私は一つ年上のナディオ様に恋をした。
綺麗なお顔のナディオ様。優しく笑うナディオ様。
今はもう、私に微笑みかける事はありません。
貴方の笑顔は別の方のもの。
私には忌々しげな顔で、視線を向けても貰えません。
私は厭われ者の婚約者。社交界では評判ですよね。
ねぇナディオ様、恋は花と同じだと思いませんか?
―――水をやらなければ枯れてしまうのですよ。
※ゆるゆる設定です。
※名前変更しました。元「踏みにじられた恋ならば、婚約破棄はお受けいたしましょう」
※多分誰かの視点から見たらハッピーエンド
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる