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執事は保身故に献身する
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──私がいなければ、この屋敷はどうなるか?
そんなことは考える必要もない。なぜなら、私はいるのだから。
しかし、この愚問はしばしば出る。
そしてそのたび、私は心の中で小さく溜息をつく。
元蜘蛛という身にとっては、言葉一つの響きさえ、空気の振動によって糸を伝わってくるように鮮明だが、それがいつも心地よいわけではない。
「クロードがいなければ、この家は回らないなぁ……」
ダイニングテーブルの主席で、男爵様は柔らかな笑みを浮かべながらそう言う。
否定も肯定もしない声色だが、その言葉は妙に重い。まるで屋根の梁に負担をかける蔦のような重みがある。
お嬢様が箸を止めた。いや、正確にはフォークであるが。東洋風な譬えをするのは私の趣味だ。
「……お父様、それを本人の前で言ってはダメよ」
声色は優しいが、どこか微かな緊張が滲む。お嬢様の声にはいつも、そうした“繊細な張り”がある。まるで風に揺れる一枚の糸。それが切れるかどうかは風次第──いや、私の言動次第かもしれない。
けれども、お嬢様。あなたはわかっていない。むしろ、私はその言葉を聞くたびに内心で苦笑している。
「お嬢様、お気になさらず。私は屋敷を守るためにここにいるのですから」
そう言いながら、私は夕食の肉料理をさらに一枚、優雅にテーブルへ置く。金銭的に質素な食事といえど、私が手を加えれば一流の味になる。なぜなら、蜘蛛は獲物を味わうとき、一滴の毒をも完璧に調合するのだから。いや、それはかつての本能の話。今はただ、献身の技術である。
──かつて、獲物を絡め取り、粘つく糸で包んだ記憶は今や遥か彼方。
この屋敷の台所が、私の巣の代わりだ。そして、獲物ではなく家族に食事を捧げる。この矛盾にさえ、私は微笑むべきなのだ。
「本当に君がいてくれて助かっているよ、クロード」
男爵様は心からの感謝を込めた声を出す。貧しいが、貴族の矜持を失わない、誇り高き声だ。私はその重さをよく知っている。金銭以上に重い言葉だ。
私はこうして言葉を呑み込む。
「恐れ入ります、旦那様」
──これ以上語るべきではない。
「……そんなことばかり言って……クロードだって、休みたい時だってあるのに」
お嬢様は優しい人だ。だからこそ、私が休むという概念を真剣に心配する。しかし、元蜘蛛には休息など不要だ。むしろ、時間を持て余すと無意味な糸を張り巡らせる本能が疼くのだ。
「お嬢様のお気遣いはありがたいですが、私は休むよりも仕事をしている方が性に合っています」
偽りはない。いや、蜘蛛としての本能と人間としての誓いを同時に守るため、私は正直すぎる。
その瞬間、お嬢様は少しだけ表情を曇らせる。
「クロード……でも、あなたはどこか遠くに行ってしまいそうな気がするのよ」
鋭い洞察だ。いや、蜘蛛の巣が繊細な振動を拾うように、彼女もまた、私の本質を感じ取っているのかもしれない。
──遠くへ行く? 否、私はここにいる。お嬢様が微笑んでいる限り。
「私は、どこへも行きませんよ」
そう言いながら、私は再び皿を置く。そしてその皿には、お嬢様の微笑みをもう一度見たくなるような小さなデザートを添えて。甘さは控えめだが、ひと口ごとに温かい記憶が蘇るような味。彼女のためだけに生み出した献身の一滴だ。
男爵様が目を細めて言う。
「君がいなければ、この家は本当に立ち行かないよ」
「ですから、それを本人に言うのは──もう!……ありがとう、クロード」
お嬢様の言葉に、私はふと胸を突かれたような感覚を覚える。私が糸を張り巡らせて守ろうとしているこの屋敷で、唯一、私の真意を知る必要がないはずの方が、最も深い言葉をくれるのだから。
「どういたしまして、お嬢様」
──私は決してこの巣を離れない。ただ、あなたの微笑みが続く限り。
そしてもし、私がいなくなる日が来るとしたら──その時は、この蜘蛛のすべての糸を、感謝と共に残していこうと思う。
そんなことは考える必要もない。なぜなら、私はいるのだから。
しかし、この愚問はしばしば出る。
そしてそのたび、私は心の中で小さく溜息をつく。
元蜘蛛という身にとっては、言葉一つの響きさえ、空気の振動によって糸を伝わってくるように鮮明だが、それがいつも心地よいわけではない。
「クロードがいなければ、この家は回らないなぁ……」
ダイニングテーブルの主席で、男爵様は柔らかな笑みを浮かべながらそう言う。
否定も肯定もしない声色だが、その言葉は妙に重い。まるで屋根の梁に負担をかける蔦のような重みがある。
お嬢様が箸を止めた。いや、正確にはフォークであるが。東洋風な譬えをするのは私の趣味だ。
「……お父様、それを本人の前で言ってはダメよ」
声色は優しいが、どこか微かな緊張が滲む。お嬢様の声にはいつも、そうした“繊細な張り”がある。まるで風に揺れる一枚の糸。それが切れるかどうかは風次第──いや、私の言動次第かもしれない。
けれども、お嬢様。あなたはわかっていない。むしろ、私はその言葉を聞くたびに内心で苦笑している。
「お嬢様、お気になさらず。私は屋敷を守るためにここにいるのですから」
そう言いながら、私は夕食の肉料理をさらに一枚、優雅にテーブルへ置く。金銭的に質素な食事といえど、私が手を加えれば一流の味になる。なぜなら、蜘蛛は獲物を味わうとき、一滴の毒をも完璧に調合するのだから。いや、それはかつての本能の話。今はただ、献身の技術である。
──かつて、獲物を絡め取り、粘つく糸で包んだ記憶は今や遥か彼方。
この屋敷の台所が、私の巣の代わりだ。そして、獲物ではなく家族に食事を捧げる。この矛盾にさえ、私は微笑むべきなのだ。
「本当に君がいてくれて助かっているよ、クロード」
男爵様は心からの感謝を込めた声を出す。貧しいが、貴族の矜持を失わない、誇り高き声だ。私はその重さをよく知っている。金銭以上に重い言葉だ。
私はこうして言葉を呑み込む。
「恐れ入ります、旦那様」
──これ以上語るべきではない。
「……そんなことばかり言って……クロードだって、休みたい時だってあるのに」
お嬢様は優しい人だ。だからこそ、私が休むという概念を真剣に心配する。しかし、元蜘蛛には休息など不要だ。むしろ、時間を持て余すと無意味な糸を張り巡らせる本能が疼くのだ。
「お嬢様のお気遣いはありがたいですが、私は休むよりも仕事をしている方が性に合っています」
偽りはない。いや、蜘蛛としての本能と人間としての誓いを同時に守るため、私は正直すぎる。
その瞬間、お嬢様は少しだけ表情を曇らせる。
「クロード……でも、あなたはどこか遠くに行ってしまいそうな気がするのよ」
鋭い洞察だ。いや、蜘蛛の巣が繊細な振動を拾うように、彼女もまた、私の本質を感じ取っているのかもしれない。
──遠くへ行く? 否、私はここにいる。お嬢様が微笑んでいる限り。
「私は、どこへも行きませんよ」
そう言いながら、私は再び皿を置く。そしてその皿には、お嬢様の微笑みをもう一度見たくなるような小さなデザートを添えて。甘さは控えめだが、ひと口ごとに温かい記憶が蘇るような味。彼女のためだけに生み出した献身の一滴だ。
男爵様が目を細めて言う。
「君がいなければ、この家は本当に立ち行かないよ」
「ですから、それを本人に言うのは──もう!……ありがとう、クロード」
お嬢様の言葉に、私はふと胸を突かれたような感覚を覚える。私が糸を張り巡らせて守ろうとしているこの屋敷で、唯一、私の真意を知る必要がないはずの方が、最も深い言葉をくれるのだから。
「どういたしまして、お嬢様」
──私は決してこの巣を離れない。ただ、あなたの微笑みが続く限り。
そしてもし、私がいなくなる日が来るとしたら──その時は、この蜘蛛のすべての糸を、感謝と共に残していこうと思う。
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