レースの意匠

quesera

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三章

二の一

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 その夜、日中の外出で火照った頬を風呂場で十分に蒸した後の事だった。
 大使との晩餐に備え、薄手の夜会服に袖を通したイヨーリカは、慌しく穿たれた戸の音に、スリョと共に顔を見合した。既に正装したラヒだった。
「支度途中とは存じますが、失礼をお許しください。デン国から使いの者が参り、イヨーリカ様に面会を申しでられておいでです」
「私に?」
 顔を顰めたイヨーリカに、ラヒが戸惑いの濃い顔色を見せた。
「イヨーリカ様の身上は伏せておりましたので、何処から聞いたのか、なんとも申し上げようがございませんが」
 ラヒは、確定した事実以外口に出さない。その性は、この旅で身を持って知った。ラヒの知る人物が漏らしていない、と、ラヒが保障するなら、残るは一人だ。
 イヨーリカの存在をひた隠しにしてきたラヒにすれば、歯噛み以上の苛立たしさに違いない。その軽率な行いを自分に関わる人物が齎したとなれば、ラヒの苦行を眺めて来たイヨーリカには何ともばつの悪い事態でもある。
 ラヒはその名を発したくもないのだろうと察して、イヨーリカが呟いた。
「ロシュトーレ候が知らせたのね」
「デン国からの勅使がイヨーリカ様へ来訪するなど、素性を知らねば起こりえません。ここのヨーマ国の大使でさえ、爵位の分与を受ける代償に課せられた、私の婚約相手だと信じ込んでいますから」
「では、お祖母様は、ロワンの所に居るということね」
「少なくとも、お会いできた、とは言えるでしょう。勅使の御方は、グライアヌ様のお孫様をご指名です」
「で、私はどう対応すればいいの? イアの所在を尋ねても構わないの?」
「先方が話すまでは、親族であることはお伏せください。話の進行は私が取り仕切りますので、私を傍へお付けください」
 あくまでも生真面目な物言いのラヒに、イヨーリカは呆れて鼻を鳴らした。
「あなたの婚約者なのでしょう? 傍へ寄すもなにも、あなたが連れて行けばいいわ。自分の女に何用かと」
「ええ、そうですが」
「何?」
「勅使は、王子です」
 開いた口が塞がらないとはこのことだ。国の王子が何故、国境付近の港町に出向いてくると言うのか。
「場が場なら、対する二国の公子と公女の会談にもなりえるのです。否定してもあちらがイヨーリカ様を肯定するなら、イヨーリカ様にはそうあられてくださらなくては。王女とご対面なされますよう」
 混乱に腰を下ろすどころか、終には頭を抱えてしまった。
「身元も憶測で来ての今日よ? 一日か二日の付け焼刃で、王女たる受け答えが私にできると思う? 無理よ。会えないわ。ラスワタの品位もあったものではないでしょうけど、今の私には語る物がないわ、ラスワタ人として。用件を聞いてきて、ラヒ。それから検討しましょう、私が下へ行くかは」
「しかし、私は一将軍の息子でしかない身。イヨーリカ様の前払いには立てますが、ヒョイド殿下に口頭するは不敬にあたりましょうから」
 宥めるよう、イヨーリカの前へ膝を折る、ラヒ。顔色を伺うだけでなく、自然と身なりや外見を確認しているようでもある。どうあっても連れ出す気なのだと分かると、イヨーリカは小刻みに首を振って、了承した。
「ええ、ええ、分かりました。イアの無事が知れるなら、何にでもなりすますわ」

 ここの館では、やや後ろに付いて回るラヒだが、今ばかりは、大事な令嬢が躓かぬ先でも取り払うよう、階段を降りるイヨーリカの手を取り、一段先を横向きに下る。腰に軽く手を沿え、注意深く誘導するラヒの姿は、艶かしいのだろう。下で待つ使用人達に流れるため息は、殊更飾り立てたイヨーリカより、ラヒへ向けられている。
 夜会用の薄手の服は、気心も知れた仲間との晩餐に出席する井出たちで、公式行事に相応しい成りではない。服に合わせた透ける刺繍の織物を肩周りへ添えてくるラヒに、イヨーリカでさえ、身震いしてしまう。初めて女性と扱われた気がする。
 この様に、物怖じせず、優雅に、親しみと距離感を履き違えずにレディーを誘う一面も合ったのかと、つい、ラヒを見上げてしまう。その様が更に火種となってか、うっとりとした祝福の眼差しが投げ掛けられる。娘たちの頬が染まる様を見れば、こちらとて頬が羞恥に赤くなる。
 ラヒは先ほど父親の身分を口にした。領主だろうと察していたが、軍人、しかも将軍であるなら、貴族だ。王宮にいた頃の祖母を知り、母の顔を見知っているなら、相応の身分であって然り。
 なる程、と、ラヒの物腰に赤らんだ気持ちを一蹴した。女に好まれたいと望むなら、それができる男なのだと。私には見せなかったが。

 晩餐の間に遅れて入れば、出席者は席に着いてお待ちかねだった。大使の弟君のご夫妻が見当たらない。数合わせにか、席を外されたのだろう。
 煌びやかな者が一名、食卓の奥に座る。その両脇の背後には見慣れぬ着飾った兵が立つ。では、あれが、王子だ。

 今、料理人は激昂していることだろう。皿を出す頃合を潰されたと。
 一名増やせるかと聞かれて、減らすなら可能だと喚いたであろう料理人は、更に、イヨーリカが人知れず卓上の布を引き剥がす勢いであったことに肝を冷やし、イヨーリカにあるとは思えなかった稀有な気位のお陰で衝動を抑えられたことに、たった今、冷や汗を拭ったかもしれない。
 晩餐の料理が盛り付けられる皿たちは無事に食卓に鎮座したままなのだ。少々、給仕がスープを零そうと、然したる問題ではないはず。
 イヨーリカは叫んでいた。

「ロワン!」
 主賓の席から立ち上がって出迎えた男の、右隣に案内されたイヨーリカは、会釈を上げた途端、無礼にも男の全身を眺め回し、憮然と睨み付けていた。
 その場の誰もが、イヨーリカを迎えに立席したまま立ち尽す。
 辛うじてラヒが腕を掴まねば、イヨーリカは主賓に掴みかかっていたかもしれない。
 給仕は見なかった振りで、仕事に徹し始めた。
 主賓が着席を促せば、ざわめく間も無く、歓談が始まろうかとの和やかな会話が漏れ始める。が、イヨーリカは、ラヒに着席を誘導されるも、滲む涙で、手も何を掴むかぼやけて定まらぬ始末。
 再び男へ視線を這わせれば、見慣れた面立ちに、かつて触れた唇へと視線が向かう。その口が、名乗りを上げる。ヒョイドだと。
 男の上着は場に合わせ、少し着崩したのか止め具は外している。中のシャツへ自然と目が行けば、記憶が瑞々しく蘇る。あの男のために新しく縫った一枚だと。
 見上げた瞳は、微かに笑みが乗っている。
 晩餐時に突然来訪したからには、皆、固苦しい場とは応じていないようだ。だが、今にもイヨーリカが絡み倒そうと息が抗う反面、この男は行儀を心得た態度で臨んでいる。

 が、それも瓦解した。
「無事でよかった、イヨーリカ」
 大粒の涙が手の甲を打っていく。倒れんばかりの椅子は、ラヒが機転で支えたよう。
 笑みが戸惑いで固まった男も、つと、周囲を見回すが、風聞も構わぬと観念したのか、胸に飛び込んだイヨーリカを、きつく抱いた。
「ロワン! ロワンでしょ? イアは? イアは無事?」
「無事だ。安全な所に居る。今は」
 ヒョイド王子を名乗る男は、遂に機能を停止した晩餐の場に、一声を投じた。
「どうやら私は招かざる者であったと、気付くのが遅かったようだ。今宵の乱交はお許し願いたい、ヤフカ大使。やはり、席を外して話したいが?」
 問われたラヒがイヨーリカを抱き取る。意識が混濁するイヨーリカは、ラヒが引き取った訳も、ヒョイド王子がそれをラヒに許す理由へも、頭が及ばない。
 運ばれるまま、静まり返った部屋を後にし、応接の間に座らされてでさえ、ラヒに囁かれるまではラヒにしがみついたままだった。

「彼がロシュトーレ候ですか?」
 涙でふやけた目を再度、確認に回し、ラヒに頷いた。そこで漸く、事実に落ち着いた。
「ロワンでしょ?」
「然り。公式な通り名はヒョイド・ランブルト、デン国王アルバ・ランブルトの息子だ」
「では、真にヒョイド王子殿下でいらっしゃるか」
 目が泳いだままのイヨーリカに代わり、ラヒが詰め寄る。ヒョイド王子の頷きを見るや、イヨーリカへ冷めた目つきを送るラヒに、イヨーリカも慌てて正した。
「でも、ロワンだと…。あなたが誰かと分からなくなった時に、あなたは、自分はロワンだと言ったわ。まだ別な名を持つとは言わなかった」
「そう易々と名乗りはできなかった。一国の王子だとは」
 応接の間の窓には、港の赤い明かりが揺ら揺らと映りこんでいる。窓を背に立つヒョイド王子。自分が知る男だと間違いようも無いが、この数日の間に、この胸中に何が起きたのだろうかと、イヨーリカは愛おしい男をしばし眺めた。
 焦がれた男。求婚を得て、恋は成就した。だが、その男は最後まで結婚に素性を隠した。
 言い訳は前にも聞いた。位ではなく、ロワンという男と結婚できるかと訊ねたかったからと。
 身分に怯むことを避けんが為とは納得できても、あれは候の位であったから。王子ともなれば、求婚の返事に悩むどころではない。国が結婚を許しはしない。
 王子だったなら、何故、町の娘に求婚をしたのか。それも、他国の娘に。
 何故、王子と此処へ訪ねたのか。ロワンで来ればよいものを。
 私に素性を話すと言っていた。だが、皆の前で宣下して、私に衝撃を落とし込め、皆に、私とヒョイド王子が知古の仲だったと大騒ぎしてまで広める様な登場を何故したのだろう。今更、位を見せ付けたかったのか。この男が解せない。
「ロワン・シュタイフは、幼名だ。王子の位では別の名を持つ」
 イヨーリカのだんまりに、ヒョイド王子が説明を加える。
 イヨーリカは涙を拭い取って観念した。責めて変わる事実でもなしと。
「つまり、あなたはデン国のヒョイド王子。私には幼名で身を隠し、ヨーマ国ではロシュトーレ候の名で通していた。それが全部、あなた」
「そうだ。ただ、候の名は借り物だ。王子と外遊もできなくてね」
「素敵なご身分ですこと」
 流す涙が、安堵に迸る物ではなく、悔し涙と移ろいで行く。複雑な事情を持つ男に恋して、感情だけで歩み寄れない二人。そして、イヨーリカには感情しかなかった。その感情も、警戒した相手からは素直な信頼を寄せて貰えなかったと知っては、薄れようというもの。
 代わりに、今、イヨーリカにも感情抜きで恋愛を遠ざける事情が生まれた。
 フィリョンカの孫かもしれないのだ。
「君のお祖母様から、聞いた。君は、前のグレイチェル王妃の娘だと。驚いたよ」
 ヒョイド王子の物言いが喜ばしさを含んでいるようで、現実に沈み込んでいたイヨーリカは微かな驚きを持って見つめた。
 嬉しい? 私が町の娘ではなかったから?
 ラヒが、仰々しく、且つ、性急に、ヒョイド王子の前に進み出た。
「フィリョンカ様は、ヒョイド王子殿下にイヨーリカ様の素性を明かされたのですか?」
 対面に座るも、イヨーリカの手を指でていたヒョイド王子は、ラヒに目を上げた。ラヒの介入を快く思わなかったようだが、直ぐにも興味失せた様で、イヨーリカに取り成す仕草を再開し、傍らでラヒに返事をした。
「そうだ」
「それは…ロワンと名乗っておられた方へお話しでしたか? デン国の王子殿下と知った後にでしょうか?」
 暖かいヒョイド王子の手に、若干自らも指を握り返し始めていたイヨーリカは、瞬きをした。
 ヒョイドは瞠目し、苛立ちを持った目をラヒに開いた。
「今は彼女と話している。席を外して貰いたい」
「しかし」
「確かに、二国の関係を思えば外せたものではないだろうが。今はイヨーリカに会いに来ただけだ。愛おしい女の無事を一目見んと、謀った懺悔を聞かせたい。二人にしてくれ」
 下がろうとする意思が顔に見えるが、足が微塵も動かないラヒ。当然だ。イヨーリカは憤慨した。デン国の王子と出向いてきて、ラスワタの王族の孫と承知で会いに来ておいて今更、男と女と見れとは臣下のラヒに受け入れようもできまい。
 だが、イヨーリカには分かっている。例え、デン国の王子であっても、イヨーリカを殺しはしないと。
「ラヒ、二国の情勢に関わる話なら、再び呼びます。今は、二人にして」
 見開いた瞳が緩み、ラヒの目に水気が滲んでいる。
 この数日、共に分かち合った旅路に、寝食。互いの思考を重ねんと紡いで来た、語らいの時の流れ。口にせずとも、瞳で互いの意を読み取るまでに傍にいたラヒ。滲む涙は、それでも男女の秘め事へは立ち入りを否定されての屈辱か、そこまでの信頼を得ていないとの喪失感か、知れない。
 が、イヨーリカもまた位に慣れていない。臣下を前に平然と恋する男へ微笑むことも、焦がれる胸へ身を投げ出すもできないでいる。今にもあの髪を弄りたいと、視線は甘くこの男へ流れているのに。ラヒから漂う威圧感が、そうはさせじとイヨーリカを引き止めている。
 ラヒが、イヨーリカに浮かぶ涙に怯んだ。
「では、時を限りましょう。一時以上この部屋への立ち入りを許されないようであれば、その時は」
 腰に下げた剣の柄に触れ、金属音を響かせる。一礼して、部屋を後にした。

 その後の姿を見定めたのか、戸が閉められたのか確認の間もないまま、甘く誘われる胸に飛び込んだ。
 合わさる胸に、服地に一時頬を摺り寄せても、次に合わさるは生肌の唇。いつか嗅いだ香りでないと気付いても、真新しい匂いも、見慣れぬ着衣も、高揚した身には気にもならない。
 ただ、求めた。欲しくて。
「イヨーリカ。いいと言うんだ。私と離れたくないと。もう誰の元にも置きたくない。私の元に、イヨーリカ」
 連れられるまま、日常から見知らぬ旅路に連れ込まれた、イヨーリカ。逐一、飲み込むに抗いたい真実の数々に晒され、緊迫感で律していた身が、かつての自分を知る男の前に、甘く溶け出す。
 男が何を呟こうが、イヨーリカは返事を唇で返すだけ。男が何を求めようと、イヨーリカは全身全霊を差し出していた。
「イヨーリカ、おいで」
 男がイヨーリカに意思を尋ねたのは、これが最後だった。
 朦朧と、立たされた体の感覚を感じる。目前に座る男が、首筋から胸に唇を埋め、イヨーリカの肌の匂いを嗅ぐ。その刺激の鮮烈なこと! が、鋭い呻きを発する知覚は、より思考を甘美な靄の中に迷い込ませていく。
 身が反れば、背を抱く腕に促され、身を沈めていく。男の顔が這い上がってくる。
 まだ、と、去るを暇しく思う唇が視界に入れば、迎えに唇が開く。
「ロワン…」
 滑らかな唇を期待して目を閉じたが、張りのある刺々しい肌触りに、ふと、男を差し止めた。
 が、男は、興奮に息が上がっているよう。
 何度か名を呼ぶが、ここでは耳慣れぬ呼び名だったかと、イヨーリカは僅かに現実へ意識を戻し、名を口に含んだ。
「…ヒョイド…ヒョイドと…言うのね。私の知っていたあなたは、ヒョイド…」
 身に納得させようと呼ぶも、男が素直に反応するを知り、イヨーリカは微かな動揺を覚えて、瞼を開いた。
 先ほどから逢瀬のキスを邪魔していたのは、何かの生地だ。ヒョイドの口下に、白い生地が当たっている。くすりとイヨーリカは笑んだ。ヒョイドは構わず、目にする獲物に被りつくのに必死なのだ。私を求めて。
 と、腹の底に冷や水が走り、同時に、動機を鳴らした。この生地、レースは…。下穿きの、私の下穿きのレース…。
 恍惚とした瞳と目が合った。今まで目にしたことの無い、獣の目。食らい付くに狂喜した瞳の輝き。瞬時に嫌悪を抱く、生々しい男の欲望を孕んだ視線。
 何故に下穿きが、との答えに、愕然とした。
 座っていた。ヒョイドの膝に。跨って。
 二人を遮るスカートと、夥しい襞を成すスカートの中身が、ヒョイドの胸にまでたくし上げられていた。
 思わず浮かした腰を、ヒョイドの腕が掴む。その腕は、スカートの中だ。腕は、今や下穿きの下へ潜り込もうとしている。
 抗うイヨーリカに、ヒョイドは淀んだ瞳を上げる。
「これが唯一の手段だ。二人が離されないための」

 どうと涙が溢れる。
 あんまりだ。
 つい、流される、この男に。それはどうしようもない。
 拒むイヨーリカにも分かる。胸中は、これを是と頷いている。この身は、この男に屈している。
 だが、望んだ状況下ではない。
 求婚に躊躇しながらも、どこか夢見ていた。婚約者と大切に扱われ、花嫁と敬われる夢を。
 こんな形で、誰も知らぬ間にとは…。

 抗う腕を止め、一気に立ち下がった。
「イヨーリカ、時間が無い。迷う暇は無い。これを逃せば、次にいつ会えるのか、ここを立てば、君はラスワタへ行ってしまう」
 離れようと動くイヨーリカを、ヒョイドが事実を突いては、腕に閉じ込める。
「私は、デン国の王子だ」
「何故、名乗ったの? また騙せばよかった。ロワンでも、ロシュトーレ候とでもここを訊ねてくれば良かったじゃない」
「ヤフカ大使は王子としての私を見知っている。ロシュトーレの名では会えなかった。それに、イヨーリカには事実を知って欲しかった。分かっているだろう? イヨーリカがラスワタで女王と立てば、もう、終わりだ。二人は、永遠に結ばれない」
 反論も出ず、ぐったりと頭を預ければ、ヒョイドの手が隙を模索するよう、這い寄る。
「今、結んでおきたい。王女というだけなら、まだ婚姻も叶う。ラスワタへ行く前に、その恭順が欲しい。イヨーリカは、私の元へ帰ってくるのだと、確証が今欲しい」
「だからといって、こんな…」
 涙に暮れるも、身はヒョイドに抱きとめられている。ヒョイドの訴えに身を委ねたいと、涙を呑む喉も痛んでは、気だるく体を投げ出したい。
 が、再びイヨーリカを抱えようとするヒョイドの膝に座ることはできなかった。
 足が突っぱねて、立ったままだ。
「できないわ」
 誘う甘い瞳で見上げていたヒョイドが、異変を感じ、眉を顰める。
「愛しているなら、イヨーリカ、来るんだ」
「無理よ」
 睫で涙を振り叩いて落とす。
 ヒョイドが焦るなら、私はラスワタの王女と間違いない。
 イアは、何を思ったのか。ロワンがヒョイド王子だと、デン国の王子だと知って、孫の恋が無残な結末に散ると分かって告げたのだろうか。
 それとも、先に明かして、失言に悔い改めたものの、こうしてヒョイドの無体を見過ごす境地になったのか。
 イアは、どう望んだのだろう。王女か、女王か、私に何を望んでいるのか。

「イア、フィリョンカに会わせて。お祖母様に訊ねたいの」
「二人の問題だ、イヨーリカ」ヒョイドが、宥め賺す声を出す。
 拘るイヨーリカの意思に反れ、ヒョイドは突き進もうと足掻いてくる。
 そのずれに、イヨーリカの体の熱が冷めていく。
 よくもそんな暴言が吐けるものだ。だから身分を偽るなど平時でやってのけるのか。一国の王子が、その結婚に政治が絡まらぬと、立場を軽視するのか、この人は。
「あなたには、重責ある決断ではないの? あなたの隣席は、国を統治する片割れではないの? 継承はあなたではないの? あなたの英断は国に関わるのよね? 分からない。こんな安易に…。私は決められない、私には」
 拒絶に、冷酷な凄みを醸し出すヒョイド。掴まれた両手も、痛く握られ、薄ら寒い。
 イヨーリカは、手を抜き取った。
「私は独りよがりの答えは出せない。これは、政の範疇だわ。あなたがデン国の王子、それも、継承を抱えるなら、私も同じ。先ほど、ラヒには、約束をしたわ。政治判断には彼を加えると。あなたは王位を継ぐの?」
 一間、見つめ合う。互いに意思を探り合って。
 イヨーリカは一筋の希望を手にせんと。
 ヒョイドは、イヨーリカが断念する先を望んでいるのだろう。
 ややあって、ヒョイドが頷いた。
「そうだ。私は父の後を継ぐ。が、私の婚姻相手に口出しはさせない。イヨーリカがラスワタ国の王女であっても、押し通す。寧ろ、歓迎されるだろう。だが、女王となれば、どちらかの国がなくなるまでだ」
 頭を抱えた。
 道は、選ぶ道は二つしかないのか。そうなのか。本当に答えを、しかも今選ばなければならないのか。
 私は何故結婚に迷っていたのか。その迷いさえ、遥か昔の事の様に空ろに霞む記憶となってしまった。
 けれど、確かに悩み、考えた数日を過ごしてきた。それは確かだ。ドムトルで、連れ出された道すがら、この館にてさえ、迷いは常に胸の中にあった。ある種の答えも。
「私、返事を求められていたわね。出立までにと。あなたが好き、これは頷くわ。結婚も想像してみた。突然の旅路で、取り巻く状況が日々に取り違えて変わっていったけど、どこか、あなたに会えば解決するような、あなたと一緒に居たいと、気付けばそう思った」
 近寄ったヒョイドに、それでも、イヨーリカは首を振った。
「でもね。その気持ちは、ロシュトーレ侯によ。求婚をしたのは、ロシュトーレ候、ううん、ロワンだった。だから、答えを抱いたのも、あなたへではないわ」
 滴る雫は、にじむでもなく、ほろほろと床へ沈んでいく。頬を転がる間もないほど、後続の涙が、後押しする。
「なら、今、請おう。私の元へ嫁げ、イヨーリカ」
 動じないヒョイドに、イヨーリカの胸中は曇る。
 歩みよりは常に女に課せられるのか。侯相手に夢想した幾日はただの徒労に終わり、新たな想像を掻き立てねばならないのか、この、ころころと婚姻条件を変えてくる男に。
 ラヒの顔が浮かぶ。ラヒの涙も、慟哭に喘ぐ心も見える。
「結婚したい。怖いけれど、あなたと居たい。そんな答えに辿り着いた気でいたわ。でも、今答えるならね、私は、ヒョイド王子には恋もできない」抗う声を背にし、雫を瞬く音で掻き消した。
「シルヴァは戻すわね。まだこちらへ到着していないけれど、あなたの元へ向かうよう指示しておきます。会ったら伝えて。約束を守れなかったと」
 背で閉まる戸の確認も猶予なく、前方を塞ぐラヒから顔を背け、走った。
 ラヒが自分に何を見たか、自分を超えてその背後に何を見たか、歪んだラヒの顔に全てを察する。
 が、恥に取り繕う気は、瞬時に、敬意へ取って代わる。
 主を追わず、その場の収拾に残ってくれるラヒを感じて。
 ラヒの脇を抜けつつ、確固たる絆を嗅ぎ取った。
 ラヒは私を信じている。外交に残る判断を下した臣下を、私も信頼しているのだと。二人は同じ道を向いていると、胸に浮かんだ。

「ヒョイド王子殿下には、今宵の所はお戻りいただきました」
 既にその岐路を窓より眺め降ろしていたイヨーリカは、報告へ上がるまでにも随分と時を稼いで来室したラヒに、軽く頷いた。
「お祖母様の事は何か話していた?」
「はい。王宮に留まられているとのことです。来訪はお約束頂けませんでした」
「そう。それは、人質なの?」
 尋ねてイヨーリカは胸が塞ぐ。あのロワンが、ヒョイド王子が、外交の切り札にイアを使うと思えば、恋をした自分さえ末恐ろしく思える。
「本日はヒョイド王子と尋ねたのではない、との仰せでした。フィリョンカ様の扱いを少々口走ったとしても、正気からではないでしょうし」
「そうね」口にしたのかと、更に我ながら情けなくなる。「任せるわ、交渉は」
「はい。シルヴァ殿の居場所も頻りに尋ねては念を押されましたことですし。彼女を送りがてら訪ねます」
 無言が続いた。
 ラヒは待っている。私が話すのを。事実は目にしただろうが、主の意志が下るのを待っているのだ。
 窓の外の視界から、窓に映るラヒへ目を移した。
「ねぇ、ラヒ」
「はい」
「これを訊くと、私の資質が知れるから、今から話すことは口外無用だし、後の手記や史実へも表記不要です」
「…イヨーリカ様、では! はい…仰せのままに」
 窓を向く私は青白く生気がない。なのに、ラヒは今、歓喜にむせび泣いている。
「そんなに国って欲しいものなの?」
 振り返ったイヨーリカも分かっている。
 ラヒを責めて鬱憤を晴らしているだけだと。
 ラヒの苦慮に苛まれる様に、悦にいっている己を自覚してさえも尚、荒ぶる声は留まることを知らない。
「あそこに、私の愛しい人が、今も去ろうとしている。会いたい。今も会いたい。追って行きたい。あの人が恋しい。でも、あの人は要らないの! 私を要らないと言うのよ。私が国を選べば、捨てられるの! 愛していると言ったその口で、女王は嫁に要らないと、自分は国も掛けずに、女には国を捨てろって言うのよ! ねぇ、私の涙より、ラヒ、そんなに国が大事? あなたも、女より国を取るの? ねぇ、答えて!」
「イヨーリカ様、しかし」
 口篭る男を前に、詰る勢いも嫌がおうにも増していく。答えはないのに。
「あなたも男だもの。あなただったら、私と結婚する? 女王となる私とよ? するわよね? したら、国が手に入るもの」
「それで御心休まるようなれば如何様にも」
「命じられればとでも言いたいの? 好きな娘が居てもよ?」
「はい。仰せのままに」
「所詮は、お国大事、女王万歳ね!」
「それは口が過ぎましょう、イヨーリカ様」
 うろたえていたラヒが唇をきつく結ぶ。
 気配を感じては、今度はイヨーリカが気まずく口を噤む番だ。
「私は、イヨーリカ様を見てきました。女性と悩まれるお姿も、本来の素性に揺れる経過もこの目にしてきました。ですから、今は、イヨーリカ様が選び取られた道に悔いは残っていないのだと、唯、選べなかった道に悔しさが、その判断を下したご自分を責めていらっしゃるのだと分かっております。ですが、私も自覚しております。その選択を齎したのは自分であると、イヨーリカ様の道を奪い、後戻りをさせなかったのは、この私だとの覚悟が私にはございます」
 両膝を着き、イヨーリカの両手をあやす様握るラヒ。淡い青色の瞳に灯火が移ろいで、純真なラヒが隠れてしまい、終には、癒されるまま、年嵩の男なのだと安堵に身が解れていく。
「私の生涯を捧げます。イヨーリカ様が不自由と感じる生涯、代わりに私の生涯を弄べばよろしいかと。今、ヒョイド王子を胸に叫ぶなら、彼の代わりが務まるまでイヨーリカ様へ愛を抱いて差し上げます。私へ気持ちが傾くよう、どんな努力も厭いません」
 両手を持たれて寝台へ座らされたのだと、ぼんやり感じる。
 脅威はない。
 明かりを消し、窓の布を引く仕草も、日常の就寝の準備と何ら変わらぬと、体が身構えもしない。
 ラヒの淡々とした物言いか、暗に男臭さを消しているからか、自分が男の存在を請うている為か分からないが、ラヒとイヨーリカの醸す場の雰囲気は、混じり、調和している。
 少なくとも、イヨーリカにはそう思える。
 この時、自分のむなしさを静めてくれているのは、ラヒの存在だと分かっている。
「伴侶の居ない侘しさを一時でも奪えるなら、男になりましょう。お休みになられたいのでしたら、父とでも、母とでもお思いください」
 髪をすき、現れた項へ、唇を這わすラヒ。不思議と、穏やかに受け流せる。次々と剥がれていく着衣を物憂げに眺めるが、塩やけした瞼は光景に目を見開くには既に、重い。
「全ては、イヨーリカ様のお望みのままに」
 寝具が心地よいものだと、就寝の時がうっとりと声をもらす程の心地だとは、久方ぶりの感覚だ。
 捲くられた寝具の下へ、下穿きから覗く足を滑り込ませる。隣でも床が沈む。
 髪をすかれる仕草一つに、また一段と瞼が下がる。
 枕を整え、腕を開けてくれているラヒの胸へ頭を倒す。
 また一かき、また一かき、数える間もなく眠りに落ちた。
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