不肖ながら、お嬢様は渡しません

松本雀

文字の大きさ
2 / 91

執事は雄弁に沈黙する

しおりを挟む
──私のせいではない。断じて。いや、断固として、である。

そう心の中で言い切るたびに、なぜか己の胸に鋭く突き刺さる何かがあるが、それはまったくの無関係だ。

お嬢様がまたしても婚約破棄をされ、部屋の隅で膝を抱えて沈んでいるのは私のせいではない。決して、決して。なぜなら私はただの執事──いや、元蜘蛛の執事に過ぎないからだ。

「──私のせいです。申し訳ございません、お嬢様」

口をついて出た謝罪の言葉に、私は内心で舌打ちをする。謝ってはいけないのだ。謝罪はすなわち、暗黙の自白だ。私は悪くない。

けれど、目の前で震える小さな肩を見てしまうと、勝手に口が動いてしまうのだ。蜘蛛としての八本の脚を捨てて、魔女に二本の腕と二本の脚を願ったのが運の尽きだった。

お嬢様はふるりと肩を揺らし、顔を上げた。

真っ赤な目。泣き腫らした目だ。なんという残酷な美しさだろうか。この世の美が涙を通してより際立つとしても、私は彼女を永久に泣かせたくない。

だが、それは果たしてお嬢様のためなのか、それとも私自身の罪悪感の消滅を願っているのか。いやいや、違う違う違う違う。私はただ忠実な執事であり、彼女の涙を止めるために存在しているだけなのだ。

「また……だめだったわ、クロード」

お嬢様の声は小さく、まるで糸を手繰るような儚さがあった。その糸の先に蜘蛛がいると知ったなら、彼女はどうするだろう。切り落とすか、絡め取られるか。

だが、その問いに答えはない。なぜなら、私は絶対に真実を明かさない。愛とは沈黙であり、嘘の中で生きる覚悟なのだ。

「お嬢様、恐れながら……そのような男、こちらからお断りする価値もございません!」

誇張ではなく真実だ。

あの馬鹿どもは、何を勘違いしたのか身の程知らずにもお嬢様に求婚した挙句、彼女に向かって「あなたのそばにいる執事の視線がどうにも恐ろしくて……」などと弱音を吐いて逃げていく。

私を恐れる?当然だ。奴らは動物的な本能で察知しているのだ。この優雅な背広の下にうごめく、悪夢のような悪意を。

「それに、私はどこまでもお嬢様についてまいりますので」

この一言で、お嬢様は少しだけ目を見開いた。ほんの少し、光が戻った気がする。そう、その光を守り続けるために、私は生まれ変わったのだ。八本の脚を失い、二本の腕を得て、心の片隅に余計な感情を飼うことになった。だが、それもまた幸福だ。

「……クロードは、どうしてそんなに優しいの?」

お嬢様の問いは純粋だ。純粋すぎて、蜘蛛ごときには毒だ。

私は笑みを浮かべる。心臓を刺されても主人に微笑むのは、執事の基本である。だが、その答えを言うわけにはいかない。執事の務めとは秘密を守ることだ。

そしてその秘密の中身が、彼女をどれほど愛しているかという愚かな想いであっても。

「お嬢様には、笑っていてほしいのです」

そう言い切った瞬間、胸の奥が軋む。見てほしいとは言えない。彼女の隣にいたいとも言えない。ただ笑っていてほしい──まるで偽善者のような言葉を吐き出しながらも、それが今の私の全てだ。お嬢様は、小さなため息をついた。そして少しだけ微笑む。

「……ありがとう、クロード」

その笑顔を見た瞬間、私は決意を新たにした。たとえ婚約者たちが次々と逃げ去ろうとも、私はその真相を語らない。どれだけ彼女の幸せを願おうとも、私が元蜘蛛であることを明かせば、彼女は恐怖するに違いないのだ。沈黙とは罪だ。しかし、罪を背負うことこそが彼女を守る唯一の方法なのだ。

「どういたしまして、お嬢様」

そう言いながら、私は心の中でそっと誓った。次に現れる求婚者もまた、私の悪意を目にして震え上がらせるとしても──お嬢様の微笑みを曇らせることは決して許さないと。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

《完結》「パパはいますか?」ある日、夫に似た子供が訪ねて来た。

ヴァンドール
恋愛
嫁いですぐに夫は戦地に赴いた。すると突然一人の男の子が訪ねて来た「パパはいますか?」 その子供の顔は戦地に行った夫にそっくりだった。

侯爵夫人のハズですが、完全に無視されています

猫枕
恋愛
伯爵令嬢のシンディーは学園を卒業と同時にキャッシュ侯爵家に嫁がされた。 しかし婚姻から4年、旦那様に会ったのは一度きり、大きなお屋敷の端っこにある離れに住むように言われ、勝手な外出も禁じられている。 本宅にはシンディーの偽物が奥様と呼ばれて暮らしているらしい。 盛大な結婚式が行われたというがシンディーは出席していないし、今年3才になる息子がいるというが、もちろん産んだ覚えもない。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

ブスすぎて嫁の貰い手がないから閨勤侍女になれと言われたので縁を切ります、完全に!完全縁切りの先にあったのは孤独ではなくて…

ハートリオ
恋愛
ルフスは結婚が決まった従姉の閨勤侍女になるよう父親に命令されたのをきっかけに父に無視され冷遇されて来た日々を終わらせようとブラコン父と完全に縁を切る決意する。 一方、従姉の結婚相手はアルゲンテウス辺境伯とのことだが、実は手違いがあって辺境伯が結婚したいのはルフス。 そんなこんなの異世界ファンタジーラブです。 読んでいただけると嬉しいです。

誰にも信じてもらえなかった公爵令嬢は、もう誰も信じません。

salt
恋愛
王都で罪を犯した悪役令嬢との婚姻を結んだ、東の辺境伯地ディオグーン領を治める、フェイドリンド辺境伯子息、アルバスの懺悔と後悔の記録。 6000文字くらいで摂取するお手軽絶望バッドエンドです。 *なろう・pixivにも掲載しています。

平民の娘だから婚約者を譲れって? 別にいいですけど本当によろしいのですか?

和泉 凪紗
恋愛
「お父様。私、アルフレッド様と結婚したいです。お姉様より私の方がお似合いだと思いませんか?」  腹違いの妹のマリアは私の婚約者と結婚したいそうだ。私は平民の娘だから譲るのが当然らしい。  マリアと義母は私のことを『平民の娘』だといつも見下し、嫌がらせばかり。  婚約者には何の思い入れもないので別にいいですけど、本当によろしいのですか?    

拝啓~私に婚約破棄を宣告した公爵様へ~

岡暁舟
恋愛
公爵様に宣言された婚約破棄……。あなたは正気ですか?そうですか。ならば、私も全力で行きましょう。全力で!!!

処理中です...