青天に予報なし

柏木みのり

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第8章

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 しばらくして、二人は竹山君の部屋に帰ってきた。
 コリアキンの屋敷には、やはり到達することができなかった。今回は、目に見えない壁に阻まれたというよりも、途中で、いくら歩いても屋敷との距離が縮まらなくなったのに竹山君が気がついて、引き返した。その頃には、ルーシィも『のうなしあんよ』たちも、とっくに並木道から姿を消していた。
 どちらのドアが誰のドアかは分かりようがなく——もしかして名前でも書いてありはしないかと玲は思ったのだけれど、何の手がかりも見つからず——、左を竹山君、右を玲が開けて戻ってきた。
 竹山君の腕時計によると、本の中に滞在したのは現実時間で40分間。
「竹山君、いつも滞在時間も記録するの?」
「うん。一応、自戒のために」
「自戒のため?」
「他にやらなきゃいけないこともあるわけだから。勉強とか」
 さすが。常に学年トップでいられるのには、きちんと理由がある。
 玲は、昨日『秘密の花園』に入った時、腕時計をしていかなかったことを今更ながら思い出した。これからはちゃんとしよう。
「でもすごいな。これで二人一緒に入れるんだってことがわかった」
「ね、同時じゃなくても入れるのかな。例えば竹山君が先に行って、同じ本から私が行ったら、本の中で会えるのかな」
「試してみようか」
 玲はちょっと後悔した。竹山君、勉強したいのかもしれないのに。
「いいの?勉強しなくて」
「だって今は部活の時間だもの」
「そっか。美術室に六時までいるはずだったんだものね」
 二人顔を見合わせてちょっと笑う。突然の、日常からの脱線。
「昨日の今頃は美術室にいて、日中あった嫌なことを思い出して憂鬱だった。あんな嫌なことが起こるのも、こんな嬉しいことが起こるのも全然知らなかった。なんだか不思議」
 玲が言うと、竹山君がそうそうと頷いた。
「そういえば憂鬱そうだったね。ため息ばっかりついてた」
 玲は赤くなった。
「ほんと?自分では気づかなかった。それで先生があんなこと言って寄ってきたんだ…」
 ベタベタ触られた感触を思い出して顔をしかめる。
「よっぽど嫌なことがあったんだね」
「うん…。大屋先生がね…」
 昨日の国語の授業のことを話した。
 竹山君は、きれいな眉をしかめた。
「失礼なことするな、あの先生も」
「でしょ。よくないって思うなら選ばなきゃいいじゃない?」
「いや、読んだときはいいって思ったから、選んだんだと思うよ。でも口に出して読み上げたら、なんだかちょっと気恥ずかしく感じて、それでそんなこと言ったんじゃないかな。あの先生ももうおじいさんだから、自分には似合わない若々しい、あるいは女の子らしい表現を口にして照れくさくなったとかね。それで『センチメンタルすぎますかね』」
 玲は感心して竹山君を見つめた。
「すごーい。説得力あるぅ」
 竹山君がからかうような目をして玲を見る。
「先生にそんなこと言わせるなんて、大宮さん、よっぽど女の子っぽいこと書いたんだ」
「そんなことないもん」
「今度読ませてよ」
「絶対だめー」
 笑いながら、本当に不思議だなと玲は思った。
 昨日の今頃は、竹山君とこんなふうに仲良くなれるなんて思ってもいなかった。
 綺麗な顔をした、物静かな、なんとなく近寄りがたい雰囲気の、学年一の秀才の男の子。素敵だなと憧れていた男の子。
 その男の子がセクハラにあった私を助けてくれて、今私はその男の子の部屋にいて、一緒に本の中に遊びにいったりしている。
 人生って不思議だ。
 予想もしない嫌なことも起こるけど、予想もしない素敵なことも起こる。
 しかも突然。
 雲ひとつない晴れわたった青空に、パッと稲光が閃くみたいに。
 それとも、ふわりと虹が現れるみたいに。

 次にブックホルダーに置かれたのは『モモ』だった。古びたハードカバーの本。色褪せたオレンジ色の縁取り。
「私のもおんなじ」
 玲の持っているのはお母さんのだった本だ。裏表紙の裏に、いかにも習いたてのようなぎこちない筆記体で、お母さんの昔の名前が書いてある。
「これは父のだったんじゃないかな…」
 竹山君が本をもう一度手に取ってあちこち見る。
「うん、父のだ」
 裏表紙の裏の隅っこに、E.Tというイニシャルが黒インクで入っている。
「E.T?」
 やっぱり言ってしまう。竹山君が笑う。
「竹山英介。昔もよく言われたらしいよ。E.T. phone homeって」
 映画はそんなに好きでもない玲だけれど、さすがにこの映画は知っている。お父さんもお母さんも、一緒にこの映画を見た時、「懐かしい」を連発してうるうるしていた。
「お父さんの本か。いいなあ。私、お父さんの昔の本って一冊も持ってない。今度訊いてみよう」
「大宮さん、お父さんと仲いいの?」
「うーん、普通かな。普通におしゃべりする仲」
「セクハラのこと、お父さんと話した?」
「うん。お母さんよりお父さんの方が心配してる感じだった。今朝も玄関まで見送ってくれたりして。今までそんなことしたことないのに」
 竹山君は頷いてため息をついた。
「そうだろうな。僕に娘がいて、その子が学校の教師からセクハラなんてされたら…」
 竹山君に娘さんがいたら。玲は思わず想像してしまう。たおやかな美人で学年一の秀才。
「バッサリ袈裟懸けにしちゃう?」
 お母さんが言ったことを思い出して言うと、竹山君は苦笑した。
「もちろん実際にはそこまではできないけど。でも気持ちはそうだろうと思うよ。大宮さんのお父さんだって」
「お父さんがね、竹山君がいてくれてよかったね、って言ってた。『ちゃんとお礼を言った?』って」
 お父さんの口調を真似てみせる。
「当たり前のことをしただけ。お礼を言われるようなことじゃないよ」
「言われるようなことよ。改めて、お助けいただきまして、ありがとうございます」
 崩していた膝をきちんと正してペコリと頭を下げる。
「よしてよ。あいつのこと止められもしなかったのに」
「今日は止めてくれたもの」
 微笑んだら急に恥ずかしくなって、玲は急いで続けた。
「あのね、今ので思い出したの。もう一つ、日本の本で好きなの。北村薫さんの…」
「もしかして、ベッキーさんシリーズ?」
「そう!最近読んだばっかりなの。まだ『街の灯』しか読んでないけど」
「そういえばあったね。ベッキーさんが英子にそう言うところが。桐原大尉からベッキーさんを庇ったあとだったっけ」
「そうそれ!今言って、あれ、どこかで聞いた、と思って、思い出したの」
 竹山君が微笑んだ。
「あのシリーズ…、読んでて、英子と大宮さんがすごく重なったよ」
「えっ。私?」
 とんでもない。あんな素敵なお嬢様じゃない。
「まあ、英子だけじゃなくて、物語のヒロインはみんな大宮さんと重なるんだけど」
 竹山君はそう言ってにこりとして、
「じゃ、先に行くね」
 もう一度ブックホルダーに置いた『モモ』に向かい合った。
「う、うん」
 竹山君が意識を本に集中するのがわかる。じっと顔を見ているのも悪いので(自分だったら見られたくない)、玲も開いてあるページに目をやる。
 頭の中では、たった今竹山君が言ったことを、何度も何度も繰り返していた。
 物語のヒロインはみんな大宮さんと重なるんだけど。
 物語の、
 ヒロインは、
 みんな、
 大宮さんと、
 重なるんだけど。
 それって、それってそれってそれって。
 …それって?
 どういう意味?
 その時、竹山君がふっと消えたので、玲は身体全体でびくっとした。
 もちろん、そうなることは頭では知っていたけれど、すぐ隣に座っている人がいきなりその気配もろとも消えるなんて、ものすごくびっくりする。心臓によくない。
「…びっくりした」
 ひとりになってしまった部屋でつぶやく。
 びっくりしたのは竹山君の発言にもだ。どういう意味?
「私のことを好きってこと?…じゃないよね」
「うーん、そういうわけじゃないけど」
 と答える竹山君の、ちょっと困った笑顔が見えるようだ。
「どうして、そういう、嬉しいけどわかりにくいこと言うかな」
 声に出してつぶやいてみてから、本に向かい合った。
 今はとにかく集中集中。
 190ページ。モモが『どこにもない家』に着いたところだ。章の初めから読んでいく。大好きな場面だ。
 大きな広間。見えないほど高い天井。金色の光の中のたくさんのたくさんの時計。時計の音。オルゴールの音。森の中にいるような心地良いざわめき。
 目を丸くしてあれやこれやを見て回っているモモが見える。マイスター・ホラの声がする。
「『ああ、帰ってきたんだね、カシオペイア!小さなモモはつれて来なかったのかね?』」
 次の瞬間、オルゴールの高い音がぐっとクリアーになり、森のざわめきのような時計たちの音がさらに深みを増した。淡い金色の光。もじゃもじゃのもつれた髪をしたモモの、床につきそうにだらりと下がった、つぎはぎだらけのスカートをはいた後ろ姿。立ち並ぶたくさんの陳列棚。でも竹山君は?
「大宮さん」
 後ろから囁かれてびくっとした。
「ああ、よかった。見つかって」
 玲は胸を撫で下ろした。
「今ね、思い出して、しまった、と思ったの。ここって迷路みたいになってるんじゃなかった?」
 竹山君も苦笑している。
「僕もさっき着いて思い出したんだ。でもほら、ドアはあそこにあるから大丈夫」
 なるほど、金色の柔らかい光の中に、ものすごく場違いな感じに真っ白なドアが二つ立っている。陳列棚に挟まれて窮屈そうだ。
 突然、二人から少し離れたところに立っていたモモが声を上げ、二人のいるところからは棚に遮られて見えない辺りから、低くて柔らかい声が聞こえてきた。
「マイスター・ホラだね」
「うん」
 二人とカシオペイアについて行きたいのはやまやまだけれど、そうすると迷路のようなこの場所で、もしかしてドアが見つからなくなってしまうかもしれない。
「二人が朝ごはん食べてるところから入ればよかったね」
「ほんと。失敗したね。残念」
 言ってから、玲はふと茶目っ気を出して言ってみた。
「モモもヒロインだよね。私と重なる?」 
 もじゃもじゃ頭の小さな女の子。
 竹山君はえっと言って、玲を見つめた後、にこりとした。
「うん、結構重なる」

 結局、ドアを見失わない範囲で少し辺りを見てまわっただけで、二人は現実世界に帰ってきた。滞在時間は十二分。
「ちょっと残念だったね」
「うん、でも、これで同じ本の中に入ったら、時間差があっても向こうで会えるんだってわかったじゃない?」
「そうだね。そうすると、次は、同じ本でも、違う場所にある別々の個体だったらどうかってことだけど…」
 言いながら竹山君が立ち上がって本棚のところへ行く。
「同じ本、どれくらいあるかな」
 玲も立ち上がって竹山君の隣に並んだ。
 天井まである大きな本棚には本がぎっしりだ。英語の本が何冊もあって、玲は憧れの眼差しで眺めた。
 私も読めるようになりたい!頑張らなきゃ。
 同じ本は何冊もあった。
「あ、やっぱりこれなんだ、『はてしない物語』」
 ハードカバーだ。グレイのケースに入った、赤がね色の絹のように見える装丁。
「これはやっぱり文庫本じゃなくてこっちがいいよね」
「ね。手が疲れちゃうけど」
 それを聞いて竹山君が笑う。
「寝転んで読むときだね」
「そうそう」
「目に悪いからやめろって言われない?」
「言われる!でもね、やめられないの。寝る前にベッドで読むの大好きなんだもの」
「僕も同じ。あ、そうだ、これ」
 一冊のペーパーバックを引き出して手渡してくれる。
 "Harry Potter and the Philosopher's Stone"。
「わあ、イギリス版のほうね」
「知ってるんだ。さすが」
「それくらいは。中身も、アメリカ版とスペルが違ったりするんでしょ?MumとMomとか」
「そう。言葉も結構違うんだって。同じ英語なのにね」
「ああ、聞いたことある。puddingsとdessertsとか」
 そっとページを開けてみる。当然のことながら英語だ。
「うわー…」
 思わずつぶやく。
 素敵。なんだかわくわくする。でも読むのにどれだけかかるだろうか。
「本当にいいの?借りちゃって。ものすごーく時間かかると思うけど」
「全然構わないよ。大宮さんならきっと楽しんで読めると思う」
 その言葉が嬉しくて、思わず本を抱きしめた。
「ありがとう。お借りします」
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