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第7部2章 君の中に僕がいない世界で
03 親として
しおりを挟む「フィル」
「にぅ!!」
バッと手を広げれば、あの子はいつだって俺の腕の中に飛び込んできてくれる。
小さな足をパタパタと動かして俺の元にやってきたフィルマメントは、ぎゅっと抱きしめた俺に頬を摺り寄せてきた。セシルのような熱っぽい身体、頬はフニフニとしていて柔らかくて弾力がある。俺譲りの黒髪は少しつんつんしていたが、子どもらしい柔らかさもあった。
乳母やメイド、騎士たちに見守られながら、俺は自分の子どもとの時間を楽しんでいた。
扉側に控えていたゼラフは、そんな俺を見ながら口をずっと閉じている。
セシルが記憶を失って三日ほど経った。
あの後、詳しい検査が行われたものの、脳に異常もなければ、魔力安定していたし、生活に支障が残ることは何一つないとの診断がされた。
しかし、俺の記憶だけが抜け落ちており、記憶を失う前のセシルを知っている人たちからすれば、今のセシルは不完全な人間にも見えるそうだ。いや、人間らしくはないが完璧と言えば完璧で、誰もが理想とする感情に流されない完璧な皇太子ではある。
(別に、俺の存在が、彼を不完全にしてるわけでもないし……足を引っ張っているわけじゃないんだけどさ……)
でも、時々俺のために無茶をして、後先考えない時もあったから、そういう意味では、今のセシルは誰にも心を動かされない人間になったとはいえる。
ただ、それが冷たい人間としても捉えられるし、感情がないからこその切り捨てが発生しているようだ。
すべて効率的に、利益のあるほうをと彼は選択する人間になってしまった――と。
俺は、ああやって宣言したものの、三日、彼に会っていない。
というよりも――
「にぅ、ちぇちは?」
「…………今日も、仕事が忙しいんだ。セシルは、忙しい人だから」
「うぅ……やっ」
「フィル……」
フィルマメントは全身でいや! と伝え、俺の身体に頭をぐりぐりと押し付け始めた。
セシルの前でそれをやってあげなよ、と思ったが、フィルマメントは照れ隠しなのか、セシルの前では彼に甘える様子をあまり見せないのだ。だから、セシルは自分が好かれているのかと不安になっていた。まあ、その不安も最近は解消されて、フィルマメントの照れ隠しなんだなと流すようになったのだが……
フィルマメントは、珍しく「いや、いや、やっ」とセシルが来ないことに腹を立てたらしく、俺の胸をぽこぽこと叩き始めた。決して痛いわけではないが、それでも、今のセシルに会ったら……と考えると、俺は彼の願いをかなえてあげられそうになかった。
フィルマメントは俺とセシルの愛の結晶ともいえる存在。
だから、俺の記憶がないということはフィルマメントの記憶もないということで。俺との記憶が……思い出が、愛があったからこそ生まれた存在であるフィルマメントを、記憶がないセシルが覚えているはずもなかった。
さすがに、自分のことを覚えていない今のセシルにフィルマメントをあわせることはできなかったのだ。
もし、それでフィルマメントが傷ついてしまったら。そう考えたら、俺はフィルマメントをセシルから当座蹴るしかできなかった。
(フィルも、会いたいよね……俺も、会いたい……)
俺たちを覚えているセシルに会いたい。
フィルマメントがもう一人の親であるセシルに会えないのは辛いことだと分かっていた。でも、今会わせてフィルマメントが傷つくのも見ていられない。
俺は、フィルマメントを抱きしめることしかできなかった。
しかし、フィルマメントは、さらに暴れて俺の腕の中から出ていこうとする。すると、スッと腕が伸びてき、フィルマメントを俺の腕の中から誰かが引き抜いた。
「フィルマメント殿下、ニルが困ってんぞ。そう、泣いてやんなよ」
「ぜぅ……」
「そー、そう。ゼラフ。皇太子殿下が、お前の相手をできない代わりに、俺が遊んでやんよ」
「……ぅう。ぜぅ! たかい、たかい」
「ゼラフ……」
助け舟を出してくれたのは、ゼラフだった。
先ほどは、俺を見て何を言えばいいか分からない表情をしていたのに、その顔には笑みを浮かべていた。
(そりゃそうか。フィルを悲しませないようにしたいもんね……)
ゼラフも、公私混同しないタイプだ。
俺の代わりに、フィルマメントを抱き上げて高い、高いと彼と遊んでくれている。ゼラフはベビーシッターでもないのに、俺の子どものお世話をさせてしまって申し訳なさも感じた。
「ごめん、ゼラフ」
「ニル、こういう時はありがとうっていうんだぜ?」
「……ありがとう。君がいてくれて助かったよ」
「まーほんとだよな。俺まで、あの竜に記憶を奪われてたら、お前は一人になってたかもしれねえし。ああ、でも、そうなったらなったで、アルチュールの野郎が、お前を攫いに来るかもな」
「冗談はやめなよ……」
ゼラフの口調は、いつも通りだったが、気遣いを感じられた。
ゼラフの言う通り、あの夜、ゼラフの記憶も消されてしまっていたら俺は一人ぼっちになっていたかもしれない。自分を守ってくれる騎士も、愛し愛している人の記憶も消えてしまったら、俺は一人でやって行けただろうか。
ゼラフは、フィルマメントを何度も何度も高い、高いをしてときどき、彼の身体を持ち上げたままその場を一周、二周と回っていた。そのたび、フィルマメントの嬉しそうな笑い声が聞こえる。
フィルマメントのその声を聴いているだけで、少しだけ心が穏やかになった。
俺の不安は、きっとフィルマメントに伝わってしまう。親として、その感情は隠さなければ、と俺はまた無理やり笑顔を作った。不格好で、ひきつっているこの顔は、かっこ悪いかもしれないけれど。フィルマメントには幸せでいてほしいってセシルと約束したから。俺一人でも、その約束は果たそうと思っている。
フィルマメントを幸せにしたい。幸せにするんだって思いは、俺の中に残っているから。
「……そういえば、あの夜のこと、お礼言ってなかったなって思って。改めて、ありがとう。ゼラフ。俺のために戦ってくれて」
「あーんでも、めちゃくちゃかっこわりぃ姿見せちまったし。結局、助けられてもねえ。結果、お前を傷つけちまってる」
「傷つけてないよ。あの時、嬉しかったよ……俺だって、昔は騎士だったのに、うまく体が動けなくて。君たちを危険な目に合せた」
あの時、ウヴリにもう少しだけでも抵抗出来ていたら、少しは変わっていたかもしれない。
そもそも、対話ができるような状況じゃなったのもあるが、俺があそこで恐れて、身体が動かなくなったから。彼らが剣を抜く結果となってしまった。
そのせいで、彼らは傷を負ってしまったのだ。
今では完治しているものの、俺はあの日のことを鮮明に思い出せる。
「だーかーらー!」
「いてっ……な、何」
ゼラフはピン、と俺の額を指ではじいた。
片手でフィルマメントを抱え、背を向けたまま彼はぼそぼそと口にする。
「謝んなよ。俺は、謝られんのが嫌いだ。とくに、ニルに謝られんのがすごくムカつく」
「謝られるのがムカつくって……」
「言っただろ。つか、お前がフィルマメント殿下に笑っていてほしい、幸せでいてほしいって思っているように、俺もニルにそう思ってる。お前が暗い顔したら、こっちまで気が滅入る。俺は、あの野郎の代わりにはなれねえ。でも、お前のそばにいることはできる。お前が、孤独を感じないように、話し相手にならなれる。あいつの変わりはいねえだろうしな」
「ゼラフ……」
フィルマメントを下ろすと、ゼラフは俺の頭をポンと撫でた。その様子を羨ましそうにフィルマメントが見つめている。
「変わりは……そりゃいないよ。かといって、君の代わりもいない。だから、君もいなくならないでほしい」
「当たり前だろ。お前のそばにいてえんだから、騎士になったし、今だってお前のそばにいる。俺は、クソみたいに性格が悪いからな? あの皇太子が記憶を忘れている間に、お前との時間を増やそう……って考えてる」
「ゼラフらしいね。嫌いじゃないよ……でも、セシルが好きだからごめん」
「俺は、後何回お前にフラれるんだろうな?」
自嘲気味にそういったゼラフは、もう一度俺の頭を激しく撫でた。寝癖が治らない髪の毛は、彼によって乱されていく。だが、嫌な気はまったくしなかった。
ゼラフも、今のセシルには張り合いがないと思っているだろう。
いつも何かと言い争っている二人だったから、ゼラフも物足りなさを感じているのかもしれない。
(てか、セシルの記憶ってどんな風に修復されてるんだろ……)
俺の記憶だけをごっそり抜いた形ともなれば、妙にちぐはぐになっているのではないかとおもった。何故なら、モントフォーゼンカレッジに通いたいと言い出したのも、俺と学園生活を送りたいっていう理由からだったし。
その記憶がないならば、ゼラフやフィリップ、アイネたちとの記憶も消えているはずなのだ。でも、セシルを見た感じゼラフのことは覚えているようだったし、ハイマート伯爵に聞いたところ、モントフォーゼンカレッジに通っていた記憶もあるらしいのだ。
アルチュールは、国際的な関係で何度か顔を合わせている……という認識らしいし、実際に一緒に学園生活を送っていた記憶もあるのかもしれない。
(だから、変なんだよね。セシル……)
彼の人格形成に俺は必要だった。しかし、そこを抜き取られ、挙句の果てにつなぎ合わせられたつぎはぎだらけの記憶。記憶の齟齬は確実に出ているはずなのに、セシルはそれを気にしていないらしいのだ。
(違う、もしくは、気持ち悪くても誰かに相談できないんだ……)
セシルが何か抱え込んでいるときにいち早く気付けたのは俺だ。そして、セシルは俺に話してくれた。でも、その話相手がいない以上、彼は何かあってもそれを一人で抱えるという選択を取るだろう。そうして蓄積されていったものが、他者との間の新たな壁となり、セシルの内側に入り込むことは困難になる。
セシルはそうやって、他人と自分の境界線を引いてきた男だから。
(もう一回、どれだけ記憶を忘れているか向き合う必要があるよね……)
得られた情報は断片的なものばかり。
別に、俺自身、セシルとの接触を禁じられているわけじゃない。むしろ、積極的に関わってほしいとすら言われている。そうすることで、もしかしたら記憶を取り戻すことができるかもしれないからだ。
だが、無理はしなくてもいいと言われ、お互いの仕事――皇太子としての公務と、皇太子妃としての公務に支障がない範囲で、記憶を取り戻す手伝いをしてほしいと言われたのだ。
義務じゃなくて推奨。
それは、今のセシルは俺という存在が抜けただけで何の影響もないからだ。普通に仕事はできているし、内容も覚えている。ただ、俺の存在が彼の中にないだけ。
そんなことを思いながら、頭を撫でられていると、ゼラフのズボンをフィルマメントが一生懸命引っ張っている姿が見えた。
「ぜぅ、ぜぅ、ふぃにも!」
「フィルマメント殿下も撫でてほしいのか? そういうところは、やっぱ、あいつに似てるよな」
「セシルに似てる?」
「そうだろ。まあ、あいつは、フィルマメント殿下より人懐っこくはねえけどな。お前に頭撫でられたいとか思ってんだろ」
「……確かにそういわれれば、そうかも」
ゼラフはフィルマメントの要望に応えるように彼を抱き上げて、よしよしと頭を撫でていた。気持ちよさそうに、フィルマメントは目を細め、その表情が一段と柔らかくなる。
「本当に、フィルはゼラフが好きだね」
「ふぃ、ぜぅね、ちゅき」
「ハッ、こりゃ、皇太子が聞いたら泣くぞ。殺されねえようにしねえと」
「さすがに、そんなことしないとは思うんだけど。ほら、フィルがゼラフのこと好きなら、フィルが好きなもの奪うのはーってセシル思うと思うから」
「ニル……真剣に悩まなくていいぞ?」
「えっ、本気で言ってると思ってた……ごめん」
ゼラフは、フィルマメントをその腕に抱きながら、俺のほうを見た。フィルマメントも同じようにこちらを見て、小さな手を伸ばした。
「ほら、お前の宝物が、お前んとこ行きたいってよ」
「フィル……」
「にぅ、ふぃ、にぅんとこ」
フィルマメントは、小さな手を伸ばして俺に抱き着きたいとせがんでいた。その姿を見ていると、胸がいっぱいになっていく。
フィルマメントは俺のことを忘れていない。当たり前だが、何も知らない子どもに親として求められることはすごく嬉しかった。
俺は、ゼラフからフィルマメントを受け取って、彼を抱きしめる。きゃっ、と嬉しそうなフィルマメントの声と共に、何を思ったのかフィルマメントは俺の頬にキスをする。
「フィル?」
「ふぃ、にぅね、めそめそ」
「あ、あはは……うん、大丈夫だよ。フィル」
「かなちぃ?」
フィルマメントは拙い言葉でそう聞いて、俺の頬をぺちぺちと何回か叩いた。その後もう一度、俺の頬にキスをした。
それは、多分セシルが俺によくそうやっているのを見ているからだろう。それで、俺が笑顔になるから、フィルマメントも試しているんだ。本当に、この子は俺たちのことをよく見ている。
恥ずかしくなりつつも、俺はフィルマメントにお返しにとキスを返した。フィルマメントは「にぅ、ちゅー」と頬をぷくぷくとさせて喜んでいた。
抱きしめている間は、フィルマメントの前にいる間は笑顔でいようと思っているのに、うっかりぽろぽろと涙がこぼれてくる。決壊してしまった涙腺はすぐに修復できなくて、どうにか笑顔を取り繕うも、瞳からは悲しみが流れ始めた。
「ごめん、ごめん、フィル」
「にぅ、ぽろぽろ」
「うん、うん。ごめんね。いきなり泣いて、びっくりしたよね」
「にぅ」
「……フィル。大丈夫だよ。フィルがいてくれるからね」
セシルの中に俺がいなくても、俺がフィルマメントの親であることには変わりない。フィルマメントは俺のことを気にして、何度も頬を叩いてくれるが、俺の涙は止まらずにいた。
周りにいる人たちも気になるようで、どう声をかけるべきか迷っているようだ。
ゼラフも、泣き出した俺にはさすがにどう対応すべきか分からないようで、眉をひそめている。ゼラフにはずっとかっこ悪いところを見せてばかりだ。
(ダメだなあ、俺……もっとしっかりしなくちゃいけないのに)
セシルが記憶を失ったことで、皇宮内は混乱している。
あの夜の襲撃で、死者は出ていないにしても、忘却竜ウヴリという脅威を目の当たりにしてしまった以上、対策をとらなければならない。奇襲を仕掛けられたらまず勝ち目はないにしろ、それ以外にも問題は山のようにある。
セシルが動けない以上は、俺が動かなければ。
そんなふうに、俺がフィルマメントに慰められていると、ふとガチャリと扉が開いた気がした。
この部屋に入るには、部屋の前で門番をしている騎士たちの了解を得なければならないはずだ。しかも、入出を許される人間なんて限られている。
誰だろう、と思って振り返ると、俺よりも先にフィルマメントが彼のことを指さした。
「ちぇち!」
「……セシル」
そこに立っていたのは、セシルで彼は俺とフィルマメントを見た一瞬、その夜色の瞳を大きく揺らした。
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