24 / 90
§ それは、ホントに不可抗力で。
02
しおりを挟む
「あゆむ……」
「へっ? あっ?」
あゆむ。それは、聞き間違えようもない、私の名前。
耳に入ってきた音が、俄かに信じられない。瞼を閉じ、頭の中で繰り返される音を咀嚼する。
呼ばれたのは、確かに『下の名前』だった。しかし、目の前のこの男は、一度ちらっと顔を見たことがあるだけの上司。私を名前呼びする理由なぞ無いはずだ。
危険信号が、脳内に響く。見つめ合ううちに、男の眉間の皺がさらに深くなる。男は私から視線を逸らさず、一瞬目を細めたあと、ゆっくりと一度だけ瞬きをして大きく息を吐き、言葉を続けた。
「三年前……」
「さんねんまえ……?」
「三年前、ラスベガスで……」
サンネンマエ、ラスベガスデ。
その言葉を口の中で繰り返し、意味を理解した瞬間、私はさらに大きく目を見開いた。
ほんの少し口角を上げ、おもむろに眼鏡を外す男が静かに発したその次の言葉は、葬り去ったはずの遠い記憶を呼び覚ますに、十分過ぎるもの。
「まさか、夫の顔……を、忘れたとは言わないだろうな? 奥さん」
嘘だ! そんなことはアリエナイ。でも、だったらなぜ……。
男は、私の目を見据えたまま、一歩、また、一歩と近づいて来る。
「う、そ? そんなはず……」
「なぜ消えたんだ?」
違う、絶対に違う。確かに『姓』こそ同じ小林だが、小林なんて名字の人間は、日本中にそれこそゴロゴロいる。
「そんなことあるはずが……。尊? 本当に?」
こんなドッキリみたいな再会、にわかに信じられるわけがない。
髪が短い無精髭が無い痩せぎすでもないこの隙の無いキレイな男は、どこからどう見ても私が知っている『小林尊』とは似ても似つかないじゃないか。
ただ、その声の響きを懐かしく感じるのは、否定できないが。
「俺が他の誰だと言うんだ?」
「いや……でも、そんな……まさか?」
頭の芯がジンジンと痺れてきた。なけなしの記憶を総動員し、尊の顔を脳内で再生してみるが、目の前のこの男とはやはり一致しない。
「言えよ! なぜ俺の前から消えたんだ?」
絶対に逃さないとばかりにゆっくりと言葉を紡ぐその声は、まるで地獄の底から湧き出る冷気のよう。
怒っている。いや、本当に本人なら、怒らないほうがおかしい。
「きっ、消えるなんて、そんなつもりは……ナカッタノデスガ……」
「だったらなぜ電話が通じない? あのとき、別れ際に仕事が終わったら電話するって言っただろう?」
ああ、そんなことを、言われたのかも知れない。だが、かも知れないだけで、明確な記憶は無い。だから、この男の言うことが事実なのかそうではないのか、判別もつかない。
怒りとも悲しみともつかない不思議な色の瞳の奥を、窺うようにしながら思考を巡らせるのは、いま、この場からどうすれば逃れられるのか、それひとつ。
「あ、あの……、そそそ、それは……それはですね、ホントに不可抗力でして……」
その距離、わずか数歩。小さく一歩、また一歩とあとずさるたび、膝がガクガクと震える。
左足をさらに一歩下げると、踵がコツンと何かに当たる。チラと視線をやればそこは、すでに壁際。もう逃げ場は無い。男の顔は見上げた鼻先にある。
「なぜだ? 答えろ!」
まずい。この状況は非常にまずい。
「へっ? あっ?」
あゆむ。それは、聞き間違えようもない、私の名前。
耳に入ってきた音が、俄かに信じられない。瞼を閉じ、頭の中で繰り返される音を咀嚼する。
呼ばれたのは、確かに『下の名前』だった。しかし、目の前のこの男は、一度ちらっと顔を見たことがあるだけの上司。私を名前呼びする理由なぞ無いはずだ。
危険信号が、脳内に響く。見つめ合ううちに、男の眉間の皺がさらに深くなる。男は私から視線を逸らさず、一瞬目を細めたあと、ゆっくりと一度だけ瞬きをして大きく息を吐き、言葉を続けた。
「三年前……」
「さんねんまえ……?」
「三年前、ラスベガスで……」
サンネンマエ、ラスベガスデ。
その言葉を口の中で繰り返し、意味を理解した瞬間、私はさらに大きく目を見開いた。
ほんの少し口角を上げ、おもむろに眼鏡を外す男が静かに発したその次の言葉は、葬り去ったはずの遠い記憶を呼び覚ますに、十分過ぎるもの。
「まさか、夫の顔……を、忘れたとは言わないだろうな? 奥さん」
嘘だ! そんなことはアリエナイ。でも、だったらなぜ……。
男は、私の目を見据えたまま、一歩、また、一歩と近づいて来る。
「う、そ? そんなはず……」
「なぜ消えたんだ?」
違う、絶対に違う。確かに『姓』こそ同じ小林だが、小林なんて名字の人間は、日本中にそれこそゴロゴロいる。
「そんなことあるはずが……。尊? 本当に?」
こんなドッキリみたいな再会、にわかに信じられるわけがない。
髪が短い無精髭が無い痩せぎすでもないこの隙の無いキレイな男は、どこからどう見ても私が知っている『小林尊』とは似ても似つかないじゃないか。
ただ、その声の響きを懐かしく感じるのは、否定できないが。
「俺が他の誰だと言うんだ?」
「いや……でも、そんな……まさか?」
頭の芯がジンジンと痺れてきた。なけなしの記憶を総動員し、尊の顔を脳内で再生してみるが、目の前のこの男とはやはり一致しない。
「言えよ! なぜ俺の前から消えたんだ?」
絶対に逃さないとばかりにゆっくりと言葉を紡ぐその声は、まるで地獄の底から湧き出る冷気のよう。
怒っている。いや、本当に本人なら、怒らないほうがおかしい。
「きっ、消えるなんて、そんなつもりは……ナカッタノデスガ……」
「だったらなぜ電話が通じない? あのとき、別れ際に仕事が終わったら電話するって言っただろう?」
ああ、そんなことを、言われたのかも知れない。だが、かも知れないだけで、明確な記憶は無い。だから、この男の言うことが事実なのかそうではないのか、判別もつかない。
怒りとも悲しみともつかない不思議な色の瞳の奥を、窺うようにしながら思考を巡らせるのは、いま、この場からどうすれば逃れられるのか、それひとつ。
「あ、あの……、そそそ、それは……それはですね、ホントに不可抗力でして……」
その距離、わずか数歩。小さく一歩、また一歩とあとずさるたび、膝がガクガクと震える。
左足をさらに一歩下げると、踵がコツンと何かに当たる。チラと視線をやればそこは、すでに壁際。もう逃げ場は無い。男の顔は見上げた鼻先にある。
「なぜだ? 答えろ!」
まずい。この状況は非常にまずい。
0
あなたにおすすめの小説
会社のイケメン先輩がなぜか夜な夜な私のアパートにやって来る件について(※付き合っていません)
久留茶
恋愛
地味で陰キャでぽっちゃり体型の小森菜乃(24)は、会社の飲み会で女子一番人気のイケメン社員・五十嵐大和(26)を、ひょんなことから自分のアパートに泊めることに。
しかし五十嵐は表の顔とは別に、腹黒でひと癖もふた癖もある男だった。
「お前は俺の恋愛対象外。ヤル気も全く起きない安全地帯」
――酷い言葉に、菜乃は呆然。二度と関わるまいと決める。
なのに、それを境に彼は夜な夜な菜乃のもとへ現れるようになり……?
溺愛×性格に難ありの執着男子 × 冴えない自分から変身する健気ヒロイン。
王道と刺激が詰まったオフィスラブコメディ!
*全28話完結
*辛口で過激な発言あり。苦手な方はご注意ください。
*他誌にも掲載中です。
【完結】育てた後輩を送り出したらハイスペになって戻ってきました
藤浪保
恋愛
大手IT会社に勤める早苗は会社の歓迎会でかつての後輩の桜木と再会した。酔っ払った桜木を家に送った早苗は押し倒され、キスに翻弄されてそのまま関係を持ってしまう。
次の朝目覚めた早苗は前夜の記憶をなくし、関係を持った事しか覚えていなかった。
定時で帰りたい私と、残業常習犯の美形部長。秘密の夜食がきっかけで、胃袋も心も掴みました
藤森瑠璃香
恋愛
「お先に失礼しまーす!」がモットーの私、中堅社員の結城志穂。
そんな私の天敵は、仕事の鬼で社内では氷の王子と恐れられる完璧美男子・一条部長だ。
ある夜、忘れ物を取りに戻ったオフィスで、デスクで倒れるように眠る部長を発見してしまう。差し入れた温かいスープを、彼は疲れ切った顔で、でも少しだけ嬉しそうに飲んでくれた。
その日を境に、誰もいないオフィスでの「秘密の夜食」が始まった。
仕事では見せない、少しだけ抜けた素顔、美味しそうにご飯を食べる姿、ふとした時に見せる優しい笑顔。
会社での厳しい上司と、二人きりの時の可愛い人。そのギャップを知ってしまったら、もう、ただの上司だなんて思えない。
これは、美味しいご飯から始まる、少し大人で、甘くて温かいオフィスラブ。
Sランクの年下旦那様は如何でしょうか?
キミノ
恋愛
職場と自宅を往復するだけの枯れた生活を送っていた白石亜子(27)は、
帰宅途中に見知らぬイケメンの大谷匠に求婚される。
二日酔いで目覚めた亜子は、記憶の無いまま彼の妻になっていた。
彼は日本でもトップの大企業の御曹司で・・・。
無邪気に笑ったと思えば、大人の色気で翻弄してくる匠。戸惑いながらもお互いを知り、仲を深める日々を過ごしていた。
このまま、私は彼と生きていくんだ。
そう思っていた。
彼の心に住み付いて離れない存在を知るまでは。
「どうしようもなく好きだった人がいたんだ」
報われない想いを隠し切れない背中を見て、私はどうしたらいいの?
代わりでもいい。
それでも一緒にいられるなら。
そう思っていたけれど、そう思っていたかったけれど。
Sランクの年下旦那様に本気で愛されたいの。
―――――――――――――――
ページを捲ってみてください。
貴女の心にズンとくる重い愛を届けます。
【Sランクの男は如何でしょうか?】シリーズの匠編です。
契約結婚に初夜は必要ですか?
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
勤めていた会社から突然、契約を切られて失業中の私が再会したのは、前の会社の人間、飛田でした。
このままでは預金がつきてアパートを追い出されそうな私と、会社を変わるので寮を出なければならず食事その他家事が困る飛田。
そんな私たちは利害が一致し、恋愛感情などなく結婚したのだけれど。
……なぜか結婚初日に、迫られています。
冷たい外科医の心を溶かしたのは
みずほ
恋愛
冷たい外科医と天然万年脳内お花畑ちゃんの、年齢差ラブコメです。
《あらすじ》
都心の二次救急病院で外科医師として働く永崎彰人。夜間当直中、急アルとして診た患者が突然自分の妹だと名乗り、まさかの波乱しかない同居生活がスタート。悠々自適な30代独身ライフに割り込んできた、自称妹に振り回される日々。
アホ女相手に恋愛なんて絶対したくない冷たい外科医vsネジが2、3本吹っ飛んだ自己肯定感の塊、タフなポジティブガール。
ラブよりもコメディ寄りかもしれません。ずっとドタバタしてます。
元々ベリカに掲載していました。
昔書いた作品でツッコミどころ満載のお話ですが、サクッと読めるので何かの片手間にお読み頂ければ幸いです。
強気なサッカー選手の幼馴染みが、溺愛彼氏になりました
蝶野ともえ
恋愛
「なりました。」シリーズ、第2作!
世良 千春(せら ちはる)は、容姿はおっとり可愛い系で、男の人にはそこそこモテる、普通の社会人の女の子。
けれど、付き合うと「思ってたタイプと違った。」と、言われて振られてしまう。
それを慰めるのが、千春の幼馴染みの「四季組」と呼ばれる3人の友達だった。
橘立夏(たちばな りっか)、一色秋文(いっしき あきふみ)、冬月出(ふゆつき いずる)、そして、千春は名前に四季が入っているため、そう呼ばれた幼馴染みだった。
ある日、社会人になった千春はまたフラれてしまい、やけ酒をのみながら、幼馴染みに慰めてもらっていると、秋文に「ずっと前から、おまえは俺の特別だ。」と告白される。
そんな秋文は、人気サッカー選手になっており、幼馴染みで有名人の秋文と付き合うことに戸惑うが………。
仲良し四季組の中で、少しずつ変化が表れ、そして、秋文の強気で俺様だけど甘い甘い台詞や行動に翻弄されていく………。
彼に甘やかされる日々に翻弄されてみませんか?
☆前作の「なりました。」シリーズとは全く違うお話になります。
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる