不肖ながら、お嬢様は渡しません

松本雀

文字の大きさ
47 / 91

執事の決意──『帰る理由は、食卓の向こうに』

しおりを挟む
──誰かのために作る朝食ほど、己の価値を再確認するものはない。
私は今、そうして再び「執事」に戻ろうとしている。

目覚めたばかりの騎士団宿舎は、まだ外気の冷たさをひきずっていた。私は、ウィルに許可を取り、厨房を借りることにした。

もちろん、お詫びの意味もある。何も告げずに姿を消した私を、皆がどれほど心配してくれたか、その気持ちは有難いほどに重かった。ならば、私にできる最も誠実な謝罪の方法は一つ。腹を満たすことだ。

目を閉じれば思い出す。男爵様の朝は、香ばしいバターのオムレツの香りと共に始まる。妻の朝は、澄んだスープの湯気に包まれた微笑から始まる。私はその記憶を、ひとつずつ手に取るように思い出しながら、卵を割り、ベーコンを火にかけた。

フライパンの上で、香ばしく焼ける音が響く。ベーコンの油がゆっくりと卵に広がり、黄身の縁をなぞる。パンは堅かったが、ミルクに浸して、ほんの一滴だけハチミツを垂らすと、目を覚ましたような甘い香りが漂う。溶かしバターで両面を焼けば完成だ。

スープは野菜の端材をふんだんに使って、優しい味にした。胃に重たくない程度にとろみをつけ、隠し味にハーブと、ほんの少しのナツメグを加える。火加減を見ながら、私は静かに、呼吸を整えていく。

「わあ……いい匂いがする!」

元気な少年執事の声が響くと、サンゼールも続けて現れた。彼は静かに一礼し、空いた皿を率先して並べてくれる。ウィルは私の様子をちらちらと見ながら、苦笑している。まるで、何も言わずとも私の内側にあるものを見透かすように。

「クロード、私も手伝おうか?」

「いえ、ウィル殿はお座りください。団長のお仕事は、王都の平和維持でございますから」

「さっきと同じ人間の言葉とは思えないな……」

「それはそれ、です。……料理とは、自分で作っても、他人に食べさせても、どちらも心を癒やす。少なくとも私は、そう信じております」

皿が揃い、全員が席につく頃には、部屋に香ばしい匂いが満ちていた。目の前に並ぶ料理を見て、誰もが自然と笑みを浮かべる。

「これ、全部クロード先輩が?」

少年執事が目を丸くしている。

「うわ、本当にうまいな……このスープ、なんかあったまる」

「お世辞でも嬉しいですが、どうぞ召し上がってください。食事は言葉より雄弁ですので」

笑い声と、食器が触れ合う音。鍋の中で温めていたスープが静かに湯気を立てている。私も小さなパンの端を口に運びながら、皆の様子を見ていた。

温かさとはこういうものなのだ、と改めて思う。

誰かの為に用意された料理を、誰かが笑って食べてくれる。それはかつての巣にはなかったぬくもりだった。蜘蛛だった頃の私は、食べるか食われるかしか知らなかった。

しかし、今の私は違う。お義父様の温かさも、妻の笑顔も、友人たちの信頼も──全部、この二本の手で手に入れてきた。

私は、やはり執事だ。

お仕えするべき主がいて、守りたい家族がいる。あの屋敷に帰らなければならない。逃げてはいけない。心のどこかに刺さっていた、棘のような痛みが、今になってじわりと消えていくのを感じていた。

「クロード?」

「……私はやはり、屋敷へ戻ろうと思います。男爵様に、正式に謝罪せねばなりません」

「……そうか。なら、私が送っていこう」

ウィルの申し出に、私は静かに頭を下げた。

「ありがとうございます。でも、それは私の仕事です。私自身の足で、けじめをつけたいのです」

誰にも奪われない、自分の役割というものがある。

たとえそれが些細な朝食の一皿であったとしても、私はその務めを誇りとして、再び歩き出すのだ。

──私はクロード。元蜘蛛、現執事。そして、愛する妻のために帰るべき場所を持つ者だ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

《完結》「パパはいますか?」ある日、夫に似た子供が訪ねて来た。

ヴァンドール
恋愛
嫁いですぐに夫は戦地に赴いた。すると突然一人の男の子が訪ねて来た「パパはいますか?」 その子供の顔は戦地に行った夫にそっくりだった。

侯爵夫人のハズですが、完全に無視されています

猫枕
恋愛
伯爵令嬢のシンディーは学園を卒業と同時にキャッシュ侯爵家に嫁がされた。 しかし婚姻から4年、旦那様に会ったのは一度きり、大きなお屋敷の端っこにある離れに住むように言われ、勝手な外出も禁じられている。 本宅にはシンディーの偽物が奥様と呼ばれて暮らしているらしい。 盛大な結婚式が行われたというがシンディーは出席していないし、今年3才になる息子がいるというが、もちろん産んだ覚えもない。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

誰にも信じてもらえなかった公爵令嬢は、もう誰も信じません。

salt
恋愛
王都で罪を犯した悪役令嬢との婚姻を結んだ、東の辺境伯地ディオグーン領を治める、フェイドリンド辺境伯子息、アルバスの懺悔と後悔の記録。 6000文字くらいで摂取するお手軽絶望バッドエンドです。 *なろう・pixivにも掲載しています。

ブスすぎて嫁の貰い手がないから閨勤侍女になれと言われたので縁を切ります、完全に!完全縁切りの先にあったのは孤独ではなくて…

ハートリオ
恋愛
ルフスは結婚が決まった従姉の閨勤侍女になるよう父親に命令されたのをきっかけに父に無視され冷遇されて来た日々を終わらせようとブラコン父と完全に縁を切る決意する。 一方、従姉の結婚相手はアルゲンテウス辺境伯とのことだが、実は手違いがあって辺境伯が結婚したいのはルフス。 そんなこんなの異世界ファンタジーラブです。 読んでいただけると嬉しいです。

平民の娘だから婚約者を譲れって? 別にいいですけど本当によろしいのですか?

和泉 凪紗
恋愛
「お父様。私、アルフレッド様と結婚したいです。お姉様より私の方がお似合いだと思いませんか?」  腹違いの妹のマリアは私の婚約者と結婚したいそうだ。私は平民の娘だから譲るのが当然らしい。  マリアと義母は私のことを『平民の娘』だといつも見下し、嫌がらせばかり。  婚約者には何の思い入れもないので別にいいですけど、本当によろしいのですか?    

拝啓~私に婚約破棄を宣告した公爵様へ~

岡暁舟
恋愛
公爵様に宣言された婚約破棄……。あなたは正気ですか?そうですか。ならば、私も全力で行きましょう。全力で!!!

処理中です...