そんなの、知らない 【夫人叢書①】

六菖十菊

文字の大きさ
132 / 160
空漠の知悉

130_沙織_

しおりを挟む
私は忙しい。
トップ交代をしてから、どこかの誰かさんは一気に減速した。……少し安心した。
櫂の仕事の仕方はゴールのないマラソンの様で
いつか倒れるのではないかと思っていた。
今は忙しいながらも仕事以外にも目を向けれている。
今日はアンニュイ風に黄昏ている。
こんなことを思いたくないが、少し艶っぽい。
100%、彼女のことを考えているのだろう。
……侑梨さんのいるマンションを見つけ出す為、
何かしら工作をしていたが……分かり易い。
彼女と進展があったのだろう。
私には関係ないが。

──午前中の仕事を終わらせて一息つけたのは夕方だった。そこに櫂が帰ってくる。
朝の彼とは別人のように沈んでいる。
なぜか手にはパン屋の紙袋。
100%彼女が関係している。
溜息を吐く。

「お腹空いたわ」
紙袋を渡される。
イタリアンベーカリーのパンだわ。
チェレアリバケットを丸かじりする。
あら美味しい。
なぜか代官山まで行って買ったパンは手付かず。
今も上の空だ。
バカね。

「──侑梨と本当に終わりそうだ」
「聞いてないわ」
「聞いてくれ」
そう言うから黙って待つが沈黙が続く。
「私、忙しいの」
「──好きな人の価値観と合わない時どうする?」
「付き合わないわ」
「そうだよな」
「でも仕事なら相手の価値観を優先するわ」
「なぜ?」
「大事だからよ。私の命」
「……自分の常識範囲外のことでも?」
「自分の常識に価値なんてないわ」
「矜恃も保てない」
「そんなモノ、大事なものの前では無意味だわ」
「俺だって大事だ。俺の全てだ……そう思ってるのに侑梨の価値観を優先できない──俺は彼女を愛してないことになるんだろうか?」
「相手が間違っていると思うなら正せばいい。けれど、価値観に正解はないわ。どれだけ、お互いが相手を思いやれるかそれが全て」
「ヤツは侑梨の気持ちを優先させたのに……」
俺ではヤツを超えられないのかと嘆く。
ね」
「永遠に──かも」
「会社では向上心のない社員はいらないわ。与えられた仕事以上の仕事が出来て初めて認められる。与えられた仕事内の事しか出来ないのならトップなんて望まず永遠に下っ端をしていたらいいわ」
「沙織、仕事で例えるのをやめてくれ」
「分かりやすいでしょう?」
ソファに寝転び顔を腕で隠す。
「櫂。その仕事を請け負った場合のデメリットと断った場合のデメリットを考えなさい」
「断ればもう侑梨と会えない」
「そうね。私なら二度と頼まないわ。頼んでも、重要な案件は頼まない」
「侑梨はマウロのものだ」
「一社の独占でしょうね。介入は弱小企業にはほぼ不可能。もし仮に大企業が自滅したとしてもその案件がこちらに回るかは営業努力次第だけれど、それも出来ないのなら完全に手を引くしかない」
「──その仕事を請け負っても弱小企業は大企業には永遠に勝てないさ」
「さっき言ったわ。向上心なき者は去れ」
遂に櫂は黙った。
「私たちの仕事で一番大変な事はわかっているでしょう?」
「……クライアントの望みを知ること」
「そうね。なんでもいい、任せると言ったクライアントほど、後からイメージと違うとかクレームが多い。私たちはクライアントの望みを感じ取り、聞き出さなければならない。その意味で言えば、侑梨さんは自分から要望を伝えるタイプではないわ。その侑梨さんの要望を感じ取り聞き出したのだとしたら、マウロは貴方より格が上よ」
「あぁ」
無言かと思ったけれど、返事を返す。
「けれど──、侑梨さんがマウロを取ったと思った時……お互い慰めようと持ち掛けたのに貴方は結局、慰めを必要とせず独り苦しむことを選んだ。
侑梨さんを諦めれば貴方はこの先愛を得る機会は一生来ないかもしれない。安息が訪れるとも思えない。それなら侑梨さんの条件をのむ方がよっぽど建設的だわ」
ソファに寝転んでいた身体を起こし深い溜息を吐く。
「そうだな……」
髪を掻き上げ向けた顔に決意が見えた。
「だけど、愛しているからこそ許せないこともある
──侑梨の条件を受け入れることは出来ない。
安息が訪れず、愛を得られなくても──その先の孤独を選ぶ」
以外だった。櫂は最後には絶対に侑梨さんを選ぶと思っていた。
「侑梨さんがそれを望んでいるのに?」
「──侑梨にはマウロがいる」
テーブルの上のパン粉を払いゴミ箱に捨てる。
「……代官山のイタリアンベーカリーのパンを買いに行った貴方の安直さを私は評価してる。分かり易い答えは
ダイレクトに相手に伝わる。問題を複雑にすれば本質が見えなくなる」
けれど、その以前に。
「クライアントの望みを知っている気になっていることほど愚かなことはないわ。大事なことなら何度も煮詰めて話し合うことが重要よ。そうすれば最悪、クライアントの要望に応えることが出来なかったとしても満足されるクライアントもいらっしゃる」
小さく頷く彼にもう一言付け加える。
は自分の本当の望みを自覚しているのかしら?相手の本質も大事だけれども、自身の本質を理解しなければ質の良い明日は得られない」
「沙織は自分の本質を理解しているのか?」
彼の質問にそうねと肯定する。
「俺には侑梨も沙織も、女の本質はさっぱり分からない」
「それはそれで正解だわ。女心と秋の空、女心は猫の目なんて諺がある様に移り気なのも一つの本質よ」
お手上げのポーズを取る彼にしょうがないのでもう一つアドバイスをする。
「大事なのはタイミングよ。貴方と侑梨さんは7年間音信不通だった。あの時、コーヒーショップで出会ったのを偶然と取るか、神の采配と取るかは自分次第」
「……沙織は神を信じるのか?」
バカな質問だわ。
私は忙しいのでこれを最後にしよう。
「そんなの知らない。女は信じたいものを信じるのよ」

しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

英雄の番が名乗るまで

長野 雪
恋愛
突然発生した魔物の大侵攻。西の果てから始まったそれは、いくつもの集落どころか国すら飲みこみ、世界中の国々が人種・宗教を越えて協力し、とうとう終息を迎えた。魔物の駆逐・殲滅に目覚ましい活躍を見せた5人は吟遊詩人によって「五英傑」と謳われ、これから彼らの活躍は英雄譚として広く知られていくのであろう。 大侵攻の終息を祝う宴の最中、己の番《つがい》の気配を感じた五英傑の一人、竜人フィルは見つけ出した途端、気を失ってしまった彼女に対し、番の誓約を行おうとするが失敗に終わる。番と己の寿命を等しくするため、何より番を手元に置き続けるためにフィルにとっては重要な誓約がどうして失敗したのか分からないものの、とにかく庇護したいフィルと、ぐいぐい溺愛モードに入ろうとする彼に一歩距離を置いてしまう番の女性との一進一退のおはなし。 ※小説家になろうにも投稿

靴屋の娘と三人のお兄様

こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!? ※小説家になろうにも投稿しています。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

処理中です...