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いくらわたしだって、そんなに容易くはない。
弐
極上の薔薇の香りに包まれて髪と身体を洗い、ブクブクと泡の立つ湯船に浸かる。身体を沈めるのはこれぞ贅沢の極み、大人ふたりがゆったりと向き合い——詰めれば大人四人イケるのか、の、巨大なジャグジーバス、だ。
「きもちいいぃ……」
なんて贅沢なのでしょう。
ほぅ、と、今日何度目かのため息をついた。
だがしかしいまは、ブクブクと泡立つ水流マッサージの心地よさに浸り現実逃避をしている場合ではなかった。
ここへ来てはじめて知ったのだが、この部屋はなんと、2LDK。わたしのワンルームの部屋が幾つ入るんだと空しくなるダイニングを兼ねたリビングルーム以外に、部屋の中央に巨大なベッドが鎮座する広いベッドルームと、最早衣装部屋としか呼べない広さのウォーキングクローゼット。そして、用途不明な機材と書籍が山積みにされている書斎に、水回りのみ。
大事なことは二度言う。百七十平米相当の豪華なマンションのくせに、間取りはたった! 2LDKなのだ。
つまるところわたしはには個室無し。当然プライバシーも無し。仕事だけではなく生活や楽しみまでをも奪われ、すべて専務中心に世界が回る。
こんなことが許されてよいものだろうか。いや、許せん。
湯上がりの湿った身体を極上のタオルで拭いながら、淡く香る薔薇の残り香を吸い込みまた、ため息をつく。
手回しがよいというべきか、悪辣というべきか。専務とその秘書は、わたしの私物をすべてここに運び込んだだけではなく、アパートの解約まで済ませている。
帰りたい。けれど、帰る家が、もうない。
だからいまは諦めて、おとなしく従う振りをしつつ、戻り道ではなく、行く道を模索するしか他に方法はないのだが、さらにもうひとつ。
貞操の危機、という大問題がわたしの目の前に立ちはだかっているのだ。
婚約だのなんだのなんてくだらない話は、この際横へ置いておいて。わたしを自分のテリトリーである2LDKに引きずり込んだのはもちろん、あっちの処理要員との下心もあるに決まっている。ましてや、あのふたりがコソコソと進めた計画だ。無いわけがない。
世間で言うところのちんくしゃ眼鏡ブスに手を付けようなんて、専務も物好きだ。きれいどころに不自由する身でもあるまいし、まったく気が知れない。
わたしがこの世に生を受けて二十五年、一切の経験もなく今日という日を迎えてしまったのは、後生大事に貞操を守り通してきたからではなく、単に、機会に恵まれなかっただけ。
肉体、精神共に健全な大人の女性なのだから、冥土の土産に一回くらい経験してみたいな、との欲望ももちろんある。
相手が専務——中身はアレだが女なら誰もが狙い定める麗しき御曹司さまときたら、相手にとって不足はないし。
けれども。
簡単にヤラレてしまうのも癪に障る。
頭からタオルをかぶり、ゴシゴシと頭を拭きながら、洗面台の脇に置いた眼鏡をかける。
そこにあるはずの脱いだ衣服と着替えが消え失せているのが、クリアになった視界に映った。
代わりに置かれていたのは、真っ白なふかふかバスローブと、如何にもこれぞ高級シルクジョーゼットだ、と、自己主張している薄いひらひらしたなにか。
手触りを楽しみつつ、びろーんと広げてみる。
「……悪趣味」
——う゛ぁっかじゃないの? こんな短いスケスケをわたしに着せようだなんて。
さりとて他に着るものもなし。
ざっと丸めて元の場所へ戻し、一糸纏えぬ素肌をバスローブで包んだ。
話し合いの末、今日のところは巨大なベッドを確保できたのであとは寝るだけなのだが、のぼせ気味の身体が水分を欲している。この出で立ちでヤツと顔を合わせたくはないが、仕方がない。覚悟を決めてキッチンへの引き戸を開けた。
足音を忍ばせ滑り込む。ミネラルウォーターを取り出す際の冷蔵庫の灯りにも開閉音にも反応がない。もしかして、専務はいないのかしら、と、リビングを見渡せば、広々としたソファの上で、肘掛けを枕に大きな身体を窮屈そうに丸めている姿が、間接照明の淡い光の中に映し出された。
ミネラルウォーターを口に含みながら近づき、カーペットの上に腰を下ろした。目の前で披露される規則正しい寝息。夢でも見ているのだろうか。時折、眉間にうっすら皺を寄せ、濃く長いまつげが揺れる。
「よく寝てるわ……」
寝ているときは、案外かわいい顔をしているのよね。
額にかかる前髪にそっと指先で触れてみれば、まだほんのりと湿気を帯びていた。
「ん?」
——酒臭い?
サイドテーブルに置かれた赤紫色の液体で満たされたワイングラスが目に入る。そのうちのひとつは、半分ほどに減っていた。
これは——。
わたしの推理が外れていなければつまり、風呂上がり、バスローブ一枚羽織って恥ずかしげにやってきたわたしに「同棲初日を祝って」とかなんとか理由をくっつけて酒を勧め、酔わせてあわよくばその先も——。なるほど窓の外の灯りが映える室内の暗さもムード作りというわけか。
液体で満たされたほうのグラスを手に取り、匂いを嗅ぎひとくち舐める。やはりそう。これはグレープジュース。
才子才に倒れるとはまさにこのこと。
自分で用意したくせにグラスを間違えてワインに飲まれるなんて、愚の骨頂よね。
ソファに乗せきらず床に下ろされていた脛を、スリッパを履いたつま先で蹴り上げた。
「う……んぅ」
蹴られた痛みで目を覚ますかと思ったが、酒精に打ち勝つことはできないらしい。むにゃむにゃ寝言を唱えつつ身体の向きを変える。片足をソファの上に立てた拍子に、纏っていたバスローブがはだけ、中身が覗いた。
「……!……」
——履いていない。
あわよくばどころか初日から早速やる気満々じゃないですか。
ふーん。
あなたがそのつもりなら、わたしにも考えが、あります。
*
「きもちいいぃ……」
なんて贅沢なのでしょう。
ほぅ、と、今日何度目かのため息をついた。
だがしかしいまは、ブクブクと泡立つ水流マッサージの心地よさに浸り現実逃避をしている場合ではなかった。
ここへ来てはじめて知ったのだが、この部屋はなんと、2LDK。わたしのワンルームの部屋が幾つ入るんだと空しくなるダイニングを兼ねたリビングルーム以外に、部屋の中央に巨大なベッドが鎮座する広いベッドルームと、最早衣装部屋としか呼べない広さのウォーキングクローゼット。そして、用途不明な機材と書籍が山積みにされている書斎に、水回りのみ。
大事なことは二度言う。百七十平米相当の豪華なマンションのくせに、間取りはたった! 2LDKなのだ。
つまるところわたしはには個室無し。当然プライバシーも無し。仕事だけではなく生活や楽しみまでをも奪われ、すべて専務中心に世界が回る。
こんなことが許されてよいものだろうか。いや、許せん。
湯上がりの湿った身体を極上のタオルで拭いながら、淡く香る薔薇の残り香を吸い込みまた、ため息をつく。
手回しがよいというべきか、悪辣というべきか。専務とその秘書は、わたしの私物をすべてここに運び込んだだけではなく、アパートの解約まで済ませている。
帰りたい。けれど、帰る家が、もうない。
だからいまは諦めて、おとなしく従う振りをしつつ、戻り道ではなく、行く道を模索するしか他に方法はないのだが、さらにもうひとつ。
貞操の危機、という大問題がわたしの目の前に立ちはだかっているのだ。
婚約だのなんだのなんてくだらない話は、この際横へ置いておいて。わたしを自分のテリトリーである2LDKに引きずり込んだのはもちろん、あっちの処理要員との下心もあるに決まっている。ましてや、あのふたりがコソコソと進めた計画だ。無いわけがない。
世間で言うところのちんくしゃ眼鏡ブスに手を付けようなんて、専務も物好きだ。きれいどころに不自由する身でもあるまいし、まったく気が知れない。
わたしがこの世に生を受けて二十五年、一切の経験もなく今日という日を迎えてしまったのは、後生大事に貞操を守り通してきたからではなく、単に、機会に恵まれなかっただけ。
肉体、精神共に健全な大人の女性なのだから、冥土の土産に一回くらい経験してみたいな、との欲望ももちろんある。
相手が専務——中身はアレだが女なら誰もが狙い定める麗しき御曹司さまときたら、相手にとって不足はないし。
けれども。
簡単にヤラレてしまうのも癪に障る。
頭からタオルをかぶり、ゴシゴシと頭を拭きながら、洗面台の脇に置いた眼鏡をかける。
そこにあるはずの脱いだ衣服と着替えが消え失せているのが、クリアになった視界に映った。
代わりに置かれていたのは、真っ白なふかふかバスローブと、如何にもこれぞ高級シルクジョーゼットだ、と、自己主張している薄いひらひらしたなにか。
手触りを楽しみつつ、びろーんと広げてみる。
「……悪趣味」
——う゛ぁっかじゃないの? こんな短いスケスケをわたしに着せようだなんて。
さりとて他に着るものもなし。
ざっと丸めて元の場所へ戻し、一糸纏えぬ素肌をバスローブで包んだ。
話し合いの末、今日のところは巨大なベッドを確保できたのであとは寝るだけなのだが、のぼせ気味の身体が水分を欲している。この出で立ちでヤツと顔を合わせたくはないが、仕方がない。覚悟を決めてキッチンへの引き戸を開けた。
足音を忍ばせ滑り込む。ミネラルウォーターを取り出す際の冷蔵庫の灯りにも開閉音にも反応がない。もしかして、専務はいないのかしら、と、リビングを見渡せば、広々としたソファの上で、肘掛けを枕に大きな身体を窮屈そうに丸めている姿が、間接照明の淡い光の中に映し出された。
ミネラルウォーターを口に含みながら近づき、カーペットの上に腰を下ろした。目の前で披露される規則正しい寝息。夢でも見ているのだろうか。時折、眉間にうっすら皺を寄せ、濃く長いまつげが揺れる。
「よく寝てるわ……」
寝ているときは、案外かわいい顔をしているのよね。
額にかかる前髪にそっと指先で触れてみれば、まだほんのりと湿気を帯びていた。
「ん?」
——酒臭い?
サイドテーブルに置かれた赤紫色の液体で満たされたワイングラスが目に入る。そのうちのひとつは、半分ほどに減っていた。
これは——。
わたしの推理が外れていなければつまり、風呂上がり、バスローブ一枚羽織って恥ずかしげにやってきたわたしに「同棲初日を祝って」とかなんとか理由をくっつけて酒を勧め、酔わせてあわよくばその先も——。なるほど窓の外の灯りが映える室内の暗さもムード作りというわけか。
液体で満たされたほうのグラスを手に取り、匂いを嗅ぎひとくち舐める。やはりそう。これはグレープジュース。
才子才に倒れるとはまさにこのこと。
自分で用意したくせにグラスを間違えてワインに飲まれるなんて、愚の骨頂よね。
ソファに乗せきらず床に下ろされていた脛を、スリッパを履いたつま先で蹴り上げた。
「う……んぅ」
蹴られた痛みで目を覚ますかと思ったが、酒精に打ち勝つことはできないらしい。むにゃむにゃ寝言を唱えつつ身体の向きを変える。片足をソファの上に立てた拍子に、纏っていたバスローブがはだけ、中身が覗いた。
「……!……」
——履いていない。
あわよくばどころか初日から早速やる気満々じゃないですか。
ふーん。
あなたがそのつもりなら、わたしにも考えが、あります。
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