それは、ホントに不可抗力で。

樹沙都

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§ 墨に近づけば黒くなる。

01

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 前回の食事は、牛丼屋だった。だから、今回もてっきり回るものだとばかり思っていた鮨屋はなんと、予想外。

 みどり鮨。

 そこは、知る人ぞ知る江戸前鮨の名店。毎日市場から仕入れる選りすぐりの一品と、契約漁協から直接仕入れる新鮮な魚介。
 こだわりの鮨を握る大将はその昔、座敷を設えた超高級店で修行を積んだ、折り紙付きの腕前の持ち主で、その味を求め、遠くは海外から、果ては各界の著名人までもが、お忍びで訪れることもあるという。
 もちろん、メニューも無ければ値札も無い、庶民にはとうてい手の届かない憧れの店だ。

 お互いを理解し合おうなどと言いながら、こんなオソロシイ店に連れてきて鮨を振る舞うなんて、変。絶対に、何かを企んでいるに違いない。
 やはりここは、油断をせずに気を引き締めて、あわよくば食い逃げだと心に決めた。

 まだ開店前なのか、のれんを下ろしている店の引き戸を、慣れた様子でガラガラと開け、無遠慮に奥へと進んでいくそのあとを追う。そのまま一番奥のカウンターに腰を下ろした尊に倣い、私も遠慮がちに隣へ座った。
 ほんのりと酢の香り漂う落ち着いた店内には、お客さんの姿はまだ無い。勝手に入ってしまって、大丈夫なのだろうか。

「なんでも好きなもん、食っていいからな」

 半月盆に箸と小皿が設えられた美しい無垢檜のカウンター、その後ろ側には、同じく無垢材のテーブルが三席。
 ぼーっと店内を見回している私に尊が声をかける。いつの間に運ばれてきたのか、目の前にはおしぼりが鎮座していた。

 なんでも好きなものをと言われ、頭に浮かぶのはやはり、あの夢。食べ損なった、あのウニだ。
 この際だ。思いっきり食べまくってやる。心の中で舌舐りをした。

「よぉ、尊! 久しぶりだな」

 奥の厨房からひょっこりと顔を出した大将と呼ぶにはまだ若い男性は、年の頃、四十くらいだろうか。くしゃっと笑う笑顔がかわいい目尻の皺がご愛敬の、なかなか良い男っぷり。

「兄貴! 居たのか」
「居たのかってなんだよ? ちっとも顔出さねえから、親父、機嫌悪いぞ」
「仕方ねえだろ? 忙しいんだから」
「忙しいったってさあ、近くじゃねえか。メシぐらい食いに来いよ」
「だからこうやって来てんだろーが?」
「ったくよ、忙しい忙しいって……って、あ? 女連れかよ? 珍しいこともあるもんだな。で、どちらさん?」
「俺の嫁」
「ああ? 嫁だあ? おまえ、いつ結婚したんだよ? え? って、まさか……、いつだったか、おまえが捨てられたアレじゃねえよな?」
「誰が捨てられてんだよ? 人聞きわりい」

 意味不明。繰り広げられているこの親しげな会話は、いったいなんなのだ。呆気にとられていると、尊が兄貴と呼ぶ板さんが、私を凝視している。

「お嬢ちゃん、あんた、ホントにこいつの嫁さん?」

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