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二章
三の二
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「お呼びだそうで」
現れたラヒには少なからず目を瞠った。自分とて格段に良い物を身に纏うが、道中は旅姿のラヒしか目にしなかったから。
ラヒは一兵であるはずもなかったのだ。結集を潜めるなら城内で軍服を着用もしないのだろうが、少なくとも使用人に準じた制服でもなく、美しく統制された容姿は、さながらこの城の主を訪ねた客分に値する身なりだ。
「フィリョンカ女王は?」
「まだ到着されておりません。イヨーリカ様、私が許可申し上げるまでは、グライアヌ様、或いはお祖母様とお呼びになられてください」
「城主は素性をご存じないから? ああ、知り合いのお住まいでもないのかしら。ここへは自分の足で来ていないもので」
嫌味を気にもしないだろうと当てこすったが、ラヒは風を起こす勢いで膝を折った。
「如何様にも叱責は頂戴する覚悟。命じたのは、この私です」
余りの剣幕に、身じろぎ、揺らぐ裾裁きでラヒの顎を叩いてしまった。見下ろす男はそれにも動じず、裾を摘んで口を寄せるものだから、スカートを引き剥がせば、今度は膝で擦り寄り、裾をしかとラヒが掴んだ。
「イヨーリカ様の御身に薬を用いた罪は、決して消えぬと、命じた私が何より覚悟しておりますれば、手討ちいただくもイヨーリカ様の御心次第にございます」
「薬? 私に薬を? 私に何をしたの!」
イヨーリカの引く手も強まり、が、ラヒも懇願に縋り、互いに布を引き合って睨み向かった。
「お怪我無く、気を絶つためにございます。が、しかし、全てはラスワタの、未来のため! この男の命一人今消えようと、これまで命捧げた同志の物の数に及びましょうか。お腹立ちを汲み申上げたいと、目前を去れと仰せなら、後に生涯イヨーリカ様の目に映るもなく消えましょう。ですが、私の延命でないと誓い申し上げれば、どうか事情を、いえ、何卒拝聴賜りますよう」
「聞くわ! でも、聞いてどうするかは約束しない。ここを出たいと思うかもしれないもの。そうなれば、あなたは、私を解放するのかしら? なら、聴くわ!」
「それだけは…イヨーリカ様は、我らの悲願を叶える、一筋の光にございます!」
「あなたたちの悲願は、あなたたちの主観に依るものでしょう? 押し付けないで! 人にそれを押し付けないで!」
「聞いてさえ下されば!」
「あなたたちの理屈を聞いて、それが正しいと、何故、私に思い込めるの?」
「イヨーリカ様!」
「離しなさい! 謝っておいて、また、やるの? また、無理強いするの? 拒めばまた薬を盛るのでしょう? あなたの命幾つあっても足りないじゃない!」
半狂乱に引けば、ラヒの手から布が放たれた。思わぬ開放に、勢い余り、後ろに裾を踏み、踏み留まろうとした時には避けれぬ事態を察して、一声叫んだ。背後に鏡台がある。
鈍く響く音。痛みを飲み込む声。生暖かい息を頭上に感じれば、体は、温かい生身に着地していた。ラヒが、鏡台に叩きつけられつつ、イヨーリカを抱いていた。
ラヒが呻けば、シャシャと落ちる、鏡の破片。破片の合間をどろりと流れる血。金色の髪に赤黒く広がる筋が、夥しく上着をどす黒く染めていく。
ラヒの後頭へ手を添え、髪を除ければ、覗く、ぱっくりと開く傷に、身震いした。血があふれ出んと、開いた傷口に溜まっている。
見回して掴んだ羽織を当て、ラヒの手を添えさせる。寝台の紐へ走ろうとしたイヨーリカの手を、ラヒが掴んで、引き止めた。
「イヨーリカ様」
痛みに歪むべく顔が必死の形相で見縋る。
「手当てが先。聴くまでは逃げないから」
幸福な笑みを搾り出すラヒに、何故か、その頬へキスを贈った。
ラヒが連れ出されてから、イヨーリカの身支度を整え直し、鏡台を取り除くなど、人の出入りにざわめいた部屋だが、床に散る破片を使用人が集める頃には、イヨーリカは別室へと誘われていた。
部屋に連なる廊下は、回廊となっており、細く設けられた窓からは、対の棟が見えていた。間にあるのは中庭なのだろう。イヨーリカが居た部屋は四階であった。
連れられた部屋には、予め人が居た。同行していた兵の三人が書斎の家具周りに立つ。服装は以前と似た身なりで、私兵なのだと理解した。
道中、イヨーリカの知らぬ言葉でラヒと交わしていた兵は居ない。あの同行者たちは、主がそれぞれ違ったのだ、と、兵に囲まれた椅子に座る男を見た。
イヨーリカを待っていたようではなさそうだ。イヨーリカを連れた使用人が男へ耳打ちに歩き、男は漸く書く手を止めた。立ち上がりざま、それでも名残惜しそうにペンを走らせていた紙を指で撫ぜると、ゆっくりと振り返った。
白髪が混じる様は、残りの毛髪を青黒く強調するようで、齢を重ねた白髪というより、急激な白髪の増殖に若さを手放した黒髪が、今も本来の年齢を主張しては、白髪の侵入を束になって死守するかの如き様相。
面立ちにもそれが現れている。顔に筋肉の弛緩は見られないが、染みもまだ見ない中年の肌には水気が見られない。石造りのひんやりとした城ではあろうが、シャツに毛織物の羽織とのいで立ちは、季節を忘れたようにも思える。
勧められる椅子に座るイヨーリカは、対面へ座る男も、お茶を運ぶ使用人も、自分に与えられた者たちとは違う、自国、今は自国とも呼べないのかもしれないが、ヨーマ国人だと気付いた。
「ようこそ我が家へ、イヨーリカ様。主の、ザヒト・シュラウケンと申します。あれは、怪我をしたようですな。イヨーリカ様に失礼がなければよいのですが」
ラヒを『あれ』と呼ぶシュラウケン伯は、イヨーリカの視線を受け止め、皺交じりに微笑んだ。
「ラヒは私の孫でしてね。血気盛んな若者は、時に人へも無茶を強いる。粗相があったでしょうが、お許しくださいませ」
「リヨンド様のご容態は? 傷が深かったようにも」
即時、ラヒの身分を心内に納得したイヨーリカを、シュラウケン伯が不思議そうに眺め、立ち尽くす兵へ視線を泳がした。兵も何とも答えようの無い顔だ。イヨーリカは、漂う懸念に、青ざめた。
「思わしくないのですか?」
「ご心配を頂戴したと知ればラヒの怪我も直ぐに治りましょう。しかし、まだ、お認めになられていないのですな、イヨーリカ様は。今お仕えせずしていかがしたものか。これでは、イヨーリカ様に家臣と思われずとも仕方ないのでしょうな」
「家臣? お孫様と」
「孫ではありますがね。娘を嫁に出した時から、覚悟しておりました。三女も、生まれる子らも、ラスワタ国のものだと。ですが、例え国を分かつとて、祖父としてあの子の一助になる決意は持っております。どうぞ、ラヒを腹心とお抱え下さりますよう。あなた様に実直にお仕え申しあげると、このザヒトが、お約束申し上げます」
返事はできない。一言頷けば、事態は転がるように決起へ向かうと、感じ取れる。
「イヨーリカ様には、ご自由に我が家をお使いくださいますよう。こちらの兵は私の信頼する者たちです。事情を把握しております」
兵らが軽く会釈した。以前には跪かなかった兵たちだ。今も、その振る舞いは変わらない。彼らには、客でしかないのだ。
「ただし、使用人の大半には、ラヒは財産分与に私の所へ国を渡ったのだと話しております。イヨーリカ様のお世話は、ラヒが連れたラスワタの女か、乳母だったスワンカという女が致しますが、それ以外の者にはラスワタの話は内密に願います」
「はい。仰せに配慮いたします。ですが、シルヴァは、彼女の姿が見えませんが」
「少々、怪我を召されましてな。養生すべきが、聞く耳を持たぬ故、眠らせております。心配するほどの怪我ではありませんから、ご用が無ければ寝かせてやりましょう」
イヨーリカは、頭を下げた。今は自分の身の置き所も分からないが、心の拠り所であるロワンが付けた娘。その世話を、関与しない者へ負わせているのは心苦しい。恐らく、イヨーリカをフィリョンカ女王の血を継ぐ者と迎えても、その孫の胸中までは歓迎しないだろうに。結束に集う剣に、愛に揺らぐ想いなど敬遠される想いなのだろうから。
「しかし、ですな。ラヒが申すには、彼女の素性を検分するまではお傍に寄せぬがよかろうと。私も、同意見でしてね」
「意を違える立場では、と、ご懸念ですのね。主はロワン・シュタイフ、いえ、クリフト・ロシュトーレ侯爵です」
「ほう。それはまた、クリフト・ロシュトーレ侯なる御仁は、私の記憶の範疇ですが、存在しない」
ラヒの淡白な物言いは祖父の血を引くからであったか、シュラウケン伯は物静かに話す。相手の感情を煽るも、害うもせず、実は優しさを伴っての配慮ある話し方なのだと、話す事実にもめげず、イヨーリカもすんなりと応じられる。
「詳しくは私も聞いていないのですが、ヴォーグ伯爵様と親交があるようでしたし、爵位は幾つか重なるものでしょうから。他の爵位で知られているのでは?」
「そうですかな。今はさありなん、私も二人の息子に爵位を分け、娘三人も其々貴族に娶わせるほどには世間に身を置いておりましたからな、面識も物覚えもそれなりに持っております。ヴォーグ卿は酔狂なお方でおられた。デン国の候を招かれたとしても不思議ではないが」
「デン国…そうでした。帰郷すると言っていたと思います」
「しかし、デン国のロシュトーレ候はご老体でおられましょうが、爵位はお譲りでないと思ったが。まあ、彼女に尋ねてからにしましょう。思わぬ訃報を耳にするのかもしれません。そうであれば、イヨーリカ様がラヒに男を見ないのも、当然かな。随分と成熟された殿君に求愛されたイヨーリカ様には、孫はまだまだ年いかぬ少年にも思えましょう」
シルヴァを詮索されるのかと、庇って巡らした思考が、ぴたりと止んだ。
俯くイヨーリカを、恥らってかと、詫びるシュラウケン伯が、それとなく退室を促した。
「これは、参りましたな。イヨーリカ様をお連れするとあって、使用人には、ラヒに頃合の良い娘を会わせようと、私がラヒを迎えに向かわせたのだと伝えてありましてね。ラヒが関心を寄せないのであれば、祖父の空回りと見ましょうが、イヨーリカ様の目にも留まらぬとあれば、使用人から咎める目で見られましょうかな。先ほども、スワンカに事情を打ち明けねば、拒む娘に手を出しおってとラヒは乳母から尻を叩かれたでしょう」
自ら戸を開き、兵を一人イヨーリカに配したシュラウケン伯が、キスを送ったイヨーリカの手を、進むべき方向へと軽く引いた。
「あれがイヨーリカ様へ傅く所でも見つかれば、ラヒと二人揃いてここを去るは、非難されましょうな。サムロイ家のご令嬢をなんとするかと。お一人でお返し申しあげるほか無くなります。お心お決めになれば、私がラヒからお守りもしましょう。その、なんとかと申す男の所へお連れしても構いませぬが、お心定まるまでは、孫の頬に紅などお残しになりませぬよう。ラヒにすれば、好意も抱かぬからとあなた様を送り返す手はずで、共にここを出る腹でおります故」
先を促すよう会釈するシュラウケン伯が、周囲へ目を這わせ、イヨーリカに皺くしゃの笑みを捧げると、手を離し、一礼した。
「主の私でさえ、使用人全ての口は塞ぎようもございません。立ち居重く振われますよう。娘に戻るときは、この爺をお尋ねください。この爺も、この上孫まで騒乱へ散らす気も無い、唯の爺やでもございますからな」
現れたラヒには少なからず目を瞠った。自分とて格段に良い物を身に纏うが、道中は旅姿のラヒしか目にしなかったから。
ラヒは一兵であるはずもなかったのだ。結集を潜めるなら城内で軍服を着用もしないのだろうが、少なくとも使用人に準じた制服でもなく、美しく統制された容姿は、さながらこの城の主を訪ねた客分に値する身なりだ。
「フィリョンカ女王は?」
「まだ到着されておりません。イヨーリカ様、私が許可申し上げるまでは、グライアヌ様、或いはお祖母様とお呼びになられてください」
「城主は素性をご存じないから? ああ、知り合いのお住まいでもないのかしら。ここへは自分の足で来ていないもので」
嫌味を気にもしないだろうと当てこすったが、ラヒは風を起こす勢いで膝を折った。
「如何様にも叱責は頂戴する覚悟。命じたのは、この私です」
余りの剣幕に、身じろぎ、揺らぐ裾裁きでラヒの顎を叩いてしまった。見下ろす男はそれにも動じず、裾を摘んで口を寄せるものだから、スカートを引き剥がせば、今度は膝で擦り寄り、裾をしかとラヒが掴んだ。
「イヨーリカ様の御身に薬を用いた罪は、決して消えぬと、命じた私が何より覚悟しておりますれば、手討ちいただくもイヨーリカ様の御心次第にございます」
「薬? 私に薬を? 私に何をしたの!」
イヨーリカの引く手も強まり、が、ラヒも懇願に縋り、互いに布を引き合って睨み向かった。
「お怪我無く、気を絶つためにございます。が、しかし、全てはラスワタの、未来のため! この男の命一人今消えようと、これまで命捧げた同志の物の数に及びましょうか。お腹立ちを汲み申上げたいと、目前を去れと仰せなら、後に生涯イヨーリカ様の目に映るもなく消えましょう。ですが、私の延命でないと誓い申し上げれば、どうか事情を、いえ、何卒拝聴賜りますよう」
「聞くわ! でも、聞いてどうするかは約束しない。ここを出たいと思うかもしれないもの。そうなれば、あなたは、私を解放するのかしら? なら、聴くわ!」
「それだけは…イヨーリカ様は、我らの悲願を叶える、一筋の光にございます!」
「あなたたちの悲願は、あなたたちの主観に依るものでしょう? 押し付けないで! 人にそれを押し付けないで!」
「聞いてさえ下されば!」
「あなたたちの理屈を聞いて、それが正しいと、何故、私に思い込めるの?」
「イヨーリカ様!」
「離しなさい! 謝っておいて、また、やるの? また、無理強いするの? 拒めばまた薬を盛るのでしょう? あなたの命幾つあっても足りないじゃない!」
半狂乱に引けば、ラヒの手から布が放たれた。思わぬ開放に、勢い余り、後ろに裾を踏み、踏み留まろうとした時には避けれぬ事態を察して、一声叫んだ。背後に鏡台がある。
鈍く響く音。痛みを飲み込む声。生暖かい息を頭上に感じれば、体は、温かい生身に着地していた。ラヒが、鏡台に叩きつけられつつ、イヨーリカを抱いていた。
ラヒが呻けば、シャシャと落ちる、鏡の破片。破片の合間をどろりと流れる血。金色の髪に赤黒く広がる筋が、夥しく上着をどす黒く染めていく。
ラヒの後頭へ手を添え、髪を除ければ、覗く、ぱっくりと開く傷に、身震いした。血があふれ出んと、開いた傷口に溜まっている。
見回して掴んだ羽織を当て、ラヒの手を添えさせる。寝台の紐へ走ろうとしたイヨーリカの手を、ラヒが掴んで、引き止めた。
「イヨーリカ様」
痛みに歪むべく顔が必死の形相で見縋る。
「手当てが先。聴くまでは逃げないから」
幸福な笑みを搾り出すラヒに、何故か、その頬へキスを贈った。
ラヒが連れ出されてから、イヨーリカの身支度を整え直し、鏡台を取り除くなど、人の出入りにざわめいた部屋だが、床に散る破片を使用人が集める頃には、イヨーリカは別室へと誘われていた。
部屋に連なる廊下は、回廊となっており、細く設けられた窓からは、対の棟が見えていた。間にあるのは中庭なのだろう。イヨーリカが居た部屋は四階であった。
連れられた部屋には、予め人が居た。同行していた兵の三人が書斎の家具周りに立つ。服装は以前と似た身なりで、私兵なのだと理解した。
道中、イヨーリカの知らぬ言葉でラヒと交わしていた兵は居ない。あの同行者たちは、主がそれぞれ違ったのだ、と、兵に囲まれた椅子に座る男を見た。
イヨーリカを待っていたようではなさそうだ。イヨーリカを連れた使用人が男へ耳打ちに歩き、男は漸く書く手を止めた。立ち上がりざま、それでも名残惜しそうにペンを走らせていた紙を指で撫ぜると、ゆっくりと振り返った。
白髪が混じる様は、残りの毛髪を青黒く強調するようで、齢を重ねた白髪というより、急激な白髪の増殖に若さを手放した黒髪が、今も本来の年齢を主張しては、白髪の侵入を束になって死守するかの如き様相。
面立ちにもそれが現れている。顔に筋肉の弛緩は見られないが、染みもまだ見ない中年の肌には水気が見られない。石造りのひんやりとした城ではあろうが、シャツに毛織物の羽織とのいで立ちは、季節を忘れたようにも思える。
勧められる椅子に座るイヨーリカは、対面へ座る男も、お茶を運ぶ使用人も、自分に与えられた者たちとは違う、自国、今は自国とも呼べないのかもしれないが、ヨーマ国人だと気付いた。
「ようこそ我が家へ、イヨーリカ様。主の、ザヒト・シュラウケンと申します。あれは、怪我をしたようですな。イヨーリカ様に失礼がなければよいのですが」
ラヒを『あれ』と呼ぶシュラウケン伯は、イヨーリカの視線を受け止め、皺交じりに微笑んだ。
「ラヒは私の孫でしてね。血気盛んな若者は、時に人へも無茶を強いる。粗相があったでしょうが、お許しくださいませ」
「リヨンド様のご容態は? 傷が深かったようにも」
即時、ラヒの身分を心内に納得したイヨーリカを、シュラウケン伯が不思議そうに眺め、立ち尽くす兵へ視線を泳がした。兵も何とも答えようの無い顔だ。イヨーリカは、漂う懸念に、青ざめた。
「思わしくないのですか?」
「ご心配を頂戴したと知ればラヒの怪我も直ぐに治りましょう。しかし、まだ、お認めになられていないのですな、イヨーリカ様は。今お仕えせずしていかがしたものか。これでは、イヨーリカ様に家臣と思われずとも仕方ないのでしょうな」
「家臣? お孫様と」
「孫ではありますがね。娘を嫁に出した時から、覚悟しておりました。三女も、生まれる子らも、ラスワタ国のものだと。ですが、例え国を分かつとて、祖父としてあの子の一助になる決意は持っております。どうぞ、ラヒを腹心とお抱え下さりますよう。あなた様に実直にお仕え申しあげると、このザヒトが、お約束申し上げます」
返事はできない。一言頷けば、事態は転がるように決起へ向かうと、感じ取れる。
「イヨーリカ様には、ご自由に我が家をお使いくださいますよう。こちらの兵は私の信頼する者たちです。事情を把握しております」
兵らが軽く会釈した。以前には跪かなかった兵たちだ。今も、その振る舞いは変わらない。彼らには、客でしかないのだ。
「ただし、使用人の大半には、ラヒは財産分与に私の所へ国を渡ったのだと話しております。イヨーリカ様のお世話は、ラヒが連れたラスワタの女か、乳母だったスワンカという女が致しますが、それ以外の者にはラスワタの話は内密に願います」
「はい。仰せに配慮いたします。ですが、シルヴァは、彼女の姿が見えませんが」
「少々、怪我を召されましてな。養生すべきが、聞く耳を持たぬ故、眠らせております。心配するほどの怪我ではありませんから、ご用が無ければ寝かせてやりましょう」
イヨーリカは、頭を下げた。今は自分の身の置き所も分からないが、心の拠り所であるロワンが付けた娘。その世話を、関与しない者へ負わせているのは心苦しい。恐らく、イヨーリカをフィリョンカ女王の血を継ぐ者と迎えても、その孫の胸中までは歓迎しないだろうに。結束に集う剣に、愛に揺らぐ想いなど敬遠される想いなのだろうから。
「しかし、ですな。ラヒが申すには、彼女の素性を検分するまではお傍に寄せぬがよかろうと。私も、同意見でしてね」
「意を違える立場では、と、ご懸念ですのね。主はロワン・シュタイフ、いえ、クリフト・ロシュトーレ侯爵です」
「ほう。それはまた、クリフト・ロシュトーレ侯なる御仁は、私の記憶の範疇ですが、存在しない」
ラヒの淡白な物言いは祖父の血を引くからであったか、シュラウケン伯は物静かに話す。相手の感情を煽るも、害うもせず、実は優しさを伴っての配慮ある話し方なのだと、話す事実にもめげず、イヨーリカもすんなりと応じられる。
「詳しくは私も聞いていないのですが、ヴォーグ伯爵様と親交があるようでしたし、爵位は幾つか重なるものでしょうから。他の爵位で知られているのでは?」
「そうですかな。今はさありなん、私も二人の息子に爵位を分け、娘三人も其々貴族に娶わせるほどには世間に身を置いておりましたからな、面識も物覚えもそれなりに持っております。ヴォーグ卿は酔狂なお方でおられた。デン国の候を招かれたとしても不思議ではないが」
「デン国…そうでした。帰郷すると言っていたと思います」
「しかし、デン国のロシュトーレ候はご老体でおられましょうが、爵位はお譲りでないと思ったが。まあ、彼女に尋ねてからにしましょう。思わぬ訃報を耳にするのかもしれません。そうであれば、イヨーリカ様がラヒに男を見ないのも、当然かな。随分と成熟された殿君に求愛されたイヨーリカ様には、孫はまだまだ年いかぬ少年にも思えましょう」
シルヴァを詮索されるのかと、庇って巡らした思考が、ぴたりと止んだ。
俯くイヨーリカを、恥らってかと、詫びるシュラウケン伯が、それとなく退室を促した。
「これは、参りましたな。イヨーリカ様をお連れするとあって、使用人には、ラヒに頃合の良い娘を会わせようと、私がラヒを迎えに向かわせたのだと伝えてありましてね。ラヒが関心を寄せないのであれば、祖父の空回りと見ましょうが、イヨーリカ様の目にも留まらぬとあれば、使用人から咎める目で見られましょうかな。先ほども、スワンカに事情を打ち明けねば、拒む娘に手を出しおってとラヒは乳母から尻を叩かれたでしょう」
自ら戸を開き、兵を一人イヨーリカに配したシュラウケン伯が、キスを送ったイヨーリカの手を、進むべき方向へと軽く引いた。
「あれがイヨーリカ様へ傅く所でも見つかれば、ラヒと二人揃いてここを去るは、非難されましょうな。サムロイ家のご令嬢をなんとするかと。お一人でお返し申しあげるほか無くなります。お心お決めになれば、私がラヒからお守りもしましょう。その、なんとかと申す男の所へお連れしても構いませぬが、お心定まるまでは、孫の頬に紅などお残しになりませぬよう。ラヒにすれば、好意も抱かぬからとあなた様を送り返す手はずで、共にここを出る腹でおります故」
先を促すよう会釈するシュラウケン伯が、周囲へ目を這わせ、イヨーリカに皺くしゃの笑みを捧げると、手を離し、一礼した。
「主の私でさえ、使用人全ての口は塞ぎようもございません。立ち居重く振われますよう。娘に戻るときは、この爺をお尋ねください。この爺も、この上孫まで騒乱へ散らす気も無い、唯の爺やでもございますからな」
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