7 / 91
執事は男爵様よりお嬢様が大事
しおりを挟む
──忠誠とは時に、裏切りにも似る。
逃げるべきだ。
蜘蛛は危機を察知すれば巣を捨て、次の安全な場所へ糸を張る。それが古来より続く自然の摂理であり、無駄のない生存の知恵だ。私もまた、その知恵に従っているだけにすぎない。
この屋敷を出て行く理由は単純だ──
お嬢様の幸せを邪魔しないため。
いや、もっと正確に言うならば、自分の醜い執着心が、彼女の幸せを蝕むことを恐れたからだ。
だからこそ私は身辺整理を終え、小さな鞄ひとつを手に取った。
旅立ちの準備は万全だ。蜘蛛の巣を張り替えるように、新しい道を歩む覚悟はできている。
──しかし。
「……え?」
急に誰かに手を取られた。冷たくて、意外なほど力強い感触。
お嬢様……?
いや、違う。私はその手を見下ろし、そして顔を上げる。そこにいたのは──
「……男爵様……」
──落胆した。
いや、もはや呆れるほどに落胆した。
いやいや、それは言い過ぎかもしれない。男爵様に失礼だ。しかし、どうしても表情を取り繕えない自分がいる。
「クロード……行かないで……!」
まさか、泣きそうな顔の男爵様を見ることになるとは思わなかった。
彼は目に涙を浮かべて、まるで蜘蛛の巣に絡まった蝶のように震えている。
「……男爵様、申し訳ございませんが、そのお言葉を聞いても私は嬉しくありません」
我ながら酷い言葉だと思う。しかし、私は事実しか言わない執事だ。必要以上の飾りは要らない。男爵様の願いを聞いて屋敷に残るような理由が、どこにあるというのだ?
「お願い……クロード……!」
──困った。
男爵様が必死に私の腕を掴み、地面に膝をつこうとしている。ここまで縋る姿を見せられても、私は何も感じない。情けない光景だとさえ思う。
しかし、次の言葉を聞いた瞬間──
「じゃあ……娘なら、アトラに言われたらどうだ……?」
その名前を耳にした瞬間、私の脳内に無数の糸が張り巡らされる。瞬時にして紡がれる記憶の網。
アトラ──お嬢様の名前。
「……お嬢様に……?」
その声は自分でも驚くほど小さく、震えていた。
男爵様は私を見上げ、微笑みながら頷いた。
「そうだ。アトラが……君に“行かないで”と言ったら、どうする?」
──どうする?
そんなの、答えは決まっている。私は、彼女の願いには逆らえない。
この屋敷で初めて私を救い上げたのは、お嬢様の優しさだったのだから。
「……」
答えを出せない私の沈黙を見て、男爵様は立ち上がり、そっと肩に手を置いた。
「クロード……お前は、ずっとあの子の味方でいてくれた。あの子にとって、お前は特別なんだ」
──特別。
その言葉は、私を蜘蛛糸のように絡め取り、動きを封じた。
「だから……あの子の願いを聞いてくれないか?」
私はただ俯いたまま、何も言えなかった。
──行くべきか、残るべきか。
答えは出ているはずなのに、それを口にする勇気が出ない。
「クロード……どうか頼むよ」
男爵様の声は優しかったが、その優しさは私をさらに追い詰めた。
「……もし、お嬢様に言われたなら……私は……」
──残る。
けれど、その言葉を口にする前に、私はただ静かにその場を後にしようとした。
しかし、背中に響く声は、もう逃げ場を許さなかった。
「娘が……君を必要としているのに、それでも君は行くつもりか?」
──最悪だ。これ以上ないほど最悪だ。
逃げるべきだ。
蜘蛛は危機を察知すれば巣を捨て、次の安全な場所へ糸を張る。それが古来より続く自然の摂理であり、無駄のない生存の知恵だ。私もまた、その知恵に従っているだけにすぎない。
この屋敷を出て行く理由は単純だ──
お嬢様の幸せを邪魔しないため。
いや、もっと正確に言うならば、自分の醜い執着心が、彼女の幸せを蝕むことを恐れたからだ。
だからこそ私は身辺整理を終え、小さな鞄ひとつを手に取った。
旅立ちの準備は万全だ。蜘蛛の巣を張り替えるように、新しい道を歩む覚悟はできている。
──しかし。
「……え?」
急に誰かに手を取られた。冷たくて、意外なほど力強い感触。
お嬢様……?
いや、違う。私はその手を見下ろし、そして顔を上げる。そこにいたのは──
「……男爵様……」
──落胆した。
いや、もはや呆れるほどに落胆した。
いやいや、それは言い過ぎかもしれない。男爵様に失礼だ。しかし、どうしても表情を取り繕えない自分がいる。
「クロード……行かないで……!」
まさか、泣きそうな顔の男爵様を見ることになるとは思わなかった。
彼は目に涙を浮かべて、まるで蜘蛛の巣に絡まった蝶のように震えている。
「……男爵様、申し訳ございませんが、そのお言葉を聞いても私は嬉しくありません」
我ながら酷い言葉だと思う。しかし、私は事実しか言わない執事だ。必要以上の飾りは要らない。男爵様の願いを聞いて屋敷に残るような理由が、どこにあるというのだ?
「お願い……クロード……!」
──困った。
男爵様が必死に私の腕を掴み、地面に膝をつこうとしている。ここまで縋る姿を見せられても、私は何も感じない。情けない光景だとさえ思う。
しかし、次の言葉を聞いた瞬間──
「じゃあ……娘なら、アトラに言われたらどうだ……?」
その名前を耳にした瞬間、私の脳内に無数の糸が張り巡らされる。瞬時にして紡がれる記憶の網。
アトラ──お嬢様の名前。
「……お嬢様に……?」
その声は自分でも驚くほど小さく、震えていた。
男爵様は私を見上げ、微笑みながら頷いた。
「そうだ。アトラが……君に“行かないで”と言ったら、どうする?」
──どうする?
そんなの、答えは決まっている。私は、彼女の願いには逆らえない。
この屋敷で初めて私を救い上げたのは、お嬢様の優しさだったのだから。
「……」
答えを出せない私の沈黙を見て、男爵様は立ち上がり、そっと肩に手を置いた。
「クロード……お前は、ずっとあの子の味方でいてくれた。あの子にとって、お前は特別なんだ」
──特別。
その言葉は、私を蜘蛛糸のように絡め取り、動きを封じた。
「だから……あの子の願いを聞いてくれないか?」
私はただ俯いたまま、何も言えなかった。
──行くべきか、残るべきか。
答えは出ているはずなのに、それを口にする勇気が出ない。
「クロード……どうか頼むよ」
男爵様の声は優しかったが、その優しさは私をさらに追い詰めた。
「……もし、お嬢様に言われたなら……私は……」
──残る。
けれど、その言葉を口にする前に、私はただ静かにその場を後にしようとした。
しかし、背中に響く声は、もう逃げ場を許さなかった。
「娘が……君を必要としているのに、それでも君は行くつもりか?」
──最悪だ。これ以上ないほど最悪だ。
11
あなたにおすすめの小説
《完結》「パパはいますか?」ある日、夫に似た子供が訪ねて来た。
ヴァンドール
恋愛
嫁いですぐに夫は戦地に赴いた。すると突然一人の男の子が訪ねて来た「パパはいますか?」
その子供の顔は戦地に行った夫にそっくりだった。
侯爵夫人のハズですが、完全に無視されています
猫枕
恋愛
伯爵令嬢のシンディーは学園を卒業と同時にキャッシュ侯爵家に嫁がされた。
しかし婚姻から4年、旦那様に会ったのは一度きり、大きなお屋敷の端っこにある離れに住むように言われ、勝手な外出も禁じられている。
本宅にはシンディーの偽物が奥様と呼ばれて暮らしているらしい。
盛大な結婚式が行われたというがシンディーは出席していないし、今年3才になる息子がいるというが、もちろん産んだ覚えもない。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
誰にも信じてもらえなかった公爵令嬢は、もう誰も信じません。
salt
恋愛
王都で罪を犯した悪役令嬢との婚姻を結んだ、東の辺境伯地ディオグーン領を治める、フェイドリンド辺境伯子息、アルバスの懺悔と後悔の記録。
6000文字くらいで摂取するお手軽絶望バッドエンドです。
*なろう・pixivにも掲載しています。
ブスすぎて嫁の貰い手がないから閨勤侍女になれと言われたので縁を切ります、完全に!完全縁切りの先にあったのは孤独ではなくて…
ハートリオ
恋愛
ルフスは結婚が決まった従姉の閨勤侍女になるよう父親に命令されたのをきっかけに父に無視され冷遇されて来た日々を終わらせようとブラコン父と完全に縁を切る決意する。
一方、従姉の結婚相手はアルゲンテウス辺境伯とのことだが、実は手違いがあって辺境伯が結婚したいのはルフス。
そんなこんなの異世界ファンタジーラブです。
読んでいただけると嬉しいです。
平民の娘だから婚約者を譲れって? 別にいいですけど本当によろしいのですか?
和泉 凪紗
恋愛
「お父様。私、アルフレッド様と結婚したいです。お姉様より私の方がお似合いだと思いませんか?」
腹違いの妹のマリアは私の婚約者と結婚したいそうだ。私は平民の娘だから譲るのが当然らしい。
マリアと義母は私のことを『平民の娘』だといつも見下し、嫌がらせばかり。
婚約者には何の思い入れもないので別にいいですけど、本当によろしいのですか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる