不肖ながら、お嬢様は渡しません

松本雀

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執事は不機嫌になっていないと不機嫌に答えた

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──不機嫌になどなっていない。断じて。いや、断固として、である。

そもそも私が「機嫌」というものを持ち合わせているかどうかも疑問だ。蜘蛛というものは元来、無表情である。笑顔も怒り顔もない。ただ、糸を張り、獲物を待つ。まったくシンプルで、無駄のない生き方だ。人間のように複雑な感情を抱えた結果、私は今、余計なものを抱えすぎているのかもしれない。

とはいえ──

「……この屋敷に来たのが、私の運命の始まりだったな」

そう心の中で呟きながら、いつものように廊下を歩く。普段は軽やかな足音さえも、今日はどこか重い。右手には新しい包帯と消毒薬を持ちながら、左手で扉の前に立つ。

扉の向こうには“負傷者”がいる。

──彼は、傷ついた騎士だという。
3日前に突然、満身創痍で屋敷の門前に担ぎ込まれてきた。そして、何を思ったかお嬢様はその男を屋敷で保護し、さらに治療と看病を“私”に頼んだのだ。

断れなかったのは言うまでもない。私はお嬢様の言葉に逆らえない。

もっとも、元蜘蛛の私には怪我の手当など造作もないことだ。蜘蛛の糸は傷を塞ぐ。毒を抜き、癒す方法を私は数多く知っている。しかし──内心、これほどまでに人間の治療に手間がかかるとは思っていなかった。

「──さて、今日も包帯交換だ……」

嫌々ながら、心の中でそう呟き、扉を開けたその瞬間──

「……え?」

部屋の中の光景を目にし、私は言葉を失った。

部屋の隅にある簡素なベッド。その前の椅子には、お嬢様が座っている。

いや、正確には談笑している。

「……うふふ、そうだったのね! 本当にそんなことを?」

──笑顔。柔らかい声色。お嬢様は心から楽しそうに、目の前の男と笑い合っていた。

──なぜ?

私は思わず扉の陰に身を引く。自分の心臓が跳ねる音が聞こえる気がした。しかし、元蜘蛛の私はそんなことで動揺しないはずだ。これはただの錯覚だ。感情というものが私を錯乱させているだけだ。

「こんなに楽しい時間を過ごせるなんて……」

お嬢様の声が響く。

──楽しい? これが楽しいのか。

その言葉を胸に刻まれた瞬間、私は理解した。

──私は嫉妬しているのだ。

男の包帯を巻き直し、優しく声をかけるお嬢様の姿が視界に焼き付く。傷ついた男に優しさを分け与えるその光景は、まるで聖母のような慈愛そのものだった。

しかし、聖母に救われる資格があるのは、果たして誰なのか?

「……何を馬鹿なことを考えているのだ、私は」

小さく呟く。自嘲の言葉だった。しかし、後悔がすぐに胸を満たす。馬鹿なのは私の方だ。彼女が誰かと笑い合うことに何の問題があるというのか?
彼女の笑顔こそ、この屋敷を輝かせる唯一無二の光ではないか。

だが──

その笑顔が自分以外の者に向けられているという事実に、私は耐えられなかった。

「クロード?」

その声が聞こえた瞬間、私は硬直した。

お嬢様がこちらを見ている。扉の影から少しだけ覗いてしまった私に気づいたのだろう。

「……お嬢様」

落ち着け、平静を装え。蜘蛛の心臓は冷たいものだ。しかし、その冷たさを維持できるのは己の意志があってこそだ。

「どうしたの? 包帯を替えに来てくれたのね?」

お嬢様は相変わらず柔らかな笑みを浮かべている。しかし、その笑顔が突き刺さる。

「ええ……もちろんです」

無表情の仮面を被り、私は一歩、部屋の中へと足を踏み出す。

そして、男に微笑みかけるお嬢様を横目で見ながら、私は心の奥底で静かに決意する。

──彼がどれほど癒されようとも、彼女の微笑みは誰にも渡さない。

いや、渡せるはずがないのだ。私は、お嬢様の執事なのだから。
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