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執事の決意──『帰る理由は、食卓の向こうに』
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──誰かのために作る朝食ほど、己の価値を再確認するものはない。
私は今、そうして再び「執事」に戻ろうとしている。
目覚めたばかりの騎士団宿舎は、まだ外気の冷たさをひきずっていた。私は、ウィルに許可を取り、厨房を借りることにした。
もちろん、お詫びの意味もある。何も告げずに姿を消した私を、皆がどれほど心配してくれたか、その気持ちは有難いほどに重かった。ならば、私にできる最も誠実な謝罪の方法は一つ。腹を満たすことだ。
目を閉じれば思い出す。男爵様の朝は、香ばしいバターのオムレツの香りと共に始まる。妻の朝は、澄んだスープの湯気に包まれた微笑から始まる。私はその記憶を、ひとつずつ手に取るように思い出しながら、卵を割り、ベーコンを火にかけた。
フライパンの上で、香ばしく焼ける音が響く。ベーコンの油がゆっくりと卵に広がり、黄身の縁をなぞる。パンは堅かったが、ミルクに浸して、ほんの一滴だけハチミツを垂らすと、目を覚ましたような甘い香りが漂う。溶かしバターで両面を焼けば完成だ。
スープは野菜の端材をふんだんに使って、優しい味にした。胃に重たくない程度にとろみをつけ、隠し味にハーブと、ほんの少しのナツメグを加える。火加減を見ながら、私は静かに、呼吸を整えていく。
「わあ……いい匂いがする!」
元気な少年執事の声が響くと、サンゼールも続けて現れた。彼は静かに一礼し、空いた皿を率先して並べてくれる。ウィルは私の様子をちらちらと見ながら、苦笑している。まるで、何も言わずとも私の内側にあるものを見透かすように。
「クロード、私も手伝おうか?」
「いえ、ウィル殿はお座りください。団長のお仕事は、王都の平和維持でございますから」
「さっきと同じ人間の言葉とは思えないな……」
「それはそれ、です。……料理とは、自分で作っても、他人に食べさせても、どちらも心を癒やす。少なくとも私は、そう信じております」
皿が揃い、全員が席につく頃には、部屋に香ばしい匂いが満ちていた。目の前に並ぶ料理を見て、誰もが自然と笑みを浮かべる。
「これ、全部クロード先輩が?」
少年執事が目を丸くしている。
「うわ、本当にうまいな……このスープ、なんかあったまる」
「お世辞でも嬉しいですが、どうぞ召し上がってください。食事は言葉より雄弁ですので」
笑い声と、食器が触れ合う音。鍋の中で温めていたスープが静かに湯気を立てている。私も小さなパンの端を口に運びながら、皆の様子を見ていた。
温かさとはこういうものなのだ、と改めて思う。
誰かの為に用意された料理を、誰かが笑って食べてくれる。それはかつての巣にはなかったぬくもりだった。蜘蛛だった頃の私は、食べるか食われるかしか知らなかった。
しかし、今の私は違う。お義父様の温かさも、妻の笑顔も、友人たちの信頼も──全部、この二本の手で手に入れてきた。
私は、やはり執事だ。
お仕えするべき主がいて、守りたい家族がいる。あの屋敷に帰らなければならない。逃げてはいけない。心のどこかに刺さっていた、棘のような痛みが、今になってじわりと消えていくのを感じていた。
「クロード?」
「……私はやはり、屋敷へ戻ろうと思います。男爵様に、正式に謝罪せねばなりません」
「……そうか。なら、私が送っていこう」
ウィルの申し出に、私は静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。でも、それは私の仕事です。私自身の足で、けじめをつけたいのです」
誰にも奪われない、自分の役割というものがある。
たとえそれが些細な朝食の一皿であったとしても、私はその務めを誇りとして、再び歩き出すのだ。
──私はクロード。元蜘蛛、現執事。そして、愛する妻のために帰るべき場所を持つ者だ。
私は今、そうして再び「執事」に戻ろうとしている。
目覚めたばかりの騎士団宿舎は、まだ外気の冷たさをひきずっていた。私は、ウィルに許可を取り、厨房を借りることにした。
もちろん、お詫びの意味もある。何も告げずに姿を消した私を、皆がどれほど心配してくれたか、その気持ちは有難いほどに重かった。ならば、私にできる最も誠実な謝罪の方法は一つ。腹を満たすことだ。
目を閉じれば思い出す。男爵様の朝は、香ばしいバターのオムレツの香りと共に始まる。妻の朝は、澄んだスープの湯気に包まれた微笑から始まる。私はその記憶を、ひとつずつ手に取るように思い出しながら、卵を割り、ベーコンを火にかけた。
フライパンの上で、香ばしく焼ける音が響く。ベーコンの油がゆっくりと卵に広がり、黄身の縁をなぞる。パンは堅かったが、ミルクに浸して、ほんの一滴だけハチミツを垂らすと、目を覚ましたような甘い香りが漂う。溶かしバターで両面を焼けば完成だ。
スープは野菜の端材をふんだんに使って、優しい味にした。胃に重たくない程度にとろみをつけ、隠し味にハーブと、ほんの少しのナツメグを加える。火加減を見ながら、私は静かに、呼吸を整えていく。
「わあ……いい匂いがする!」
元気な少年執事の声が響くと、サンゼールも続けて現れた。彼は静かに一礼し、空いた皿を率先して並べてくれる。ウィルは私の様子をちらちらと見ながら、苦笑している。まるで、何も言わずとも私の内側にあるものを見透かすように。
「クロード、私も手伝おうか?」
「いえ、ウィル殿はお座りください。団長のお仕事は、王都の平和維持でございますから」
「さっきと同じ人間の言葉とは思えないな……」
「それはそれ、です。……料理とは、自分で作っても、他人に食べさせても、どちらも心を癒やす。少なくとも私は、そう信じております」
皿が揃い、全員が席につく頃には、部屋に香ばしい匂いが満ちていた。目の前に並ぶ料理を見て、誰もが自然と笑みを浮かべる。
「これ、全部クロード先輩が?」
少年執事が目を丸くしている。
「うわ、本当にうまいな……このスープ、なんかあったまる」
「お世辞でも嬉しいですが、どうぞ召し上がってください。食事は言葉より雄弁ですので」
笑い声と、食器が触れ合う音。鍋の中で温めていたスープが静かに湯気を立てている。私も小さなパンの端を口に運びながら、皆の様子を見ていた。
温かさとはこういうものなのだ、と改めて思う。
誰かの為に用意された料理を、誰かが笑って食べてくれる。それはかつての巣にはなかったぬくもりだった。蜘蛛だった頃の私は、食べるか食われるかしか知らなかった。
しかし、今の私は違う。お義父様の温かさも、妻の笑顔も、友人たちの信頼も──全部、この二本の手で手に入れてきた。
私は、やはり執事だ。
お仕えするべき主がいて、守りたい家族がいる。あの屋敷に帰らなければならない。逃げてはいけない。心のどこかに刺さっていた、棘のような痛みが、今になってじわりと消えていくのを感じていた。
「クロード?」
「……私はやはり、屋敷へ戻ろうと思います。男爵様に、正式に謝罪せねばなりません」
「……そうか。なら、私が送っていこう」
ウィルの申し出に、私は静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。でも、それは私の仕事です。私自身の足で、けじめをつけたいのです」
誰にも奪われない、自分の役割というものがある。
たとえそれが些細な朝食の一皿であったとしても、私はその務めを誇りとして、再び歩き出すのだ。
──私はクロード。元蜘蛛、現執事。そして、愛する妻のために帰るべき場所を持つ者だ。
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