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二章
一の一
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作り置きしてあったレースも底を尽かんとの勢いで、衣服の縫製が山とある。城で知り合った縫子を呼び、仕上げてこてを当てる。箱詰めすれば、再び現れたシュハンに納品の同伴をお願いし、ロワンが差し向けた娘と共に城や館を回った。
シュハンは領主の気骨を見せ、見知った貴人を訪問することに嬉々と同伴したが、玄関先で失礼するイヨーリカに、次第に苛立った態度も示すようになり、詰るを平然と受け流すイヨーリカに立腹し、店に顔を出さなくなった。
八日が過ぎていた。
サムウォル店の繁盛振りは町の誰もが知ったようで、普段の客も遠慮してか、文で注文が訊ねられる程度で、店に客が通うこともなかった。夕刻時、店先に背を伸ばしに出たイヨーリカは、町の人がこちらを指差しているのを見た。
ごわついた織物を被った男が、指差しに釣られ、看板を見上げている。店へ来るのだと気付いて、戸の脇でその男を待つ。織物は、馬上の操作を邪魔しないよう身を覆うだけの代物で、装飾もなく、裾から両肩まで伸びる切れ目からは、腰に下げた剣が見えた。
兵士だ。通りの馬止めに馬を繋ぎ、再度、店の看板を確認している。と、イヨーリカを繁々と眺め、近寄ってきた。
「イヨーリカ様でいらっしゃいますね。グライアヌ様はおいででしょうか」
様と呼ぶ男を、ロワンの差し向けかと、怪訝そうに眺め、ともあれ中へ案内した。
「イア、お客様」
男は、踵を鳴らし、敬礼をするではないか。重い音に目を遣れば、鋳物を卓上に置いたようだ。イアが、嘆息を漏らした。
「イヨーリカ、上へ。早く!」
イアが鋭い声を上げ、と、階段を娘が滑り降りてきた。ロワンから預かる娘は、閃光を放ったかと思うと、男へ切り付け、剣がかち合う音が耳を劈いた。
「やめなさい! 二人とも、やめなさい!」
「グライアヌ様、何のお積りですか? この者は?」
「だから、やめなさい! イヨーリカに危害は加えないわ、この男は」
暫し睨み合っていた二人だが、娘が剣を引いた。が、イヨーリカの前に憮然と立ち塞がっている。
男は娘を一瞥すると、イアに一礼した。
「ラヒ・リヨンドと申します。先触れもなく、突然お尋ねして失礼致しました」
「イヨーリカ、その娘を連れて、暫く外へ」
「いえ! グライアヌ様。イヨーリカ様をこの者では守りきれぬでしょう」
娘が発する凄みを気にも留めない風の男は、イアへ紙を差し出した。
引っ手繰る様に読むイアが、険しく顔を歪めた。
「イヨーリカに気付いていたのね」
「はい。サムロイ子爵から漏れたようです」
「彼は、こちら側だと」
「子爵からの伝書があちらへ流れたと聞いています」
不明な会話が交わされる中に、イヨーリカは聞き覚えのある名に、首をかしげた。
サムロイ子爵は、ヤーシュト男爵の城で会っている。注文もくれた。イヨーリカが仕立てた衣装に感動を寄せてくれた人物だ。でも、初対面だと思う。イアは知り合い?
「イア、何の話なの? 領主様がらみ?」
紙から呆然と顔を上げたイアが、イヨーリカを制した。
「話は後よ。それで、ラヒ。急ぎなの?」
「できましたら、即刻にでも」
「あなた一人?」
「村を出た先に隊列を待たせてあります。残りの隊は半日送れて到着します。先ずは…」
男がイアを見つめた。男が喉を鳴らしたが、涙を飲んでいたと知り、イヨーリカはイアとを交互に見た。二人に交わされる、哀傷の頷き。
「イヨーリカを頼みます。ラヒ・リヨンド」
気丈夫なイアだが、今は一層気迫を纏わせている。と、ふっとイアが笑った。
「いい子ね。そのまま、決して騒いだりしないで、ラヒに従って。いいえ、質問も駄目。分かった?」
ラヒが、馬の嘶きに、瞬時窓辺に寄って外を伺う。尋常ではない振りに、イヨーリカも恐々と頷いた。
「ラヒと今からこの町を離れなさい。私はここの整理をして後から向かいます。ほら、質問は駄目と約束したでしょ。事情はラヒが行く先で話してくれます」
イアが娘に向かった。
「あなたはどうしましょうか。イヨーリカが無事にロワンと会うには、今はここを出ないといけないの。どうするかしら?」
「イヨーリカ様の傍に居ろとの仰せです。何れは会えると約束して頂けますか?」
「勿論よ。それでは、イヨーリカに付いて行くのね。では、イヨーリカ、そしてあなたも。百数えるわ。その間に、要る物を持って降りて。目立つ物も嵩張る物も駄目ですよ。外套を忘れずにね。それと、あなたは、向かいの方へ事情をロワンに知らせるよう話してくれるかしら。ここで揉める暇はないの。運がよければ、私はロワンへ直接事情を話せるかもしれない、そう、伝えて」
体から意識が飛んでいったよう。何を掴むのか定かでない手。娘は手馴れたようで着衣を整えると、イヨーリカの代わりに動いてくれている。
イヨーリカが掴んで降りたのは、イアのくれたブローチだった。
「そうね。それはイヨーリカが持って行きなさい」
何気にイアへ差し出していたが、イアがそっと押し返した。祖母の強い抱擁の中、イアの匂いを吸い込む。
気丈に振舞うイアも、暫しの別れに涙ぐんだようだ。
「さあ、行って。ラヒを手こずらせてはいけないわ」
「イアは? 必ず後から来るのね?」
「ええ、そうですよ。愛しているイヨーリカに一人辛い想いなど決してさせないわ。勿論、ロワンと必ずまた会えますよ。その為にも後から向かうの。さあ、気をつけてね」
外ではラヒが護衛の男らと話していた。呆然と見送る男らも、一人は思いついたように馬を翔らせて、一人は店の前で見送っている。振り返っても、戸口にイアは居ない。窓の灯りに浮かぶ姿が、イアだ。
青紫の空に、千切れた雲が暗転の帯を成す。町で一番高い鐘の塔の陰に、黄色い太陽の残光が白々しく瞬いている。丘の上から見下ろせば、町へ伸びる一本の道。草に縁取られた土色の筋は、白い残光と草の影と、馬上の人型の影とを代わる代わる纏っていく。
遠く聞こえていた馬の足並みが背後に届いた。瞬時に身を硬くしたラヒを背に感じ、イヨーリカは訊ねた。
「シルヴァ?」
「はい」
旅路は二人を予定していたラヒにすれば、ロワンが付けた小娘など、馬を調達して追い付くまいが、意に介さずといった風情。ラヒの懸念は、追っ手が居ないかだけなのだろう。追われているのだとは、イヨーリカも黙するラヒから読み取った。
二人乗りに閉口など言わせる素振りもないラヒ。イヨーリカの外套に目を潜め、脱ぐよう言うと、着ていた織物の被り物をイヨーリカに纏わせた。イヨーリカが着れば、足元が隠れ、繋ぎのフードを被れば、前方も見えないほど。それほど屈強な男が背に乗る。
短髪は兵士の由縁か、それでも天然の渦が巻くラヒの面立ちは、表情は厳ついのだろうが、黄色に透ける渦と澄み切った水色の瞳は、どこか可愛らしさを感じて微笑ましく笑んでしまいそうだ。こんな状況でなければ。
問いに口を開けば、突然の追っ手に駆ければ舌を切る、と正され、イヨーリカも黙ったままだ。兵士とは、この様に必要最低限の単語しか発しない生き物なのか。隣に顔を見せに並んだシルヴァにも、話しかけてはならぬと、背のラヒが圧を発した。
夕闇に何度も空を見上げていたラヒが、木立を指した。道の脇に広がる草原の中、林とも言えない木立だ。
「必要ならあちらへお連れしますが。この先宿まで立ち寄れませんので」
「宿? 合流するのではないの?」
「だからです。隊には男しか居ない。今の方がよろしいかと」
用を足すか訊いているのだと俯くが、確かにどうせそんな姿を晒すなら、一人だけにしておきたい。シルヴァも居る。
だんまりを了承と採ったらしく、ラヒは返事も訊かず木立へ馬を寄せた。既に足が悴んで言うことを訊かない。軽々と抱き下ろされれば、自分は華奢なのかと勘違いしそうだ。
立会いそうでもあったが、木立の周りを旋回するだけに満足したらしい。しゃがむイヨーリカをシルヴァが隠す。
「あちこち動かないで欲しいわ、あの男」
ロワンの暮らしぶりしか口にしない娘だったが、今は剣を所持していたことを納得するだけの気概を放っている。彼女もまた鍛錬した身なのだろう。ラヒの馬は尋常でない恰幅だが、町で馬を買ったシルヴァに馬の良し悪しを選べる余裕はなかったろうに、野場に近い粗野な馬を駆り、ラヒの行程に遅れを取らない。
そのシルヴァが、遠慮に離れた場所から漏らす声を聞かせるなら、聞かせたいのだ。ラヒが気に食わないと。
シルヴァの愚痴はあたっていた。イヨーリカが交代すると、ラヒは一目散にイヨーリカへ駆け寄った。シルヴァが最中だろうに。
「まだ来ないで!」
「イヨーリカ様を守る者がおりませんと」
「では、私が行けばいいのでしょう。失礼だわ!」
「あの者は兵です」
「女よ!」
果たして、列に戻ったシルヴァは何食わぬ顔をしていた。待たせた、でも、行こう、でもない寡黙な二人。イヨーリカは身震いした。感情もない二人に守られている現実に。
頻りに空を見上げる理由が分かった。カンテラで前方を照らす頃には、布地に水滴の染み込む音が撥ね始めた。疎らだった雨音も連なる水糸となり、叩きつける先で白く散り、視界が極めて悪い。ラヒの被り物は水が中へ浸透しないらしく、雨水が転がるように生地を滑り、イヨーリカの靴を濡らしていく。
「イヨーリカ様、靴をお脱ぎになり、濡れないようお持ちください。雨の悪路で申し訳ありませんが、宿までこのまま強行します」
天候はラヒのせいではないのに何故謝るのかと背後を伺えば、イヨーリカが謝罪したいぐらいだ。ラヒは全身、着衣のまま濡れそぼっている。音を立てて降る雨に、髪も張り付き、滝の如き水が顔に流れ落ちているが、目を閉じもしない。
「リヨンドさん、よろしければ、一緒に包まりませんか?」
「及びません」
動じない男に、イヨーリカは思い当った。不本意なのだと。イアには何故だか感情を漏らしていた気がする。イアは気がかりなのだろうが、私はイアに頼まれた娘でしかないのだ。祖母に恩があるのだろうか。
一時が、気が遠くなるように長い。馬の一足が、鈍く感じる。蒸気を放っていた馬は、既に伝わってくる熱もない。闇に今かと灯りを探す努力も、とうに手放していた。
と、馬の士気が上がった。カンテラを回すラヒ。イヨーリカは、対に回る明かりを見た。暗がりの中に蠢く気配と馬の鼻息が、出向いた一行を出迎えてくれた。
「イヨーリカ様をお連れした。首尾は?」
「はい。手配完了です、ラヒ様」
「こちらは、女が一人増えた。女は…どうしたものか、イヨーリカ様より離れまい」
「では、宿へ向かう者を一人下げましょう。何者ですか?」
「グライアヌ様が身元を保証されておられる。詳細は私が確認する。その他は、接触を禁ずる」
「御意」
「皆、聴け。こちらがイヨーリカ様だ」
カンテラを向けられ、イヨーリカは目を窄めた。自分だけが晒され、幾人もの気配は感じるが、相手も見えない。失礼する、と、ラヒがフードを捲るなら、晒し者になる不快さを更に味わう羽目に。
「挨拶は明日だ。こちらが、連れのシルヴァ嬢。間者と思しき節を持つ。心せよ」
ざわめきが光の向こうから届く。シルヴァにカンテラの矛先が移り、慣れぬ目で、シルヴァを眺める顔たちが闇に浮かぶのを見た。光の反射も届かない顔も居るようだ。かなりの人数が犇めき合っていた。
「ラヒ殿、では、よくお休みに」
「寝られればいいがな」
緊迫した中に、靄と共に笑いが立ち上がる。男特有の野次だと分かり、イヨーリカはフードを押さえるラヒの手を払い、被り直した。雨に打たれる中、足を止めるのも不快なのに、不愉快極まりない。
と、泥濘に滑る音を聞いた。悪態を吐く男が光の届く範囲から消え、泥水に重い物が落ちての鈍い音もする。シルヴァが馬上から男を一人蹴り倒したらしい。鼻息を吐いて、ラヒにシルヴァが並んだ。
ラヒが低く唸った。
「今のシルヴァ殿の行為は、イヨーリカ様を守る兵を一人削いだとご存知か」
「躾の成っていない兵など足手まといです」
剣幕を隠しもせず放つ二人と共に、イヨーリカは集団から離れて行くと知って、ラヒを伺った。
「あの方たちとご一緒ではないのですか?」
「あんな無粋な兵士一隊が宿を占領すれば、目にもつきますわ、イヨーリカ様。ラヒ殿、兵が増えれば、それだけ人目にも晒されます。イヨーリカ様の身の安全を優先されるなら、こちらへお預けいただくのが筋というもの。私の主は、保護をお約束できるだけの随一の力をお持ちです」
「敵とも知れぬ身に預けられようか」
「なんと! 主がイヨーりカ様に害を及ぼすとお思いか? 主がイヨーリカ様に出会われて以来、身をお守り申し上げたは、我ら。それを命じた主の献身をお疑いか!」
「見るに、シルヴァ殿の主とで、君主の理の中におられるのであろう。随一の忠誠は君主へではないのか。女ごときにその忠誠を違えれば、理の外へ弾かれる。ならば、守る術も取り上げられる。以上が、申し出を返上する理由だ。イヨーリカ様に縁ある者故、返答したが、以後の詮索は慎んでいただこう」
侯爵の権力を打ち捨てるなど、ラヒはロワンの素性を知らぬとはいえ、一体どんな事態に巻き込むのか。張り詰めていた気が放出し、馬の歩調に身を合わせる気も起きない。当然、背後で身を揺らすラヒと幾度と衝突し、ラヒがカンテラをシルヴァへ渡すと、片腕でイヨーリカを抱き取る。
灯りが離れた視界に、集落の灯りが見え隠れし始めた。
シュハンは領主の気骨を見せ、見知った貴人を訪問することに嬉々と同伴したが、玄関先で失礼するイヨーリカに、次第に苛立った態度も示すようになり、詰るを平然と受け流すイヨーリカに立腹し、店に顔を出さなくなった。
八日が過ぎていた。
サムウォル店の繁盛振りは町の誰もが知ったようで、普段の客も遠慮してか、文で注文が訊ねられる程度で、店に客が通うこともなかった。夕刻時、店先に背を伸ばしに出たイヨーリカは、町の人がこちらを指差しているのを見た。
ごわついた織物を被った男が、指差しに釣られ、看板を見上げている。店へ来るのだと気付いて、戸の脇でその男を待つ。織物は、馬上の操作を邪魔しないよう身を覆うだけの代物で、装飾もなく、裾から両肩まで伸びる切れ目からは、腰に下げた剣が見えた。
兵士だ。通りの馬止めに馬を繋ぎ、再度、店の看板を確認している。と、イヨーリカを繁々と眺め、近寄ってきた。
「イヨーリカ様でいらっしゃいますね。グライアヌ様はおいででしょうか」
様と呼ぶ男を、ロワンの差し向けかと、怪訝そうに眺め、ともあれ中へ案内した。
「イア、お客様」
男は、踵を鳴らし、敬礼をするではないか。重い音に目を遣れば、鋳物を卓上に置いたようだ。イアが、嘆息を漏らした。
「イヨーリカ、上へ。早く!」
イアが鋭い声を上げ、と、階段を娘が滑り降りてきた。ロワンから預かる娘は、閃光を放ったかと思うと、男へ切り付け、剣がかち合う音が耳を劈いた。
「やめなさい! 二人とも、やめなさい!」
「グライアヌ様、何のお積りですか? この者は?」
「だから、やめなさい! イヨーリカに危害は加えないわ、この男は」
暫し睨み合っていた二人だが、娘が剣を引いた。が、イヨーリカの前に憮然と立ち塞がっている。
男は娘を一瞥すると、イアに一礼した。
「ラヒ・リヨンドと申します。先触れもなく、突然お尋ねして失礼致しました」
「イヨーリカ、その娘を連れて、暫く外へ」
「いえ! グライアヌ様。イヨーリカ様をこの者では守りきれぬでしょう」
娘が発する凄みを気にも留めない風の男は、イアへ紙を差し出した。
引っ手繰る様に読むイアが、険しく顔を歪めた。
「イヨーリカに気付いていたのね」
「はい。サムロイ子爵から漏れたようです」
「彼は、こちら側だと」
「子爵からの伝書があちらへ流れたと聞いています」
不明な会話が交わされる中に、イヨーリカは聞き覚えのある名に、首をかしげた。
サムロイ子爵は、ヤーシュト男爵の城で会っている。注文もくれた。イヨーリカが仕立てた衣装に感動を寄せてくれた人物だ。でも、初対面だと思う。イアは知り合い?
「イア、何の話なの? 領主様がらみ?」
紙から呆然と顔を上げたイアが、イヨーリカを制した。
「話は後よ。それで、ラヒ。急ぎなの?」
「できましたら、即刻にでも」
「あなた一人?」
「村を出た先に隊列を待たせてあります。残りの隊は半日送れて到着します。先ずは…」
男がイアを見つめた。男が喉を鳴らしたが、涙を飲んでいたと知り、イヨーリカはイアとを交互に見た。二人に交わされる、哀傷の頷き。
「イヨーリカを頼みます。ラヒ・リヨンド」
気丈夫なイアだが、今は一層気迫を纏わせている。と、ふっとイアが笑った。
「いい子ね。そのまま、決して騒いだりしないで、ラヒに従って。いいえ、質問も駄目。分かった?」
ラヒが、馬の嘶きに、瞬時窓辺に寄って外を伺う。尋常ではない振りに、イヨーリカも恐々と頷いた。
「ラヒと今からこの町を離れなさい。私はここの整理をして後から向かいます。ほら、質問は駄目と約束したでしょ。事情はラヒが行く先で話してくれます」
イアが娘に向かった。
「あなたはどうしましょうか。イヨーリカが無事にロワンと会うには、今はここを出ないといけないの。どうするかしら?」
「イヨーリカ様の傍に居ろとの仰せです。何れは会えると約束して頂けますか?」
「勿論よ。それでは、イヨーリカに付いて行くのね。では、イヨーリカ、そしてあなたも。百数えるわ。その間に、要る物を持って降りて。目立つ物も嵩張る物も駄目ですよ。外套を忘れずにね。それと、あなたは、向かいの方へ事情をロワンに知らせるよう話してくれるかしら。ここで揉める暇はないの。運がよければ、私はロワンへ直接事情を話せるかもしれない、そう、伝えて」
体から意識が飛んでいったよう。何を掴むのか定かでない手。娘は手馴れたようで着衣を整えると、イヨーリカの代わりに動いてくれている。
イヨーリカが掴んで降りたのは、イアのくれたブローチだった。
「そうね。それはイヨーリカが持って行きなさい」
何気にイアへ差し出していたが、イアがそっと押し返した。祖母の強い抱擁の中、イアの匂いを吸い込む。
気丈に振舞うイアも、暫しの別れに涙ぐんだようだ。
「さあ、行って。ラヒを手こずらせてはいけないわ」
「イアは? 必ず後から来るのね?」
「ええ、そうですよ。愛しているイヨーリカに一人辛い想いなど決してさせないわ。勿論、ロワンと必ずまた会えますよ。その為にも後から向かうの。さあ、気をつけてね」
外ではラヒが護衛の男らと話していた。呆然と見送る男らも、一人は思いついたように馬を翔らせて、一人は店の前で見送っている。振り返っても、戸口にイアは居ない。窓の灯りに浮かぶ姿が、イアだ。
青紫の空に、千切れた雲が暗転の帯を成す。町で一番高い鐘の塔の陰に、黄色い太陽の残光が白々しく瞬いている。丘の上から見下ろせば、町へ伸びる一本の道。草に縁取られた土色の筋は、白い残光と草の影と、馬上の人型の影とを代わる代わる纏っていく。
遠く聞こえていた馬の足並みが背後に届いた。瞬時に身を硬くしたラヒを背に感じ、イヨーリカは訊ねた。
「シルヴァ?」
「はい」
旅路は二人を予定していたラヒにすれば、ロワンが付けた小娘など、馬を調達して追い付くまいが、意に介さずといった風情。ラヒの懸念は、追っ手が居ないかだけなのだろう。追われているのだとは、イヨーリカも黙するラヒから読み取った。
二人乗りに閉口など言わせる素振りもないラヒ。イヨーリカの外套に目を潜め、脱ぐよう言うと、着ていた織物の被り物をイヨーリカに纏わせた。イヨーリカが着れば、足元が隠れ、繋ぎのフードを被れば、前方も見えないほど。それほど屈強な男が背に乗る。
短髪は兵士の由縁か、それでも天然の渦が巻くラヒの面立ちは、表情は厳ついのだろうが、黄色に透ける渦と澄み切った水色の瞳は、どこか可愛らしさを感じて微笑ましく笑んでしまいそうだ。こんな状況でなければ。
問いに口を開けば、突然の追っ手に駆ければ舌を切る、と正され、イヨーリカも黙ったままだ。兵士とは、この様に必要最低限の単語しか発しない生き物なのか。隣に顔を見せに並んだシルヴァにも、話しかけてはならぬと、背のラヒが圧を発した。
夕闇に何度も空を見上げていたラヒが、木立を指した。道の脇に広がる草原の中、林とも言えない木立だ。
「必要ならあちらへお連れしますが。この先宿まで立ち寄れませんので」
「宿? 合流するのではないの?」
「だからです。隊には男しか居ない。今の方がよろしいかと」
用を足すか訊いているのだと俯くが、確かにどうせそんな姿を晒すなら、一人だけにしておきたい。シルヴァも居る。
だんまりを了承と採ったらしく、ラヒは返事も訊かず木立へ馬を寄せた。既に足が悴んで言うことを訊かない。軽々と抱き下ろされれば、自分は華奢なのかと勘違いしそうだ。
立会いそうでもあったが、木立の周りを旋回するだけに満足したらしい。しゃがむイヨーリカをシルヴァが隠す。
「あちこち動かないで欲しいわ、あの男」
ロワンの暮らしぶりしか口にしない娘だったが、今は剣を所持していたことを納得するだけの気概を放っている。彼女もまた鍛錬した身なのだろう。ラヒの馬は尋常でない恰幅だが、町で馬を買ったシルヴァに馬の良し悪しを選べる余裕はなかったろうに、野場に近い粗野な馬を駆り、ラヒの行程に遅れを取らない。
そのシルヴァが、遠慮に離れた場所から漏らす声を聞かせるなら、聞かせたいのだ。ラヒが気に食わないと。
シルヴァの愚痴はあたっていた。イヨーリカが交代すると、ラヒは一目散にイヨーリカへ駆け寄った。シルヴァが最中だろうに。
「まだ来ないで!」
「イヨーリカ様を守る者がおりませんと」
「では、私が行けばいいのでしょう。失礼だわ!」
「あの者は兵です」
「女よ!」
果たして、列に戻ったシルヴァは何食わぬ顔をしていた。待たせた、でも、行こう、でもない寡黙な二人。イヨーリカは身震いした。感情もない二人に守られている現実に。
頻りに空を見上げる理由が分かった。カンテラで前方を照らす頃には、布地に水滴の染み込む音が撥ね始めた。疎らだった雨音も連なる水糸となり、叩きつける先で白く散り、視界が極めて悪い。ラヒの被り物は水が中へ浸透しないらしく、雨水が転がるように生地を滑り、イヨーリカの靴を濡らしていく。
「イヨーリカ様、靴をお脱ぎになり、濡れないようお持ちください。雨の悪路で申し訳ありませんが、宿までこのまま強行します」
天候はラヒのせいではないのに何故謝るのかと背後を伺えば、イヨーリカが謝罪したいぐらいだ。ラヒは全身、着衣のまま濡れそぼっている。音を立てて降る雨に、髪も張り付き、滝の如き水が顔に流れ落ちているが、目を閉じもしない。
「リヨンドさん、よろしければ、一緒に包まりませんか?」
「及びません」
動じない男に、イヨーリカは思い当った。不本意なのだと。イアには何故だか感情を漏らしていた気がする。イアは気がかりなのだろうが、私はイアに頼まれた娘でしかないのだ。祖母に恩があるのだろうか。
一時が、気が遠くなるように長い。馬の一足が、鈍く感じる。蒸気を放っていた馬は、既に伝わってくる熱もない。闇に今かと灯りを探す努力も、とうに手放していた。
と、馬の士気が上がった。カンテラを回すラヒ。イヨーリカは、対に回る明かりを見た。暗がりの中に蠢く気配と馬の鼻息が、出向いた一行を出迎えてくれた。
「イヨーリカ様をお連れした。首尾は?」
「はい。手配完了です、ラヒ様」
「こちらは、女が一人増えた。女は…どうしたものか、イヨーリカ様より離れまい」
「では、宿へ向かう者を一人下げましょう。何者ですか?」
「グライアヌ様が身元を保証されておられる。詳細は私が確認する。その他は、接触を禁ずる」
「御意」
「皆、聴け。こちらがイヨーリカ様だ」
カンテラを向けられ、イヨーリカは目を窄めた。自分だけが晒され、幾人もの気配は感じるが、相手も見えない。失礼する、と、ラヒがフードを捲るなら、晒し者になる不快さを更に味わう羽目に。
「挨拶は明日だ。こちらが、連れのシルヴァ嬢。間者と思しき節を持つ。心せよ」
ざわめきが光の向こうから届く。シルヴァにカンテラの矛先が移り、慣れぬ目で、シルヴァを眺める顔たちが闇に浮かぶのを見た。光の反射も届かない顔も居るようだ。かなりの人数が犇めき合っていた。
「ラヒ殿、では、よくお休みに」
「寝られればいいがな」
緊迫した中に、靄と共に笑いが立ち上がる。男特有の野次だと分かり、イヨーリカはフードを押さえるラヒの手を払い、被り直した。雨に打たれる中、足を止めるのも不快なのに、不愉快極まりない。
と、泥濘に滑る音を聞いた。悪態を吐く男が光の届く範囲から消え、泥水に重い物が落ちての鈍い音もする。シルヴァが馬上から男を一人蹴り倒したらしい。鼻息を吐いて、ラヒにシルヴァが並んだ。
ラヒが低く唸った。
「今のシルヴァ殿の行為は、イヨーリカ様を守る兵を一人削いだとご存知か」
「躾の成っていない兵など足手まといです」
剣幕を隠しもせず放つ二人と共に、イヨーリカは集団から離れて行くと知って、ラヒを伺った。
「あの方たちとご一緒ではないのですか?」
「あんな無粋な兵士一隊が宿を占領すれば、目にもつきますわ、イヨーリカ様。ラヒ殿、兵が増えれば、それだけ人目にも晒されます。イヨーリカ様の身の安全を優先されるなら、こちらへお預けいただくのが筋というもの。私の主は、保護をお約束できるだけの随一の力をお持ちです」
「敵とも知れぬ身に預けられようか」
「なんと! 主がイヨーりカ様に害を及ぼすとお思いか? 主がイヨーリカ様に出会われて以来、身をお守り申し上げたは、我ら。それを命じた主の献身をお疑いか!」
「見るに、シルヴァ殿の主とで、君主の理の中におられるのであろう。随一の忠誠は君主へではないのか。女ごときにその忠誠を違えれば、理の外へ弾かれる。ならば、守る術も取り上げられる。以上が、申し出を返上する理由だ。イヨーリカ様に縁ある者故、返答したが、以後の詮索は慎んでいただこう」
侯爵の権力を打ち捨てるなど、ラヒはロワンの素性を知らぬとはいえ、一体どんな事態に巻き込むのか。張り詰めていた気が放出し、馬の歩調に身を合わせる気も起きない。当然、背後で身を揺らすラヒと幾度と衝突し、ラヒがカンテラをシルヴァへ渡すと、片腕でイヨーリカを抱き取る。
灯りが離れた視界に、集落の灯りが見え隠れし始めた。
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