レースの意匠

quesera

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一章

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 昨夜は、シュハンに連れ回され、ここぞと紹介を受けて注文が膨らんだ。中には以前の注文書へ署名を拒んだ者も含まれる。複雑だった。質でなく名声で買われる衣装、それを作らなければならない、自分。
 習慣となってか、朝早くに目覚めたイヨーリカは、早々に荷を纏めた。注文を捌くにも時間が惜しい。が、待てども、シュハンが見つかる気配は無い。大役を果たして酔いどれていたから、寝起きが遅いだろうが、気が焦る。女中に何度も伝言を頼み、漸く現れたシュハンは憎たらしいことを言ってのけた。
「滞在を伸ばして欲しいのだが」
「しかし、注文に手を着けませんと、約束した納期に収められません」
「縫子を雇えばいい」
「それは祖母が決めることです。祖母の店なのですから」
「イヨーリカの手柄だろう。グライアヌさんもそう思われるさ。手紙に書くといい」
「いいえ。一度帰りませんと」
「いやいや、私もそれでは困る。色々と頼まれているのでね。ここは私の顔を立ててはくれまいかね」
 手を揉んで気に病む領主を見れば、いた仕方ないかと渋々頷いた。
「祖母が請合ってくれたら、数日は。それで、戻りますから」

 そうやって引切り無しに客を連れてきたシュハンだが、約束した日を過ぎても、帰りの手配をしなかった。それどころか、客足も疎らになり、城の滞在客も一組、また一組と帰っていくのだが、シュハンはまだ客がいるのだと言い張る始末だ。
 昨日は姿も見なかったシュハンが、部屋に現れ、イヨーリカは詰め寄った。
「領主様、今日こそは」
 シュハンは客を伴っていた。ロシュトーレ侯だ。
「イヨーリカ、こちらもぜひにとおっしゃられてね」
 シュハンを詰りたいが、心遣いも頂いた方の前だ。イヨーリカは丁重に応対した。
「ご希望の品は何でございましょう」
「男物のシャツをお願いしよう」
「ロシュトーレ侯爵様がご着用になられますでしょうか?」
「いや、私にではないのだが、私から見立ててくれて構わない。同じ背格好だから」
「かしこまりました」
 上着を受け取り、採寸に膝を就こうとして、身を固めた。ロシュトーレ侯が声を荒げた。
「採寸に立ち会うおつもりか、シュハン殿」
 シュハンの白んだ顔には血が通っていたらしい。顔から血の気が失せた。
「これは、失礼を」
 とんだ侯爵だ、と、シュハンを見送ってから採寸に再び手を掛けたイヨーリカは、ロシュトーレ侯を眺めた。
 暖炉に片手を着き、背を向けている。その背からも慇懃さが漂う。その背から、思わぬ言葉が漏れた。
「計らずとも、知っているのではないか?」
 振り返ったロシュトーレ侯を思う事も無く見つめた。顧客名簿に彼の名はない。それとも、卑猥な当てこすりで言ったのだろうか。
 無頓着に眺めるイヨーリカの目前に、候が布を垂らした。
 叫んで、口を覆う。そんなはずは…。確かに、金茶の瞳は似ている。だが、明らかに彼ではないだろう。では、何故、ロワンへ渡したハンカチを? 
「ロワンの、ロシュトーレ侯はロワンをご存知でいらっしゃるのですか?」
 ロシュトーレ侯が目を避けた。失礼を申し上げたかと、謝罪に開きかけた口を、イヨーリカは放置した。ロシュトーレ侯が、髪に手を、そして、鬘を外した。現れた地毛は、見知った茶色…。

 そうだ。イヨーリカは事態を飲み込んだ。ロシュトーレ侯は、貴族だった。鬘は正装の範疇だ。
 思いもしなかった。見知った者がこの城にいるなど。身分の差は感じていたが、候の爵位を持つほどかけ離れた存在だとは、知りたくもなかった。気付きたくは無かった。この男を、結ばれぬ事実に傷つくほど、深く愛してしまっていたのだと。
「分からないようだったから、告げない積りだったが」
 ばつの悪い感を声に混じらせている男に、イヨーリカも意地悪く侮蔑を放った。
「そうね。騙すお遊びは、楽しいのでしょうから。まだ、続けたかったの? とうに御免被るわ、ロシュトーレ侯爵様」
「ああ。今更、許しを請おうとは思わない。弁解しようも無い事実だからね」
 一度口を結んだ候が、深く息を吐いて、再び鬘を纏った。
「要点を言おう。君は、シュハンに狙われている」
 何を言い出すのかとねめつけたが、淡々と指摘する候の言葉に、胸に憤りが燻った。
「彼は君を口説く隙を狙っている。既に、ヤーシュト男爵へ助力も頼み込んだ。それを知らせに来た」
「それは、叶わないわ。本当だとしても。私にその気は無いから。安心して。振った女が他の男へ走る姿は、見なくて済むわ」
「やれやれ、敵に容赦するなと教えたのだがな」
「誰が敵かは、自分で判断するわ!」
「では、出られるのか、ここから」
「出るわ! 帰ると言えばいいことだもの」
「果たして、帰すかな、シュハンが」
「イアが、イアが不審がるもの、イアに連絡すれば…」
 動じない男の表情。勝ち目を探っても無駄だと書いてある。
「君のお祖母様は、ここを訪ねたようだよ」
 否定する言葉が口から漏れる。でも、頭では、彼が嘘を語らない男だと分かっている。例え、身分を偽った男でも。
「君に会えなかったのだろう。私を頼って伝言を残した。森の小屋に」
「でも、そんな…イアがあなたの…イアが、そんな…」
「勿論、不在だったが、残した伝言を部下はここへ届けてくれてね」
 差し出す紙切れを受け取る。受け取る前から、その紙はイアの文だと、イヨーリカは分かっていた。祖母が、ロワンの隠す素性を頼りにしていたとも、ある程度の素性を推測していたとも、その紙に、察した。

 『あなた様なら、イヨーリカに会えるでしょう。お願い申し上げます。孫と連絡が取れません。可能でしたら、私の言葉を伝えてはもらえないでしょうか。仕事を放り出しても、帰りなさいと。あなたしか頼る方も存じ上げません。伏してお願い申し上げます』

 祖母が懇願しても引き渡さなかった、この身。
 開放するだろうか、シュハンの後見の、ヤーシュト男爵が。
「君は、安易に人を信用しすぎる。その者からの語り草だけを信じても、事実には様々な側面がある。ただの気まぐれの行事と思っているのだろうが、シュハンは、君を得るために、君を采配したのだ」
 それでも合点がいかず、目が泳ぎつつも否定する。
「私如き娘に、そんな大それた事」
「前にも忠告したが、自分の顔を鏡で覘いてから、言うんだな! 領主の奥方にも余りある美貌だと、知ってとぼけているのか?」
「そんなの…町ではいつでも私に会えるわ。ここに閉じ込める必要など」
 ロシュトーレ侯が、暖炉の煉瓦を頻りに叩いて力説する。
「町で会えば、では、君は、受けるのか? シュハンの求婚を? 今回のお膳立てに、君は、彼を見初めるでも尊敬するでもなかった。彼も馬鹿じゃない。真朋に口説いても無駄だと知って、周りを固めたんだ」
「でも、おかしいわ。領主様は私の何を知っているというの? 何度か顔を合わせただけで結婚を思いつくものかしら」手にある巻尺をこねくり回しながら、思いを巡らす。
「君の中身に興味があるなら、シュハンも閉じ込めやしない。愛は、捉えて、育めるとでも、思い違いしているのだろうな。愛を得るなら、待つしかないのだが」
 と、熱く語っていたロシュトーレ侯が、別な熱さを湛えた口調へ変わったと感じ、泳いでいた視線を巡らせば、彼の形相に手も止まり、見入るばかり。
 私を、愛おしむ瞳で、見ている。全身に惜しむ視線を這わす候。それだけで、息が上がり、胸が苦しく上下する。
「辛いが、待つしかない。手放しで、眺めるしか。いつか、君が愛を抱いて駆けて来るまで。愛を抱く兆しが見えずとも、ただ待つだけだ」
 何時の間に数歩の近寄りを許していたのか、イヨーリカの顎へ滑らかに手が滑る。指先がなぞる唇は、余韻でチリチリと疼き、今にも目前の唇へ吸い寄せられそう。
「その賭けに乗る勇気を捨てたシュハンなどに、君を得る隙など与えたくも無い」
 辛うじて誘惑に抗え、視線を避けたイヨーリカから、熱源の手が去っていった。
「私とて、好機を不意にするほど愚かでもないからな。迫っておこう。選んでくれ。どうするかは君の自由だ。私なら、事を大きくせず、君をここから連れ出せる。急ぎだと要求すれば、シュハンも頷かざるを得ない。ヤーシュト男爵も、私に遺恨を持たせもしないだろう。君が自力で帰れると思うなら、切り抜けてみるんだな。私は今日この城を発つ」
 色香に惑わされて上がった息が、憤怒に彩られた荒息へ転じる。が、突っ撥ねたいと意固地になる衝動を、イアの手記が真実であると、引き止める。
「君もこの手の客相手に店を広げたいなら、社交場に顔を出すべきだった。私以外に、馬車に同乗させてもらえる伝もできただろうし、シュハンの逆上を買って、客を亡くすとの脅しを受ける懸念も、自力で掴んだ客なら失うことなく一笑できたのにな」
「領主様は、その様なお方ではないわ。脅しているのはあなただわ」
 指摘が悔しいが、認めたくも無い。愚かだったと。そして、愚鈍さを最も知られたくない男に、示唆されて気付くその愚鈍さ加減。最後の見栄を張りたいと、矜持が素直さを遠ざける。その見栄を、候は肯定も否定もしなかった。
「シュハンを呼ぼう。私は、彼に訊ねる。仕立て上がりは君の帰宅次第と聞いたがそれは何時頃かと。君にも彼の前で訊こう。急いでいるが何時の仕上がりか。この城に残るなら、シュハンの許可次第、と答えてくれ。私の助力が必要なら、私の要望に沿うには早速取り掛からねば、と、困った顔でもしていただこう。そこで、私が、君を連れて帰る」

 かなりの時を、熟考に許してくれた。消えた町の噂。慣れぬ仕事で疲弊した身を労わる贈り物。シュハンの願望が真実なら言い寄ってきたはずのところ、その隙も暇も誰が奪ったか。誰の寄与で得られた庇護か、答えは明白だ。
 イヨーリカは、戸に進んだ。
「あ、領主様、いらしゃったのですね。今、お出で頂こうかとお話していましたの」
「そうですか。イヨーリカ、何でもお言いなさい。何か必要な物があるのかね?」
「いえ、ロシュトーレ侯爵様が急いでおられますようで」
 不審そうなシュハンの目つきからは、候を招いた後悔も垣間見られる。
「ロシュトーレ様、何分昨日の出来栄え故、多くの依頼を頂戴していると聞いております。イヨーリカも尽力するでしょうが、何卒寛容なご配慮を賜りたく存じますが」
「シュハン殿、他の客を後回しにしろとは言いたくないのだが、私も帰郷が迫っているのでね。変わった趣向の土産と間に合わせたいのだよ」
「はあ。では、イヨーリカ、ロシュトーレ侯のお品を先に仕上げて差し上げては」
「彼女に聴いたところ、手元に材料が無いそうだ」
「では、すぐさま取りにやらせましょう。それで、いいかな、イヨーリカ」
 有無を言わさぬシュハンの目力に、少なくとも仕立屋は仕事場で仕事すべきとの理解も踏みにじる、何かの事情を孕んでいるのだと、イヨーリカも読み取れた。
「それには及ばない。訊けば、彼女の店はドムトルにあるそうだな。私もウォーグ伯の城へ戻るのだから、彼女を送っていこう。出立までに卿まで届けて貰えれば、事は容易いと思うが?」
「ロシュトーレ様にその様な面倒を掛けるに忍びません。私が責任を持ちまして、出立までにはお品を届けに参りますので」
「面倒を掛けるのはこちらの方だ。気になされるな。いかがかな、イヨーリカ嬢」
 焦燥に青いシュハンと、不適な笑みを浮かべる候が、イヨーリカを仰ぐ。ヨハの求婚を断り、傷を得てさえ、更に領主の求愛を得て女として何の不満があるのか。仮に領主の妻に望まれるなら、これ以上に恵まれた結婚があろうはずも無い。なのに、何の魅力も希望も持てない。
 知ってしまったから。あの唇の味を。あのキスに身を委ねたいと一度罪に溺れたなら、この先あの唇の心地を思い起こしては、この手にないと喪失感に苛まれる人生を送るのだ。
 ヨハにそんな嫁を与えるなどできない。領主の隣に並ぶのがそんな堕落し切った女であってよいはずも無い。
「ロシュトーレ侯爵様、では、お言葉に甘えまして、急ぎお品を仕立てましょう」
「この娘は、しかし、家の者からお預かりしています、大切な娘です。その、候と同乗であったとなればこの家の者に顔向けができません。どうか、お許しいただけますよう」
「案ずるな。シュハン殿にも大切なお人なのだろう? 傷一つ付けずお返しいたそう」
 シュハンがこれ見よがしに照れた顔を隠しもせず見せ付ける。が、直ぐに慌てふためいた。
「尤も彼女が拒まぬなら、私も美しい女性を口説きたい男の一人だ、保証はしないがな」
「ロシュトーレ様も、ご冗談を。このイヨーリカは、候のご冗談を交わせるご婦人方とはいきません。怯えて同乗もできぬでしょう」
「食えぬ男だ。はっきりと言えばどうだ? シュハン殿の求愛にイヨーリカ嬢が頷くなら、式に祝いをやらんでもない」
「それは、はあ、候のお許しもあれば、直ぐにでも式をあげたいところですが」
 シュハンが、心強い応援を得たとでも思ったのだろう、候に感謝の会釈を送り、意欲漲る瞳を向けてきた。手を揉み、首をかしげ、何かを待っているようだ。何を待つのかと思い当れば、イヨーリカは、意を決した。
「思いも寄らぬことです。町の娘に、領主様が。どうぞお忘れ置きください。領主様には相応しくない身ですから」
「イヨーリカ、私は気にしていないのだよ。誰も反対しない」
「私は既に結婚の約束をしております」
「それなら問題ない。ブロッソンの息子だろう? 私が話を付けてあげよう。心配は何も要らないよ、イヨーリカ」
「あ、いえ。ドムトルの者ではありません」
「大事無いよ。町を出ての婚姻には、この私の許しが要る。領民の籍を移す願いが出ても、イヨーリカを移す申請には署名はすまい。先方に侘びが要るなら、手を貸そう」
「これは聞き逃せまいぞ、シュハン殿。領主の権限を私欲に使われては、ヤーシュト男爵も黙ってはいまい」
「しかし、ロシュトーレ様、領民豊かに育むが領主の務め。領民が移籍するなら叱責を食らうでしょうに、この町の好景気を齎す腕のイヨーリカなら尚のこと。ヤーシュト男爵様もご納得かと」
「確かにな」
 イヨーリカの真意を知りながらシュハンを唆した男を前に、自力もあるのだと手を払う技量を見せ付けたかったが、返って男の差し伸べた手を掴めなくしまっていた。思わず、次の手を探って視線をやった先で、目で縋ってしまう。
 後方に下がっていたロシュトーレ侯が、シュハンの肩を叩いて横に立った。
「だそうだ、イヨーリカ嬢。家の者とも相談して、シュハン殿へお返事差し上げると良い。シュハン殿、気持ちは伝えたのだ。続きは後日で良いだろう。彼女の腕を郷土の産物と活かすなら、私が郷国へ持ち帰れば一役買えるというものだ。彼女を借りて悪いが、私に免じて、シュハン殿も彼女に猶予をあげてくれまいか」
 即答するとでも思っていたのか、たじろぐシュハンだが、馬車の出立の頃合を告げる候を前には、了承を差し出すほか無かった。
 馬車に乗り込むまで、シュハンが説得に付きまとう。賛辞やら嘆願やら、恐喝まがいでも是を搾り取ろうと、訴えかけてくる。ヤーシュト男爵へ退出の挨拶に出向いた折も、考慮してやれと、ヤーシュト男爵から口添えまで飛び出した。

「男はうんざりと言いたげだな」
 乗り込むなり、シュハンが付けた使用人を御者の横に座らせたロシュトーレ候が、口火を切った。
「そう仰せのあなたは、私に非があるとお思いですのね」
「知らぬなら、これも教えておこう。褒美を権力でチラつかせるなら、その権力に身を委ねるを期待してだ。褒美だけ掻っ攫ったと、恨まれるぞ。余りに世に疎いと」
 淡い赤紫のビロードを金の鋲が留める、華麗な背もたれと座面。窓にも同色の薄布があしらわれ、室内の呈だ。紺地の外出着に身を包む候は、本来の茶の髪を結っており、衣服を除けば、見知った男だ。
「ヨハの求婚も断るのだな」
「ロシュトーレ侯爵様にお返事することではありません」
「では、私の求婚には答えてもらおうか」
 苛立たしく開いていた口を、驚きに解いて、凝視した。
 求婚? でも、確か、私の住まいがどうとか…愛人と囲む気だったのでは…。結婚?
「イヨーリカ、君に結婚を申し込んでいるのだよ」
 と、微笑むロシュトーレ侯に、何の冗談かと、思わずいきり立った。
「何を寝ぼけた話を! また、騙すの? あなた、侯爵なのよね? そうなのでしょう? 違うって言うの? まさか、森番だと蒸し返すのではないでしょうね!」
 意外にも、ロシュトーレ侯が口を閉ざす。彼の真意が見えない。
 目にしている男は、紛れも無く、イヨーリカもよく知るロワンだ。けれど、知らない一面を持っていた。
 ロワンが食卓に何を好んだか知っている。だが、侯爵の日常など、この馬車の装飾のように、全くの未知の域だ。受けられるはずもない。知らないロシュトーレ侯の求婚など。
「お断り申し上げます」
「君を騙したからか?」
「だって、あなたは誰? 分からないわ。ロシュトーレ侯爵なんて人、知らないもの。ロワンだって、果たして、私が知っていた人なのか。結婚? 馬鹿げているわ!」
「私は私だ。君は、私を好いてくれている」
 イヨーリカは鼻で笑った。だから何だと言うのだ。好きで結婚できるくらいなら、ヨハとしていた。例えロワンに魅かれていたところで、瞬時に結婚へ足を運べるものか。しかも、相手は、侯爵だ。躊躇も余りある。
「私は結婚しないわ」
「私でなくとも、という意味か?」
「そう取ってもらって結構よ。今の生活に満足しているわ。イアと二人、暮らしたいの」
「無理だ。置いて行きたくはない。愛している、イヨーリカ。イアが許すなら、イアと共に来て欲しい」
「共に? 何故? 行く、って、何処よ? あなた誰? この国の人でさえないの? 何? 嫌! 離して!」
 混乱に高ぶっている怒りで、隣に移った男の介抱など、薄汚く感じて手を弾く。が、自分以上に、感情を迸らせている者が居た。
「機会を逃さないと、言ってあった! 君は選んだだろ。シュハンより、私を採ると」
「やめて! 家に戻りたかったからよ。こんな、お願い、手を退けて!」
「知っていたはずだ。私が想いを寄せていると。その点では、私もシュハンと同じ欲望を持つ男だ。なのに、私を選んだ」
「知らなかったわよ! あなたの気持ちなんて」
「違うな。分かっていたはずだ。まだ認めないなら、今、分からせるまでだ」

 ああ、これだ…。
 イヨーリカの意識は、甘い園に溶けて消えた。唇を吸われれば、どんな気力も砕ける。止まらない。まだ、と、心が望む。キスをしてさえ尚キスを渇望する。唇が離れたと薄っすら感じても、全身はキスの歓喜に浸ったまま。 ぼんやりと瞼を開いて、金茶の煌きを見上げた。
「結婚して欲しい」
 一瞬強張った瞳に、イヨーリカも自我を取り戻した。流されては駄目だ。愛人と落ちるを怯んだが、侯爵家に嫁ぐなど身の程を省みない返事ができようか。
「断るわ」
 怒気を含む視線が、何やら促して、イヨーリカへ下っていく。視線を追って、醜態を目の当たりにした。彼の片膝は、イヨーリカのスカートを座面に繋ぎ留めている。その片膝を挟む、イヨーリカの両足。ロシュトーレ侯は、イヨーリカの股の間に片膝を着いていたのだ。
 覆うよう彼の背は天井を塞ぐ。憎らしげに見下す先には、留め具の外れたドレスから覗く下着と、胸肌。布地をかき寄せる間に、彼は頬へ手を伸ばしてきた。
「こんなにも、頬が熱い。この手の中で、熱で熟れて、柔らかく溶け出ていきそうだ。私の愛撫を受け入れたからだからだろ。なのに、何故だ? 好きかと問えば、そうだと頷く。君と生涯暮らして生きたいと結婚を請えば、否と言う。なのに、キスを拒むこともしない! 君は、このまま抱かれて愛人に成り下がるつもりか!」
 激しく睨むと、候は音を立てて対面へと腰を下ろした。
「ひと時顔を避けているから」
 言外に、身なりを整えろと示唆され、イヨーリカは候を見る。
 腕を挙げ、横向けた顔に手の甲を宛がい、顔を隠している。
 掴んだ布地を覗いた。下着が深く下がり、コルセットの紐も、結びは解かれていた。直しつつ、イヨーリカは胸が塞いだ。
 レディーはこうも襲われまい。男の手管に身を許すもままならぬはずだ。なぜなら、レディーの衣服がそうできている。ドレスの留め具も、コルセットの紐も、背にある。男の誘惑に落ちても、脱衣を図る男の手に気付かぬ訳も無い。候が手を伸ばしたのは、伸ばしやすい身だったからだ。
 自らの意思で自宅へ帰るもままならない。貞節を守るに振り払うにも、常に誰かの庇護が要るが、本来はその庇護が父親や家の位であるはずが、イヨーリカには無い。惚れた男と密室で二人となるを、阻む、庇護が無い。
 あるのは、恋心に流されるこの弱い身だというのに。

「すまなかった。私もつい。ただ、背徳に崩れ落ちそうだ、このままだと。キスを返す君を知ってしまった。なのに、結婚を拒まれては、このまま奪いたいとも我を忘れてしまいそうになる。できれば結婚で君を得たい。結婚まで君に触れないで置きたいと、私の誇りを掛けて約束したいが、求婚に応えるならだ。気が狂いそうだよ。何故結婚を拒む?」
 スカートを折り込み座り直したイヨーリカは、顔を覗かせる男の唇に流れる震えに、つい釣られそうになる自分を抑えて返した。
「あなたの方こそ、何故結婚なんて?」
「愛している」
「愛している、それだけで、誰とでも結婚するの?」
「そうだ。耐えられない。君と過ごす日が、恋しい。一度知ったら、幾日も会わない日がどれだけ色褪せた日々になるか。君を想わない日はない。何も手につかない。求婚することばかり考えていた。だが、不安だった。君に誰か想う人が居るのか。君は申し出を受け入れてくれるのか。私の家を知れば、君は…。案の定、当然だが、君は躊躇した」
「なんて勝手なの…。隠しておいて、好きだから結婚? 結婚は人生を共に歩むことだわ。育ちも隠されて何で判断できるの? あなたは、ロワンなの? 候の名は、ロワンなの? ロワン・ロシュトーレ侯と呼べばいいの? それさえも知らないのよ?」
 瞳を大きく開いた候が、笑みに崩れて、再び頬に手を伸ばすものだから、イヨーリカは手を叩いて謗った。
「答えなさいよ!」
「候の名は、ロワンではない。だが、私はロワンだ」
「訳が分からないわ! 名前を幾つも持っているの?」
「そういうことだ。だが、私は私だ。君が見ている男は、一人だ」
「ロシュトーレ侯でもあって、ロワン何?」
「クリフト・ロシュトーレ侯と爵位を持つが、ロワン・シュタイフが、私の本来の名だ。位も名も大事なことなのか?」
「当たり前だわ。だって…」
 何故悲壮な顔からにやけた口元を見せるまでに変貌したか、イヨーリカも気付いて、小さく毒づいた。可能性も無い男なら、鼻から判断材料など探らない。
「考えてくれるね? イヨーリカ」
「ロワン、さっき、触れないって」
「言ったさ。君が結婚に頷くなら、ね。今度会う時に君が知りたいことは全て話すよ。それで、返事してくれ」
「今、話せば?」
「話した挙句に断られたら様はない。今は、結婚を拒む気を砕く時だ」

 今度は品性を取り戻したようだ。手を握り、髪に触れ、誓いを囁くロワン。
 今まで平然とよくもこの顔を目にできたものだ。恥ずかしくて俯けば、ロワンが顎に手を沿え、上向かせる。
 期待に唾を飲むが、それでも、唇を重ねたのは、馬車を降りる間際だった。
 店の戸をくぐれば、イアが涙ぐんで立ち上がり、孫を迎えた。孫へ這わす間にも、涙を湛えた視線は、感謝にロワンへ運ばれる。
「遅くなり、ご心配をおかけいたしました。無事、連れ戻りましたよ」
「ええ。ええ。ありがとうございます。あなた様には助けられてばかり。お礼の言葉も聞き飽きたでしょうが、言わせてください。感謝申し上げますと」
「イア! 失礼にあたるわ。この方は」
「イヨーリカ、詳細な話は今度にしたい。シュハンに雇われた者が外で待っているからね」
「一体、何ですの?」
「イヨーリカの御祖母様には、折り入ってお話がございます。後日、伺いたいのですが」
 ロワンと孫とを見比べたイアだが、思うところあってか、一礼をした。
「こちらこそ、ロワン様には、この子の両親の話も致しませんと。その手のお話でいらっしゃるのでしょう?」
「はい。ご推察通り。それでは、日を改めまして。ああ、イヨーリカ、私の出立は十日後だ。その日にここへ来ようと思う。日数がなくて申し訳ないのだが、できれば、それまでに返事の見通しを立ててくれると嬉しい」

 ロワンが帰ったその日に、ロワンの使用人が店を訪れた。
 二人の男は、向かいの空き家で護衛に暮らすと言う。
 一人は小柄な娘で、イヨーリカの部屋の床に寝ると言って譲らなかった。この娘は、身支度一式と、一枚のシャツの代金も持参していた。

 注文を捌く慌しい日が続いた。
 足の踏み場もない店へ厄介な客も訪れた。シュハンはあれこれ手助けを申し出るが、寄りによってロシュトーレ侯の品を届けると言い張り、シャツを後回しにできなくなった。
 が、怪我の功名か、煩いシュハンを使いに一時でも追い払え、順調に仕事は捗っていった。
 ロワンの弁解を聞かずして、結婚は決められない。だが、常に胸中は、結婚する先を模索していた。

 働くのは糧を得るため。糧を得る必要のない生活となれば、仕立屋は廃業だ。
 でも、侯爵というからには、位に値した義務があるはずだ。奥方としての責務を果たす生活が。
 子孫を残す義務。その子達を貴族と育て、領地を管理し、領民に気を配り、使用人を取り仕切り、社交に加わる。
 子どもが生まれれば、その子に服を縫う程度は許される範疇だろうか。レースを編んでやるのも。

 恋に憧れていたけれど、その先に続きがあった。
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