1 / 65
わたしには、秘密がある。
壱
しおりを挟む
「九時方向。距離およそ八メートル」
わたしの言葉を受け、並んで歩いている上司が小さく頷き、方向転換。非常階段への扉を開け、中へ滑り込んだ。
音を立てないようにそっと扉を閉めて息を潜めた途端、カツカツとヒールの音を響かせ、女が通り過ぎていく。
間一髪だった。
ドアの脇の壁に背を貼り付け気配を消した上司が「危なかった」と呟き、ふーっと細く長く息を吐く。
「どうせあの女の行き先は、俺のオフィスだろう。いま戻るのは危険だな」
上司が汗も掻いていないのに、額を拭う。
「どうします? ここで時間を潰すというわけには……」
「急ぎの話でもないが——まあいい。このまま直接、階段伝いに社長室へ出向くとするか」
「わかりました」
頷いて一歩下がったわたしを斜めに見下ろし、フフンと上司が笑った。
「あんた、そうしてると、ホンモノの秘書みたいだな」
なに言ってるの、こいつ。
白い目で斜めに上司を見上げ睨みつける。
「いまはホンモノの秘書ですよ。忘れてしまったんですか?あなたが客室清掃のアルバイトをしていたわたしにどうしても傍にいて欲しい力を貸して欲しいと泣いて縋り付くから、やっとの思いで内定にまでこぎ着けた仕事を諦めて、仕方なく! 何の興味も無かった秘書検定まで受けて、あなたの第一秘書になったんじゃありませんか」
破格の条件に惹かれたのも、正直なところではあるが、恩を売ることを優先する。
因みに、第二秘書こそがホンモノ中のホンモノの秘書だ。名目は第二だが、じつはあちらこそがわたしの直属の上司である。
「そんなに強調しなくてもいいじゃない……」
「バカなこと言ってないでさっさと行きますよ」
——好い加減にしろよ、バカ専務。
「……うん」
ジャケットの裾が皺になるのもお構いなしにスラックスのポケットへ片手を突っ込み、ルンルンと鼻歌を歌いながら前を歩くこの上司の名は、西園寺要。
高級ホテルチェーン、不動産、アパレル、その他いろいろ——とはいえ、わたしには無関係だから興味も無いし詳しくは知らない——を傘下に君臨するホールディングカンパニー創業者一族の次男サマだ。
御曹司のくせに総領息子ではないというお気楽なご身分のこいつは、ホテル事業を束ねる長男である現社長のもと、専務という要職に就き、若さを生かした斬新な思考と、年齢にそぐわぬ見事な手腕で、さまざまな業態の高級ホテルを開業し成功へと導いている、業界ではちょっと名を知られた若手実業家である。
身長は一メートル八十センチを超え、ホテルの専属トレーナー付きジムで鍛え上げた、実用性に乏しいハリボテの細マッチョ。
髪は明るい栗色——これが地色だなんて、ずるい——ちょっと癖のある長めの前髪。男の色香を醸し出す、刈り込まれた襟足。
アーモンド型の切れ長の目に、気持ち下がり気味の眉は、母性本能を刺激し、すっと通った鼻梁に少々骨張った細い顎のラインは精悍さをも感じさせる。
この整った美形、おまけに独身、三十二歳男盛り御曹司が、イタリア製オーダーメイドスーツを纏うその姿に魅了されない女はいない——とは、わたしを除く若手女性従業員一同の共通認識。つまりは、仕事ができ、見目麗しい、血統書付きのこれ以上ない超優良物件なのである。
当然の如く引く手数多選り取り見取り。客先、会議室、パーティー会場等々、こいつの行き先々には常に女が付きまとう。
だが、遊びにも本命にも事欠かないはずの一見完璧なこの男にも、弱点がある。
「相沢、兄貴に渡す資料は手元にある?」
「いいえ。専務が机の上に放置したまま出てきたはずですが? 必要でしたら取りに行ってまいりましょうか」
「うん。頼む。俺は先に行って話を進めておくわ」
「承りました。では——くれぐれもお気を付けて」
「わかってる」
面倒くさい。
肉食女子に集られる恵まれた人生を歩む男の気持ちなんて、わたしには理解できないのだが仕方がない。これも仕事だ。
非常階段を上る上司の背を見送りつつ、ため息をついた。
*
わたしの言葉を受け、並んで歩いている上司が小さく頷き、方向転換。非常階段への扉を開け、中へ滑り込んだ。
音を立てないようにそっと扉を閉めて息を潜めた途端、カツカツとヒールの音を響かせ、女が通り過ぎていく。
間一髪だった。
ドアの脇の壁に背を貼り付け気配を消した上司が「危なかった」と呟き、ふーっと細く長く息を吐く。
「どうせあの女の行き先は、俺のオフィスだろう。いま戻るのは危険だな」
上司が汗も掻いていないのに、額を拭う。
「どうします? ここで時間を潰すというわけには……」
「急ぎの話でもないが——まあいい。このまま直接、階段伝いに社長室へ出向くとするか」
「わかりました」
頷いて一歩下がったわたしを斜めに見下ろし、フフンと上司が笑った。
「あんた、そうしてると、ホンモノの秘書みたいだな」
なに言ってるの、こいつ。
白い目で斜めに上司を見上げ睨みつける。
「いまはホンモノの秘書ですよ。忘れてしまったんですか?あなたが客室清掃のアルバイトをしていたわたしにどうしても傍にいて欲しい力を貸して欲しいと泣いて縋り付くから、やっとの思いで内定にまでこぎ着けた仕事を諦めて、仕方なく! 何の興味も無かった秘書検定まで受けて、あなたの第一秘書になったんじゃありませんか」
破格の条件に惹かれたのも、正直なところではあるが、恩を売ることを優先する。
因みに、第二秘書こそがホンモノ中のホンモノの秘書だ。名目は第二だが、じつはあちらこそがわたしの直属の上司である。
「そんなに強調しなくてもいいじゃない……」
「バカなこと言ってないでさっさと行きますよ」
——好い加減にしろよ、バカ専務。
「……うん」
ジャケットの裾が皺になるのもお構いなしにスラックスのポケットへ片手を突っ込み、ルンルンと鼻歌を歌いながら前を歩くこの上司の名は、西園寺要。
高級ホテルチェーン、不動産、アパレル、その他いろいろ——とはいえ、わたしには無関係だから興味も無いし詳しくは知らない——を傘下に君臨するホールディングカンパニー創業者一族の次男サマだ。
御曹司のくせに総領息子ではないというお気楽なご身分のこいつは、ホテル事業を束ねる長男である現社長のもと、専務という要職に就き、若さを生かした斬新な思考と、年齢にそぐわぬ見事な手腕で、さまざまな業態の高級ホテルを開業し成功へと導いている、業界ではちょっと名を知られた若手実業家である。
身長は一メートル八十センチを超え、ホテルの専属トレーナー付きジムで鍛え上げた、実用性に乏しいハリボテの細マッチョ。
髪は明るい栗色——これが地色だなんて、ずるい——ちょっと癖のある長めの前髪。男の色香を醸し出す、刈り込まれた襟足。
アーモンド型の切れ長の目に、気持ち下がり気味の眉は、母性本能を刺激し、すっと通った鼻梁に少々骨張った細い顎のラインは精悍さをも感じさせる。
この整った美形、おまけに独身、三十二歳男盛り御曹司が、イタリア製オーダーメイドスーツを纏うその姿に魅了されない女はいない——とは、わたしを除く若手女性従業員一同の共通認識。つまりは、仕事ができ、見目麗しい、血統書付きのこれ以上ない超優良物件なのである。
当然の如く引く手数多選り取り見取り。客先、会議室、パーティー会場等々、こいつの行き先々には常に女が付きまとう。
だが、遊びにも本命にも事欠かないはずの一見完璧なこの男にも、弱点がある。
「相沢、兄貴に渡す資料は手元にある?」
「いいえ。専務が机の上に放置したまま出てきたはずですが? 必要でしたら取りに行ってまいりましょうか」
「うん。頼む。俺は先に行って話を進めておくわ」
「承りました。では——くれぐれもお気を付けて」
「わかってる」
面倒くさい。
肉食女子に集られる恵まれた人生を歩む男の気持ちなんて、わたしには理解できないのだが仕方がない。これも仕事だ。
非常階段を上る上司の背を見送りつつ、ため息をついた。
*
1
あなたにおすすめの小説
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
地味系秘書と氷の副社長は今日も仲良くバトルしてます!
楓乃めーぷる
恋愛
見た目はどこにでもいそうな地味系女子の小鳥風音(おどりかざね)が、ようやく就職した会社で何故か社長秘書に大抜擢されてしまう。
秘書検定も持っていない自分がどうしてそんなことに……。
呼び出された社長室では、明るいイケメンチャラ男な御曹司の社長と、ニコリともしない銀縁眼鏡の副社長が風音を待ち構えていた――
地味系女子が色々巻き込まれながら、イケメンと美形とぶつかって仲良くなっていく王道ラブコメなお話になっていく予定です。
ちょっとだけ三角関係もあるかも?
・表紙はかんたん表紙メーカーで作成しています。
・毎日11時に投稿予定です。
・勢いで書いてます。誤字脱字等チェックしてますが、不備があるかもしれません。
・公開済のお話も加筆訂正する場合があります。
結婚直後にとある理由で離婚を申し出ましたが、 別れてくれないどころか次期社長の同期に執着されて愛されています
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「結婚したらこっちのもんだ。
絶対に離婚届に判なんて押さないからな」
既婚マウントにキレて勢いで同期の紘希と結婚した純華。
まあ、悪い人ではないし、などと脳天気にかまえていたが。
紘希が我が社の御曹司だと知って、事態は一転!
純華の誰にも言えない事情で、紘希は絶対に結婚してはいけない相手だった。
離婚を申し出るが、紘希は取り合ってくれない。
それどころか紘希に溺愛され、惹かれていく。
このままでは紘希の弱点になる。
わかっているけれど……。
瑞木純華
みずきすみか
28
イベントデザイン部係長
姉御肌で面倒見がいいのが、長所であり弱点
おかげで、いつも多数の仕事を抱えがち
後輩女子からは慕われるが、男性とは縁がない
恋に関しては夢見がち
×
矢崎紘希
やざきひろき
28
営業部課長
一般社員に擬態してるが、会長は母方の祖父で次期社長
サバサバした爽やかくん
実体は押しが強くて粘着質
秘密を抱えたまま、あなたを好きになっていいですか……?
腹黒上司が実は激甘だった件について。
あさの紅茶
恋愛
私の上司、坪内さん。
彼はヤバいです。
サラサラヘアに甘いマスクで笑った顔はまさに王子様。
まわりからキャーキャー言われてるけど、仕事中の彼は腹黒悪魔だよ。
本当に厳しいんだから。
ことごとく女子を振って泣かせてきたくせに、ここにきて何故か私のことを好きだと言う。
マジで?
意味不明なんだけど。
めっちゃ意地悪なのに、かいま見える優しさにいつしか胸がぎゅっとなってしまうようになった。
素直に甘えたいとさえ思った。
だけど、私はその想いに応えられないよ。
どうしたらいいかわからない…。
**********
この作品は、他のサイトにも掲載しています。
苦手な冷徹専務が義兄になったかと思ったら極あま顔で迫ってくるんですが、なんででしょう?~偽家族恋愛~
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「こちら、再婚相手の息子の仁さん」
母に紹介され、なにかの間違いだと思った。
だってそこにいたのは、私が敵視している専務だったから。
それだけでもかなりな不安案件なのに。
私の住んでいるマンションに下着泥が出た話題から、さらに。
「そうだ、仁のマンションに引っ越せばいい」
なーんて義父になる人が言い出して。
結局、反対できないまま専務と同居する羽目に。
前途多難な同居生活。
相変わらず専務はなに考えているかわからない。
……かと思えば。
「兄妹ならするだろ、これくらい」
当たり前のように落とされる、額へのキス。
いったい、どうなってんのー!?
三ツ森涼夏
24歳
大手菓子メーカー『おろち製菓』営業戦略部勤務
背が低く、振り返ったら忘れられるくらい、特徴のない顔がコンプレックス。
小1の時に両親が離婚して以来、母親を支えてきた頑張り屋さん。
たまにその頑張りが空回りすることも?
恋愛、苦手というより、嫌い。
淋しい、をちゃんと言えずにきた人。
×
八雲仁
30歳
大手菓子メーカー『おろち製菓』専務
背が高く、眼鏡のイケメン。
ただし、いつも無表情。
集中すると周りが見えなくなる。
そのことで周囲には誤解を与えがちだが、弁明する気はない。
小さい頃に母親が他界し、それ以来、ひとりで淋しさを抱えてきた人。
ふたりはちゃんと義兄妹になれるのか、それとも……!?
*****
千里専務のその後→『絶対零度の、ハーフ御曹司の愛ブルーの瞳をゲーヲタの私に溶かせとか言っています?……』
*****
表紙画像 湯弐様 pixiv ID3989101
ズボラ上司の甘い罠
松丹子
恋愛
小松春菜の上司、小野田は、無精髭に瓶底眼鏡、乱れた髪にゆるいネクタイ。
仕事はできる人なのに、あまりにももったいない!
かと思えば、イメチェンして来た課長はタイプど真ん中。
やばい。見惚れる。一体これで仕事になるのか?
上司の魅力から逃れようとしながら逃れきれず溺愛される、自分に自信のないフツーの女子の話。になる予定。
嘘つき同士は真実の恋をする。
濘-NEI-
恋愛
都内郊外のリゾートホテルでソムリエとして働く瑞穂はワイン以上にゲームが大好き。
中でもオンラインゲーム〈グラズヘイム〉が大好きで、ロッソの名前でログインし、オフの時間と給料の全てを注ぎ込むほどのヘビーユーザー。
ある日ゲーム仲間とのオンライン飲み会で、親から結婚を急かされている話を愚痴ったところ、ギルマスのタラントの友人で、ゲームの中でもハイランカーのエルバに恋人役を頼めば良いと話が盛り上がり、話は急展開。
そしてエルバと直接会うことになった瑞穂だったが、エルバの意外な正体を知ることに⁉︎
Rシーンは※
ヒーロー視点は◇をつけてあります。
★この作品はエブリスタさんでも公開しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる