43 / 65
俺にも俺の考えがある。
陸
雪に閉ざされた冬の季節が過ぎて芽吹いた緑の香りが漂い出す頃、都会の喧騒を逃れた人々が、美しい景観と温泉に束の間の癒やしを求めてやって来る。
ここ亀屋旅館本館も例外ではなく、満室とまではいかないが、定期的に訪れる旧知の宿泊客や通りすがりの温泉利用客で、それなりの賑わいを見せている。
つまり、大小合わせた浴場には常に、誰かしらいるわけで……。
一仕事終わったあと、ひとっ風呂浴びようと誘う祐司は当然、袖にした。座敷で井川のふたりと祐司が浴衣姿で寛ぐ宴会の最中も、俺だけは暑苦しいスーツのまま。
小父さんたちに「要くん、風呂入ってこないのかい?」と、怪訝そうな顔をされても笑ってごまかした。
みなまで言わずとも簡単に想像が付くだろう。
いまの俺が他人と一緒に温泉に浸かるのは、些か——どころか、か、な、り、差し障りがあるためだ。
夕食後の入浴タイムも終わり仕舞湯間近のこの時間、ひとつしかない家族風呂の入り口には、空きの札が掛かっていた。
やっとだ。やっと、旅の垢を落とし一日の疲れを癒やせる。
誰に見咎められることもなく、脱衣所で素っ裸になった。全身をざっと洗ってから、少々熱めの湯にまずは足先を入れて温度を確認。そろりそろりと全身を浸した。
子どもの頃からいつでも簡単にシャワーだけで済ませ、未だ自宅のジャグジー浴槽すら滅多に使わない俺でも、この歳になればさすがに温泉の良さが身に染みてわかるようにもなるわけで。
ああ。生き返る。
温もりが身体の芯まで沁みていき、緊張が解れるにつれ、懐かしい思い出が蘇ってくる。
この風呂には、ずいぶんと世話になった。
祐司とふたり、大浴場で泳ぎ叱られ。
家族風呂では湯船の栓を抜き、大目玉を食らった。
どれだけ長く浸かれるかを競って湯あたりし、医者を呼ばれる騒ぎにもなったっけ。
それから……。
「よくよく思いだしてみると、やらかした記憶ばっかりだな」
勢いよく注がれる湯、天井から滴り落ちる水滴。風呂場に響くのは己の息づかいと独り言のみ。
「静かだ……」
相沢は今頃、ひとりでなにをしているだろう。
静寂の中、ふと浮かぶのは、滅多に拝むことのできない相沢の笑顔だった。
「リノベーションが始まる前にあいつを連れてきたいな」
一緒に湯に浸かり、子どもの頃のあれこれ——自慢できる武勇伝ではないが、を語って聞かせたら、相沢はまた笑ってくれるだろうか。
湯船の縁を枕に天井を見上げて、ほうっとひとつ、大きく息を吐く。
少々長湯をしすぎたようだ。
湯をひと掬いし両手で顔をパシャッと叩き気合いを入れ風呂を出た。
脱衣所のひんやりとした空気が心地好い。身体を拭いた手拭いで湯気で曇った姿見を拭う。全身を映し出せばそこには、ぞうさんを踏みつけて笑うニャンコがいる。
「当分落ちねぇだろうなこれは……」
相沢の冷気を纏った笑顔を思い出して、くしゅっとくしゃみがひとつ。
「風邪引く前に寝よ……」
パンツを穿いて浴衣を纏い、脱いだスーツと下着を丸めて抱え忘れ物の有無を確認。
よしっ、と、引き戸を開けのれんをくぐったところで、その目に飛び込んできた人物を認識しゴクリと息を呑む。
「ずいぶんと長湯ね」
ここ亀屋旅館本館も例外ではなく、満室とまではいかないが、定期的に訪れる旧知の宿泊客や通りすがりの温泉利用客で、それなりの賑わいを見せている。
つまり、大小合わせた浴場には常に、誰かしらいるわけで……。
一仕事終わったあと、ひとっ風呂浴びようと誘う祐司は当然、袖にした。座敷で井川のふたりと祐司が浴衣姿で寛ぐ宴会の最中も、俺だけは暑苦しいスーツのまま。
小父さんたちに「要くん、風呂入ってこないのかい?」と、怪訝そうな顔をされても笑ってごまかした。
みなまで言わずとも簡単に想像が付くだろう。
いまの俺が他人と一緒に温泉に浸かるのは、些か——どころか、か、な、り、差し障りがあるためだ。
夕食後の入浴タイムも終わり仕舞湯間近のこの時間、ひとつしかない家族風呂の入り口には、空きの札が掛かっていた。
やっとだ。やっと、旅の垢を落とし一日の疲れを癒やせる。
誰に見咎められることもなく、脱衣所で素っ裸になった。全身をざっと洗ってから、少々熱めの湯にまずは足先を入れて温度を確認。そろりそろりと全身を浸した。
子どもの頃からいつでも簡単にシャワーだけで済ませ、未だ自宅のジャグジー浴槽すら滅多に使わない俺でも、この歳になればさすがに温泉の良さが身に染みてわかるようにもなるわけで。
ああ。生き返る。
温もりが身体の芯まで沁みていき、緊張が解れるにつれ、懐かしい思い出が蘇ってくる。
この風呂には、ずいぶんと世話になった。
祐司とふたり、大浴場で泳ぎ叱られ。
家族風呂では湯船の栓を抜き、大目玉を食らった。
どれだけ長く浸かれるかを競って湯あたりし、医者を呼ばれる騒ぎにもなったっけ。
それから……。
「よくよく思いだしてみると、やらかした記憶ばっかりだな」
勢いよく注がれる湯、天井から滴り落ちる水滴。風呂場に響くのは己の息づかいと独り言のみ。
「静かだ……」
相沢は今頃、ひとりでなにをしているだろう。
静寂の中、ふと浮かぶのは、滅多に拝むことのできない相沢の笑顔だった。
「リノベーションが始まる前にあいつを連れてきたいな」
一緒に湯に浸かり、子どもの頃のあれこれ——自慢できる武勇伝ではないが、を語って聞かせたら、相沢はまた笑ってくれるだろうか。
湯船の縁を枕に天井を見上げて、ほうっとひとつ、大きく息を吐く。
少々長湯をしすぎたようだ。
湯をひと掬いし両手で顔をパシャッと叩き気合いを入れ風呂を出た。
脱衣所のひんやりとした空気が心地好い。身体を拭いた手拭いで湯気で曇った姿見を拭う。全身を映し出せばそこには、ぞうさんを踏みつけて笑うニャンコがいる。
「当分落ちねぇだろうなこれは……」
相沢の冷気を纏った笑顔を思い出して、くしゅっとくしゃみがひとつ。
「風邪引く前に寝よ……」
パンツを穿いて浴衣を纏い、脱いだスーツと下着を丸めて抱え忘れ物の有無を確認。
よしっ、と、引き戸を開けのれんをくぐったところで、その目に飛び込んできた人物を認識しゴクリと息を呑む。
「ずいぶんと長湯ね」
あなたにおすすめの小説
俺様上司に今宵も激しく求められる。
藤白ましろ
恋愛
鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。
蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。
ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。
「おまえの顔、えっろい」
神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。
――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
**2026.01.02start~2026.01.17end**
◆エブリスタ様にも掲載。人気沸騰中です!
https://estar.jp/novels/26513389
絶交した幼馴染と大学の合コンで再会した。
孤独な蛇
恋愛
中学生の浅野春樹は上級生と喧嘩騒動を起こしたことがあった。
その上、目つきが悪く地毛は茶髪のため不良少年のような扱いを受けて学校では孤立していた。
そんな中、幼馴染の深瀬志穂だけは春樹のことをいつも気遣ってくれていた。
同じ高校に行こうと声を掛けてくれる志穂の言葉に応えたい一心で受験勉強にも力を入れていた。
春樹にとって、学校で孤立していることは問題ではなかった。
昔から志穂が近くにいてくれるから……。
しかし、3年生なってから志穂の態度がよそよそしくなってきた。
登下校も別々になり、学校で話しかけてくることも無くなった。
志穂の心が自分から離れていってしまっている気がした春樹は焦っていた。
彼女と話がしたい。笑った顔が見たい。
志穂と一緒に帰ろうと、彼女が部活動を行っている体育館へ向かったのだが……。
そこで春樹が耳にしたのは、自分の悪口を言って部活の友達と楽しそうにしている志穂の声だった。
その瞬間、春樹の中で志穂に対する想いや信頼は……消滅した。
恋は秘密のその先に
葉月 まい
恋愛
秘書課の皆が逃げ出すほど冷血な副社長
仕方なく穴埋めを命じられ
副社長の秘書につくことになった
入社3年目の人事部のOL
やがて互いの秘密を知り
ますます相手と距離を置く
果たして秘密の真相は?
互いのピンチを救えるのか?
そして行き着く二人の関係は…?
苦手な冷徹専務が義兄になったかと思ったら極あま顔で迫ってくるんですが、なんででしょう?~偽家族恋愛~
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「こちら、再婚相手の息子の仁さん」
母に紹介され、なにかの間違いだと思った。
だってそこにいたのは、私が敵視している専務だったから。
それだけでもかなりな不安案件なのに。
私の住んでいるマンションに下着泥が出た話題から、さらに。
「そうだ、仁のマンションに引っ越せばいい」
なーんて義父になる人が言い出して。
結局、反対できないまま専務と同居する羽目に。
前途多難な同居生活。
相変わらず専務はなに考えているかわからない。
……かと思えば。
「兄妹ならするだろ、これくらい」
当たり前のように落とされる、額へのキス。
いったい、どうなってんのー!?
三ツ森涼夏
24歳
大手菓子メーカー『おろち製菓』営業戦略部勤務
背が低く、振り返ったら忘れられるくらい、特徴のない顔がコンプレックス。
小1の時に両親が離婚して以来、母親を支えてきた頑張り屋さん。
たまにその頑張りが空回りすることも?
恋愛、苦手というより、嫌い。
淋しい、をちゃんと言えずにきた人。
×
八雲仁
30歳
大手菓子メーカー『おろち製菓』専務
背が高く、眼鏡のイケメン。
ただし、いつも無表情。
集中すると周りが見えなくなる。
そのことで周囲には誤解を与えがちだが、弁明する気はない。
小さい頃に母親が他界し、それ以来、ひとりで淋しさを抱えてきた人。
ふたりはちゃんと義兄妹になれるのか、それとも……!?
*****
千里専務のその後→『絶対零度の、ハーフ御曹司の愛ブルーの瞳をゲーヲタの私に溶かせとか言っています?……』
*****
表紙画像 湯弐様 pixiv ID3989101
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
結婚直後にとある理由で離婚を申し出ましたが、 別れてくれないどころか次期社長の同期に執着されて愛されています
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「結婚したらこっちのもんだ。
絶対に離婚届に判なんて押さないからな」
既婚マウントにキレて勢いで同期の紘希と結婚した純華。
まあ、悪い人ではないし、などと脳天気にかまえていたが。
紘希が我が社の御曹司だと知って、事態は一転!
純華の誰にも言えない事情で、紘希は絶対に結婚してはいけない相手だった。
離婚を申し出るが、紘希は取り合ってくれない。
それどころか紘希に溺愛され、惹かれていく。
このままでは紘希の弱点になる。
わかっているけれど……。
瑞木純華
みずきすみか
28
イベントデザイン部係長
姉御肌で面倒見がいいのが、長所であり弱点
おかげで、いつも多数の仕事を抱えがち
後輩女子からは慕われるが、男性とは縁がない
恋に関しては夢見がち
×
矢崎紘希
やざきひろき
28
営業部課長
一般社員に擬態してるが、会長は母方の祖父で次期社長
サバサバした爽やかくん
実体は押しが強くて粘着質
秘密を抱えたまま、あなたを好きになっていいですか……?
再会した御曹司は 最愛の秘書を独占溺愛する
猫とろ
恋愛
あらすじ
青樹紗凪(あおきさな)二十五歳。大手美容院『akai』クリニックの秘書という仕事にやりがいを感じていたが、赤井社長から大人の関係を求められて紗凪は断る。
しかしあらぬ噂を立てられ『akai』を退社。
次の仕事を探すものの、うまく行かず悩む日々。
そんなとき。知り合いのお爺さんから秘書の仕事を紹介され、二つ返事で飛びつく紗凪。
その仕事場なんと大手老舗化粧品会社『キセイ堂』 しかもかつて紗凪の同級生で、罰ゲームで告白してきた黄瀬薫(きせかおる)がいた。
しかも黄瀬薫は若き社長になっており、その黄瀬社長の秘書に紗凪は再就職することになった。
お互いの過去は触れず、ビジネスライクに勤める紗凪だが、黄瀬社長は紗凪を忘れてないようで!?
社長×秘書×お仕事も頑張る✨
溺愛じれじれ物語りです!
【完結】溺愛予告~御曹司の告白躱します~
蓮美ちま
恋愛
モテる彼氏はいらない。
嫉妬に身を焦がす恋愛はこりごり。
だから、仲の良い同期のままでいたい。
そう思っているのに。
今までと違う甘い視線で見つめられて、
“女”扱いしてるって私に気付かせようとしてる気がする。
全部ぜんぶ、勘違いだったらいいのに。
「勘違いじゃないから」
告白したい御曹司と
告白されたくない小ボケ女子
ラブバトル開始