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ルソの港からは、カッサ魔法大学まで直通のバスが出ている。カッサも海辺の都市なので、走るのはずっと海沿いの道だ。
汽車の中のソファほどではないけれど、十分ゆったりとした掛け心地のいい淡いクリーム色のソファに身を預け、海を眺めたり、隣に座ったダンに砂漠の地下の植物たちの話を聞いたり、ジャンと二人で作ったいくつかの薬についてダンに説明したりしているうちに、外の景色はやがて都市のそれになってきた。
モダンな都市ではなく、いかにも歴史と伝統があるといった感じの、古めかしく美しい都市だ。石造の建物が多い。大抵ははちみつ色とでもいうのか、ベージュ系の濃淡の石が使われており、いい色だなあと由は思った。灰色の石よりもずっといい。古い書物を連想させる色だ。ロバートの書斎にたくさん積み重なっている古い本たちや巻物たちの色。
やがて、美しく装飾された高い塔やドームが見えてきた。
「ああ、懐かしいわ」
後ろの席で雅代が嘆息する。
「あの大きなドーム、あれが図書館よ」
「ええーすごい、大きい!」
図書館の大好きな結花がはしゃいだ声を上げる。
由の前に座っているロバートが振り向いて、
「あそこのずっと左の方、高い木立の隣にある塔が高等学校の一部だよ。僕がいた頃は、あそこでたまに天文学の授業があった」
「えっ、魔法高等学校に行ったの?」
ダンが声を上げる。
「もしかしてクエンティン・ソーントンを知ってる?」
ロバートが嬉しそうに顔をほころばせた。
「知ってるよ!懐かしいな。クラスは違ったけど、授業でよく一緒になってね、実験でも何度かパートナーになった。大学で一緒だったの?」
「いや、彼はドゥマだったかな。でもその後しばらくマレナロの砂漠に研究に来てたんだ。地下にも一緒に行ったことがあるよ」
「そうだったのか…。今も連絡とってる?」
「いや、数年前に、例のほら、四季の世界に行くって聞いたけど、それきりだ。あそこの夏の国にもそう大きくはないけど砂漠があって、そこのオアシスの洞窟から地下に行く道が発見された云々って報告があったんだけど、そこを調査に行くって」
「へえー。彼も砂漠の魅力に取り憑かれたってわけか」
「学会の方にはなんの調査報告も来てないみたいだから、実際に調査が進んでるのかはわからないけどね。元気にしてるかなあ」
由は混乱してちょっと眉をしかめた。
「四季の世界?」
なんのことだろう。
「そう。あそこの夏の国の砂漠にね、すごくきれいなオアシスがあるんだって。あの世界はあんまり研究とかそういうことが盛んじゃないから、最近まではそこもただの観光地だったんだけど、そこからこっちにきてた留学生が…」
由はびっくりしてダンの説明を遮った。
「それって、つまり別の世界ってことですか?」
ダンが怪訝な顔をする。
「そうだよ。聞いたことなかった?」
ロバートがおやおやと微笑む。
「話したことなかったかな」
「ないよ!」
由は信じられない思いでロバートを見つめた。
「…ここと僕たちの世界の他にも世界があるの?」
「あるよ」
ニコニコとこともなげに言われて、目を丸くしたまま、後ろで雅代と魔法大学の図書館の話をしている結花を振り向く。
「ねえ、ここと僕たちの世界の他にも世界があるって知ってた?!」
結花が由の剣幕にきょとんとして頷く。
「うん。まだ行ったことはないけど」
「……」
新しい知識に呆然となる。
僕たちの世界と、この世界の他にも、もう一つ別の世界がある…。
きっと、地球が他の惑星と一緒に太陽の周りを回ってると初めて知らされた人達も、こんな気持ちだったのではなかろうか。
「うーん、一つのことだけに熱心になると、こういうことになるわけか」
呆然としている由を眺めて、結花が半ば呆れ、半ば感心したように言う。
「ほんっとに二人とも、薬作りの話しかしてなかったのね」
「まあ、他に世界があるなんて知ってても知らなくても、大して何にも影響しないよ」
ダンが慰めるように言う。
「大半の人は、他の世界になんて行かないんだしね。僕だって他の世界に行くのは今日が初めてだ」
「…そうなんですか」
「僕だって大学の時に一度行ったきりだよ」
ここで周りの人たちが一様に立ち上がったり動き出したりしたので、由はハッとして周りを見回した。いつの間にかバスが止まっている。エンジン音や振動がない乗り物というものになかなか慣れることができない。
「さ、行こう。ちょうどいい時間だ」
ロバートも立ち上がった。
バスを降りたところは、広い駐車場だった。車が他にもたくさん停まっている。
こっちの車は、かわいい感じの色が多いんだなあと由は改めて思った。ピンクや水色や黄色やグリーン、オレンジ、薄紫、薄紅色。濃いはっきりした色よりはふんわりしたパステルカラーの方が多く、塗料の質感が向こうの世界と少し違うのか、つやつやしてはいるのだけれど、なんだか色鉛筆か水彩絵の具で描かれた車を見ているようで、絵本の中にいるような気分になる。白だの黒だの紺だのシルバーだのという車はほとんどない。二色だったり、模様が入っていたり、グラデーションだったりするのもある。
「さて、じゃあまずは『扉』へ行こう。えーとどこかに地図はあるかな。こんな駐車場に来たのは初めてだから」
「大丈夫、私わかるわ。すぐ近くよ」
雅代がさっさと先頭に立って歩き出す。
「私はいつも今日と同じようにバスで来てたから」
駐車場を出ると、広い石畳の道だ。十分に車がすれ違えるほどの幅があるけれど、車が通ることがあるのかはわからない。人々は道の端を歩いたりなんかせずに、みんな道いっぱいに広がって歩いている。両脇にはよく手入れされた花壇があったり木が植わっていたりして、緑が多くてとてもきれいだ。
「いつも、って、よく来てたの?」
訊ねる由を雅代がにこりと見下ろす。
「随分前だけどね。『扉』の研究をしてた頃は何度も来たわ」
ジャンに聞いた話を思い出して、由は改めて尊敬の気持ちを込めて雅代を見上げた。
「あのいつも使ってる絵、伯母さんが制作したんでしょ。知らなかったよ」
雅代はうふふと笑い、
「誰から聞いたの」
「ジャンから。あの事故の夜に」
「そうだったの…」
「ドゥマで最優等の卒業制作だったんでしょ。すごいね」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
雅代が目をくるりと回しておどけた顔をしてみせる。
由はふふっと笑った。雅代伯母さんは、実は結構照れ屋だ。
「あの絵を描くために、というか作るために、ここに『扉』を見にきてたの?」
「まあ、その研究の一環としてだわね。『扉』はドゥマにもあるわけだから。もう亡くなってしまったけれど、『扉』の研究で有名な人がここにいたの。その人と話をしに来てたのよ」
「へええ…」
さっきの話をふと思い出しニヤリとする。
「その人に会いに来るのに、港のバスが時刻前に発車したせいで遅刻したんだね」
「そうなのよ!」
雅代が叫びとも呻きともつかない声を上げた。
「あんな思いは二度と二度としたくないわね。あれ以来、いつも十二分に時間をとって行動するように心がけるようになったわ。あの頃は…、若かったし、なんて言ったら言い訳になっちゃうけど、でも生意気な小娘で、ヨーロッパで過ごした後だったのもあって、『日本人の五分前行動』なんてものを馬鹿にしてたのよ、くだらないって。日本人はカチカチすぎる、ちょっと遅れるくらいでちょうどいいんだ、なんて思って生活していたから、その癖がついてしまってたのね。習性になってしまうと、いざ大切な約束があるって時にもそうやって失敗してしまうものよ。だから、由ちゃんも、いつも五分前行動を心がけなさい。時間をきちんと守るのは、ダサくなんかない。とっても大切なことだからね」
思わぬお説教をされてしまった。ここは神妙に頷いておく。
「了解。ねえ、どうしてあの絵を制作しようと思ったの?」
「それは『扉』の研究をしてたからだわね。研究をしてるうちに、『もしかしたらできるんじゃないか』と思って取り組んだのよ」
「じゃ、『扉』の研究をしようと思ったのはどうして?」
「そりゃすごく興味のあることだったもの。だって、世界と世界をつなぐドアよ?どうしてそんなことが可能なんだろう、どういう仕組みなんだろう、そんなことがどうして始まったんだろう、って思わない?」
由は熱心に頷いた。
「思うよ」
雅代は楽しそうに視線を宙に上げた。
「興味のあることを学んだり、追究したりするのって、ほんとに楽しいわよね。あんな充実した楽しい日々はなかったわ。寝食を忘れて、っていうけど、本当に眠るのも食事をするのもしょっちゅう忘れた。由ちゃんとジャンだって、そういう経験あるんじゃない?実験で何かうまくいかないことがあると、どうしてうまくいかないんだろう、あれをこうしたらどうだろう、それともあれとあれをこうして…って、一心に考える。そうだ、こうしたらいいんだ!なんて閃いちゃうと、もう気持ちが天まで舞い上がって、何をおいても研究室にかけ戻りたくなっちゃう、ああいう感じ」
由はぶんぶんと首を縦に振った。
「すっごくよくわかるよ」
いくつもの輝かしい瞬間に心が引き戻される。あの高揚感。あの興奮。向こうの世界に戻っている時に閃いてしまったりすると、ジャンに報告したくて、もういても立ってもいられなくて、足がむずむずして走り出しそうになった。どんなに向こうとこっちをダイレクトにつなぐ電話があればいいのにと思ったことか。
「あ、ほら、見えてきた。あの建物がそうよ」
ゆるくカーブした道を曲がった右前方に、はちみつ色の大きな円形の建物が見えてきた。六、七階建てくらいの高さだろうか。天辺はドーム型で、周りに美しい装飾の施された何本かの小さな塔のようなものが立ちあがっているのが、まるで王冠のように見える。
「わあ…。ね、ちょっとあの建物みたい、あの丸いの」
背後で結花が言う。由も頷いて振り向く。
「あの絵葉書のでしょ」
「そうそう!えーと、あれだ、オックスフォードの、ラドクリフカメラ!」
「それそれ!」
懐かしい思いで雅代を見上げる。
「小さい時さ、伯母さんがいろんなとこから絵葉書送ってくれたじゃない。僕も結花も、ラドクリフカメラのがすごく気に入って、中はどんなふうなんだろうとか、色々想像して遊んでたんだよ」
「そうだったの」
雅代がにこにこする。
「そうね、確かにちょっと似てるわね」
「ここって、円形の建物が多いの?さっきの図書館も円形」
「多いってわけでもないけど、いくつかあるんじゃないかしら」
『扉』の建物のぐるりは、庭園になっていた。芝生の中を縦横に小道が走り、あちこちに花壇や彫刻や、面白い形に刈り込まれた木が立っている。
「手に鋏のくっついた人がやったのかな」
由が言って、結花と雅代がくすくす笑い、ロバートとダンが怪訝な顔をした。
「手に鋏がくっついてる?」
「この前ね、そういう映画を観たの」
笑いながら結花が説明する。
「古い映画。お母さんが昔好きだったって言うから一緒に観たんだけど。発明家が人造人間みたいのを作ってね、その手がうんと長い鋏の刃みたいになってるの。元々が野菜とかを刻んだりする機械だったから。発明家がちゃんとした手を作ってくっつけてあげようとしてたところで、発作か何かを起こして死んじゃうのよね。で、人造人間は両手が鋏になったまま残された。その人造人間と普通の人間の女の子のちょっとした悲しい恋物語。お母さんだけうるうるしてて、私たちはなんだかおっかしくて笑っちゃって、でもお母さんの気を悪くしたくないから抑えるのに苦労したの」
「その人造人間がね、その鋏のくっついた手を使って、庭の木をいろんな形に刈り込むんだ。それみたいだなって思って」
「悲しい恋物語なんだろ?なんでおかしかったの?」
ダンが知りたがる。
「だって、クサすぎるんだもん」
「Hold me」
「I can't」
結花と由が悲しいはずのシーンを演じて笑いこけたのを、雅代が苦笑しながら解説した。
「抱きしめたいけど、手が鋏だから、彼女を傷つけてしまうからできないってシーンがあるのよ。まあ、小説だったらいいシーンだったかもしれないけどね。あの映画は私もあまり好きじゃないのよ。笑ってしまう気持ちはわかるわ」
「なるほどね。そっちの世界は映画がものすごくたくさんあるって聞いたよ」
と、ダン。
「ええ、ものすごーくたくさんあるわ」
「こっちの世界は、あんまりないんですか?映画」
訊きながら由は、僕ってほんとにこっちの世界のことを知らないんだなあと改めて思った。二年半も過ごしたのに。
「ないね。僕も一度だけしか観たことがない。大学の——魔法大学じゃなくて普通の大学の、同好会のようなものが作ったっていうのをね。なんだかそういうののコンクールがあって、僕の知り合いの子供が同好会のメンバーで、是非一緒に観て欲しいって言われて。まあまあ面白かったよ。冒険物語だった」
そういえば、と由は今更気がついた。
エレインの家にはテレビなんてものはない。もしかして、こっちの世界って、テレビもないんじゃ…。
「そっちでは、映画を作る職業があるんだろう?その知り合いの子供っていうのが、色々話してくれたよ。近いうちに是非そっちの世界に行って、映画をたくさん観てみたい、って言ってた。でもまずは旅費を稼がなきゃ、って」
「旅費?」
「マレナロに住んでる子だからね。『扉』はカッサとドゥマにしかないから」
一同、建物の大きなドアに向かう数段のゆるい石段を上がる。由はふと思いついて尋ねた。
「『扉』を通るのには?料金がかかるの?」
「いやいやまさか」
ロバートが笑って首を振る。
五人の前で、重厚な木のドアがぎぎいと…ではなく、すうっと音もなく横に滑って開いた。しかも戸袋の中に入っていったとか、壁の向こう側に滑っていったとかではない。まるで実体のないもののように、壁の中に吸い込まれたのだ。ダンと由と結花が驚いたように息を呑んで、ドアの動きを目で追った。
「…へえ、面白いな」
「どうなってんのこれ」
「すごーい!」
ロバートと雅代はにこにこしてそんな三人を見ている。
「次に通るドアもそうよ」
戸口を通り抜けると、そこはゆったりとカーブした明るくて広い廊下で、結構人通りがあった。高い天井に人々の足音や話し声が反響して、なにか華やかな感じだ。
「P市への『扉』の部屋はどっちかな」
「円形だから、どっちに歩いても着くわ。とりあえずこっちに行ってみましょ」
一行は右側に向かって歩き出した。左手には、かなり広い間隔をあけて、重たそうな大きな木のドアが一つ、また一つ、と並んでいる。それらをチェックしながら歩く。
最初のドアは波のような模様が彫刻されてあり、深いブルーの石が嵌め込まれた下に「B市」と華やかに渦巻く字体で刻まれていた。
「B市って、アメリカの?」
「そうよ」
次のドアは…と段々近づいてくるドアに目を凝らしていたら、近くに来た時にちょうど廊下の向こうからやってきた人がドアに近づき、ドアが開いたので——雅代が言った通り、本当にまた壁の中に音もなく吸い込まれていった——、よく見ることができなかったけれど、雅代は気にすることなくさっさと通り過ぎた。
その次のドアには色々な花が彫刻されており、華やかなピンク色の石が嵌め込まれていた。その下には「春」。
「…春?あ、もしかして」
「そう、さっき話してた四季の世界の中の春の国だね」
ロバートが言う。
その次のドアは…
「あれ?これも『春』」
「向こうの世界に行く人たちのための部屋と、向こうの世界から帰ってくる人たちのための部屋と、二つあるのよ」
「へえー、空港みたい。到着ロビーと出発ロビー」
さて、次の部屋は…
「P市!」
山脈のような彫刻がしてある。嵌め込んであるのは水色の石だ。
「使うのは隣の部屋よ」
「あ、ほんとだ。outだって」
隣の、「P市」の下にinと刻んであるドアの前に一行が立つと、ドアがすうっと横に滑って壁に吸い込まれていった。
いよいよだ。
由の喉がこくりと鳴った。
そこは、心地よい明るさの、天井の高い部屋だった。大きさは学校の体育館の半分より少し小さいくらいだろうか。天井と壁は何やらぼうっと光って見える半透明のガラスのようなもので——光っているのはもしかしたら外の陽の光かもしれない——、床はつやつやした淡い水色の大理石のような石だ。あちこちに床と同じような淡い水色のソファや、ブナ材のような明るい木材を使った洒落た机と椅子、そして爽やかなサップグリーンの葉を揺らしている木の植わった大きな白い植木鉢が置かれている。そして、奥の方に大きな扉。
人はまばらで、ソファでくつろいでいる人たちもいれば、机に向かって何かを書いている人たちもいる。
部屋の隅の方には、やはり明るい木材を使った大きなインフォメーションデスクがあり、淡い水色の制服を着た男の人と女の人がカウンターの向こうに座っていた。
一行は雅代とロバートに導かれ、まずインフォメーションデスクに向かった。係の女の人は一人の老婦人の相手をしている。水色の制服と帽子を身につけた男の人が、一行に微笑みかけた。
「ようこそ」
「こんにちは。ええと、五人でP市へ行きたいのですが」
「では、この用紙に記入をお願いいたします。魔法を持たない方は?」
「いません」
由は用紙を覗きこんだ。薄い水色にグレイの罫線が入った少し厚手の紙。プリントしてあることはこれだけだ。
「『扉』を通る人の氏名をお書きください。また、行き先や滞在日数、緊急時の連絡先など、なんでも自由にお書きください。」
向こうの世界とだいぶ違う。
近くの机に移動し、置いてあったペンでそれぞれが自分の名前を記入した。ペンはつけペンで、そんなものを使うのは初めてだった由はちょっと緊張したけれど、思ったよりもずっと書きやすくてびっくりした。なんだか書いていて気分がいいし、気のせいか、黒いインクで書いた自分の名前がいつもより格好良く見える。中学入学のお祝いに、大叔父さんと大叔母さんから贈られた万年筆を思い出す。学校には持っていけないし、実用的じゃないよな…と思って、箱から出しもせずに机の引き出しの奥深くにしまったままになっていたけれど、使ってみようかな…。
最後にロバートがもう一度机の前に座って、緊急時の連絡先、と書いて、エレインの名前とリース家の電話番号と住所を書いた。ダンを見る。
「書くかい?」
「僕はいいよ」
ダンがちょっと笑って肩をすくめる。雅代が由と結花を見た。
「もし何かあったら、エレインが恵美ちゃんに手紙を出してくれることになってるから」
結花と一緒に頷いた由の頭の中に、一瞬のうちに、さまざまなシーンが映し出された。
フランスで事故。パスポートなし。身元不明の邦人らしき三人。日本大使館。別世界からの手紙。ひっくり返るお母さん…。
ロバートがインフォメーションデスクに行って戻ってきた。
「じゃ、行こうか。今なら列はそう長くないそうだよ」
由は部屋の奥にある大きな木の扉を見た。
誰も並んでなんかいない。
「列なんかないじゃない」
雅代が笑う。
「あれは『扉』じゃなくてただのドアよ。あのドアの向こうに、『扉』のある部屋があるの」
「なんだ」
さっきから、あのドアを見てドキドキしていたのに。なんだかドアに笑われているような気がしてしまう。
近づくと、このドアは壁の中に吸い込まれる代わりに、ふわりとまるで重さのないもののように向こう側に開いた。
こんなに重そうな分厚い扉なのに、なんでこんなふうに動くんだろう。
通り過ぎる時、さりげなく手を出して指先でちょんと触ってみたら、ちゃんと硬い木の感触だった。
「わあ…」
すぐ前にいた結花が小さく声を上げて前方を見上げる。
そこに、大きな大きな木があった。
汽車の中のソファほどではないけれど、十分ゆったりとした掛け心地のいい淡いクリーム色のソファに身を預け、海を眺めたり、隣に座ったダンに砂漠の地下の植物たちの話を聞いたり、ジャンと二人で作ったいくつかの薬についてダンに説明したりしているうちに、外の景色はやがて都市のそれになってきた。
モダンな都市ではなく、いかにも歴史と伝統があるといった感じの、古めかしく美しい都市だ。石造の建物が多い。大抵ははちみつ色とでもいうのか、ベージュ系の濃淡の石が使われており、いい色だなあと由は思った。灰色の石よりもずっといい。古い書物を連想させる色だ。ロバートの書斎にたくさん積み重なっている古い本たちや巻物たちの色。
やがて、美しく装飾された高い塔やドームが見えてきた。
「ああ、懐かしいわ」
後ろの席で雅代が嘆息する。
「あの大きなドーム、あれが図書館よ」
「ええーすごい、大きい!」
図書館の大好きな結花がはしゃいだ声を上げる。
由の前に座っているロバートが振り向いて、
「あそこのずっと左の方、高い木立の隣にある塔が高等学校の一部だよ。僕がいた頃は、あそこでたまに天文学の授業があった」
「えっ、魔法高等学校に行ったの?」
ダンが声を上げる。
「もしかしてクエンティン・ソーントンを知ってる?」
ロバートが嬉しそうに顔をほころばせた。
「知ってるよ!懐かしいな。クラスは違ったけど、授業でよく一緒になってね、実験でも何度かパートナーになった。大学で一緒だったの?」
「いや、彼はドゥマだったかな。でもその後しばらくマレナロの砂漠に研究に来てたんだ。地下にも一緒に行ったことがあるよ」
「そうだったのか…。今も連絡とってる?」
「いや、数年前に、例のほら、四季の世界に行くって聞いたけど、それきりだ。あそこの夏の国にもそう大きくはないけど砂漠があって、そこのオアシスの洞窟から地下に行く道が発見された云々って報告があったんだけど、そこを調査に行くって」
「へえー。彼も砂漠の魅力に取り憑かれたってわけか」
「学会の方にはなんの調査報告も来てないみたいだから、実際に調査が進んでるのかはわからないけどね。元気にしてるかなあ」
由は混乱してちょっと眉をしかめた。
「四季の世界?」
なんのことだろう。
「そう。あそこの夏の国の砂漠にね、すごくきれいなオアシスがあるんだって。あの世界はあんまり研究とかそういうことが盛んじゃないから、最近まではそこもただの観光地だったんだけど、そこからこっちにきてた留学生が…」
由はびっくりしてダンの説明を遮った。
「それって、つまり別の世界ってことですか?」
ダンが怪訝な顔をする。
「そうだよ。聞いたことなかった?」
ロバートがおやおやと微笑む。
「話したことなかったかな」
「ないよ!」
由は信じられない思いでロバートを見つめた。
「…ここと僕たちの世界の他にも世界があるの?」
「あるよ」
ニコニコとこともなげに言われて、目を丸くしたまま、後ろで雅代と魔法大学の図書館の話をしている結花を振り向く。
「ねえ、ここと僕たちの世界の他にも世界があるって知ってた?!」
結花が由の剣幕にきょとんとして頷く。
「うん。まだ行ったことはないけど」
「……」
新しい知識に呆然となる。
僕たちの世界と、この世界の他にも、もう一つ別の世界がある…。
きっと、地球が他の惑星と一緒に太陽の周りを回ってると初めて知らされた人達も、こんな気持ちだったのではなかろうか。
「うーん、一つのことだけに熱心になると、こういうことになるわけか」
呆然としている由を眺めて、結花が半ば呆れ、半ば感心したように言う。
「ほんっとに二人とも、薬作りの話しかしてなかったのね」
「まあ、他に世界があるなんて知ってても知らなくても、大して何にも影響しないよ」
ダンが慰めるように言う。
「大半の人は、他の世界になんて行かないんだしね。僕だって他の世界に行くのは今日が初めてだ」
「…そうなんですか」
「僕だって大学の時に一度行ったきりだよ」
ここで周りの人たちが一様に立ち上がったり動き出したりしたので、由はハッとして周りを見回した。いつの間にかバスが止まっている。エンジン音や振動がない乗り物というものになかなか慣れることができない。
「さ、行こう。ちょうどいい時間だ」
ロバートも立ち上がった。
バスを降りたところは、広い駐車場だった。車が他にもたくさん停まっている。
こっちの車は、かわいい感じの色が多いんだなあと由は改めて思った。ピンクや水色や黄色やグリーン、オレンジ、薄紫、薄紅色。濃いはっきりした色よりはふんわりしたパステルカラーの方が多く、塗料の質感が向こうの世界と少し違うのか、つやつやしてはいるのだけれど、なんだか色鉛筆か水彩絵の具で描かれた車を見ているようで、絵本の中にいるような気分になる。白だの黒だの紺だのシルバーだのという車はほとんどない。二色だったり、模様が入っていたり、グラデーションだったりするのもある。
「さて、じゃあまずは『扉』へ行こう。えーとどこかに地図はあるかな。こんな駐車場に来たのは初めてだから」
「大丈夫、私わかるわ。すぐ近くよ」
雅代がさっさと先頭に立って歩き出す。
「私はいつも今日と同じようにバスで来てたから」
駐車場を出ると、広い石畳の道だ。十分に車がすれ違えるほどの幅があるけれど、車が通ることがあるのかはわからない。人々は道の端を歩いたりなんかせずに、みんな道いっぱいに広がって歩いている。両脇にはよく手入れされた花壇があったり木が植わっていたりして、緑が多くてとてもきれいだ。
「いつも、って、よく来てたの?」
訊ねる由を雅代がにこりと見下ろす。
「随分前だけどね。『扉』の研究をしてた頃は何度も来たわ」
ジャンに聞いた話を思い出して、由は改めて尊敬の気持ちを込めて雅代を見上げた。
「あのいつも使ってる絵、伯母さんが制作したんでしょ。知らなかったよ」
雅代はうふふと笑い、
「誰から聞いたの」
「ジャンから。あの事故の夜に」
「そうだったの…」
「ドゥマで最優等の卒業制作だったんでしょ。すごいね」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
雅代が目をくるりと回しておどけた顔をしてみせる。
由はふふっと笑った。雅代伯母さんは、実は結構照れ屋だ。
「あの絵を描くために、というか作るために、ここに『扉』を見にきてたの?」
「まあ、その研究の一環としてだわね。『扉』はドゥマにもあるわけだから。もう亡くなってしまったけれど、『扉』の研究で有名な人がここにいたの。その人と話をしに来てたのよ」
「へええ…」
さっきの話をふと思い出しニヤリとする。
「その人に会いに来るのに、港のバスが時刻前に発車したせいで遅刻したんだね」
「そうなのよ!」
雅代が叫びとも呻きともつかない声を上げた。
「あんな思いは二度と二度としたくないわね。あれ以来、いつも十二分に時間をとって行動するように心がけるようになったわ。あの頃は…、若かったし、なんて言ったら言い訳になっちゃうけど、でも生意気な小娘で、ヨーロッパで過ごした後だったのもあって、『日本人の五分前行動』なんてものを馬鹿にしてたのよ、くだらないって。日本人はカチカチすぎる、ちょっと遅れるくらいでちょうどいいんだ、なんて思って生活していたから、その癖がついてしまってたのね。習性になってしまうと、いざ大切な約束があるって時にもそうやって失敗してしまうものよ。だから、由ちゃんも、いつも五分前行動を心がけなさい。時間をきちんと守るのは、ダサくなんかない。とっても大切なことだからね」
思わぬお説教をされてしまった。ここは神妙に頷いておく。
「了解。ねえ、どうしてあの絵を制作しようと思ったの?」
「それは『扉』の研究をしてたからだわね。研究をしてるうちに、『もしかしたらできるんじゃないか』と思って取り組んだのよ」
「じゃ、『扉』の研究をしようと思ったのはどうして?」
「そりゃすごく興味のあることだったもの。だって、世界と世界をつなぐドアよ?どうしてそんなことが可能なんだろう、どういう仕組みなんだろう、そんなことがどうして始まったんだろう、って思わない?」
由は熱心に頷いた。
「思うよ」
雅代は楽しそうに視線を宙に上げた。
「興味のあることを学んだり、追究したりするのって、ほんとに楽しいわよね。あんな充実した楽しい日々はなかったわ。寝食を忘れて、っていうけど、本当に眠るのも食事をするのもしょっちゅう忘れた。由ちゃんとジャンだって、そういう経験あるんじゃない?実験で何かうまくいかないことがあると、どうしてうまくいかないんだろう、あれをこうしたらどうだろう、それともあれとあれをこうして…って、一心に考える。そうだ、こうしたらいいんだ!なんて閃いちゃうと、もう気持ちが天まで舞い上がって、何をおいても研究室にかけ戻りたくなっちゃう、ああいう感じ」
由はぶんぶんと首を縦に振った。
「すっごくよくわかるよ」
いくつもの輝かしい瞬間に心が引き戻される。あの高揚感。あの興奮。向こうの世界に戻っている時に閃いてしまったりすると、ジャンに報告したくて、もういても立ってもいられなくて、足がむずむずして走り出しそうになった。どんなに向こうとこっちをダイレクトにつなぐ電話があればいいのにと思ったことか。
「あ、ほら、見えてきた。あの建物がそうよ」
ゆるくカーブした道を曲がった右前方に、はちみつ色の大きな円形の建物が見えてきた。六、七階建てくらいの高さだろうか。天辺はドーム型で、周りに美しい装飾の施された何本かの小さな塔のようなものが立ちあがっているのが、まるで王冠のように見える。
「わあ…。ね、ちょっとあの建物みたい、あの丸いの」
背後で結花が言う。由も頷いて振り向く。
「あの絵葉書のでしょ」
「そうそう!えーと、あれだ、オックスフォードの、ラドクリフカメラ!」
「それそれ!」
懐かしい思いで雅代を見上げる。
「小さい時さ、伯母さんがいろんなとこから絵葉書送ってくれたじゃない。僕も結花も、ラドクリフカメラのがすごく気に入って、中はどんなふうなんだろうとか、色々想像して遊んでたんだよ」
「そうだったの」
雅代がにこにこする。
「そうね、確かにちょっと似てるわね」
「ここって、円形の建物が多いの?さっきの図書館も円形」
「多いってわけでもないけど、いくつかあるんじゃないかしら」
『扉』の建物のぐるりは、庭園になっていた。芝生の中を縦横に小道が走り、あちこちに花壇や彫刻や、面白い形に刈り込まれた木が立っている。
「手に鋏のくっついた人がやったのかな」
由が言って、結花と雅代がくすくす笑い、ロバートとダンが怪訝な顔をした。
「手に鋏がくっついてる?」
「この前ね、そういう映画を観たの」
笑いながら結花が説明する。
「古い映画。お母さんが昔好きだったって言うから一緒に観たんだけど。発明家が人造人間みたいのを作ってね、その手がうんと長い鋏の刃みたいになってるの。元々が野菜とかを刻んだりする機械だったから。発明家がちゃんとした手を作ってくっつけてあげようとしてたところで、発作か何かを起こして死んじゃうのよね。で、人造人間は両手が鋏になったまま残された。その人造人間と普通の人間の女の子のちょっとした悲しい恋物語。お母さんだけうるうるしてて、私たちはなんだかおっかしくて笑っちゃって、でもお母さんの気を悪くしたくないから抑えるのに苦労したの」
「その人造人間がね、その鋏のくっついた手を使って、庭の木をいろんな形に刈り込むんだ。それみたいだなって思って」
「悲しい恋物語なんだろ?なんでおかしかったの?」
ダンが知りたがる。
「だって、クサすぎるんだもん」
「Hold me」
「I can't」
結花と由が悲しいはずのシーンを演じて笑いこけたのを、雅代が苦笑しながら解説した。
「抱きしめたいけど、手が鋏だから、彼女を傷つけてしまうからできないってシーンがあるのよ。まあ、小説だったらいいシーンだったかもしれないけどね。あの映画は私もあまり好きじゃないのよ。笑ってしまう気持ちはわかるわ」
「なるほどね。そっちの世界は映画がものすごくたくさんあるって聞いたよ」
と、ダン。
「ええ、ものすごーくたくさんあるわ」
「こっちの世界は、あんまりないんですか?映画」
訊きながら由は、僕ってほんとにこっちの世界のことを知らないんだなあと改めて思った。二年半も過ごしたのに。
「ないね。僕も一度だけしか観たことがない。大学の——魔法大学じゃなくて普通の大学の、同好会のようなものが作ったっていうのをね。なんだかそういうののコンクールがあって、僕の知り合いの子供が同好会のメンバーで、是非一緒に観て欲しいって言われて。まあまあ面白かったよ。冒険物語だった」
そういえば、と由は今更気がついた。
エレインの家にはテレビなんてものはない。もしかして、こっちの世界って、テレビもないんじゃ…。
「そっちでは、映画を作る職業があるんだろう?その知り合いの子供っていうのが、色々話してくれたよ。近いうちに是非そっちの世界に行って、映画をたくさん観てみたい、って言ってた。でもまずは旅費を稼がなきゃ、って」
「旅費?」
「マレナロに住んでる子だからね。『扉』はカッサとドゥマにしかないから」
一同、建物の大きなドアに向かう数段のゆるい石段を上がる。由はふと思いついて尋ねた。
「『扉』を通るのには?料金がかかるの?」
「いやいやまさか」
ロバートが笑って首を振る。
五人の前で、重厚な木のドアがぎぎいと…ではなく、すうっと音もなく横に滑って開いた。しかも戸袋の中に入っていったとか、壁の向こう側に滑っていったとかではない。まるで実体のないもののように、壁の中に吸い込まれたのだ。ダンと由と結花が驚いたように息を呑んで、ドアの動きを目で追った。
「…へえ、面白いな」
「どうなってんのこれ」
「すごーい!」
ロバートと雅代はにこにこしてそんな三人を見ている。
「次に通るドアもそうよ」
戸口を通り抜けると、そこはゆったりとカーブした明るくて広い廊下で、結構人通りがあった。高い天井に人々の足音や話し声が反響して、なにか華やかな感じだ。
「P市への『扉』の部屋はどっちかな」
「円形だから、どっちに歩いても着くわ。とりあえずこっちに行ってみましょ」
一行は右側に向かって歩き出した。左手には、かなり広い間隔をあけて、重たそうな大きな木のドアが一つ、また一つ、と並んでいる。それらをチェックしながら歩く。
最初のドアは波のような模様が彫刻されてあり、深いブルーの石が嵌め込まれた下に「B市」と華やかに渦巻く字体で刻まれていた。
「B市って、アメリカの?」
「そうよ」
次のドアは…と段々近づいてくるドアに目を凝らしていたら、近くに来た時にちょうど廊下の向こうからやってきた人がドアに近づき、ドアが開いたので——雅代が言った通り、本当にまた壁の中に音もなく吸い込まれていった——、よく見ることができなかったけれど、雅代は気にすることなくさっさと通り過ぎた。
その次のドアには色々な花が彫刻されており、華やかなピンク色の石が嵌め込まれていた。その下には「春」。
「…春?あ、もしかして」
「そう、さっき話してた四季の世界の中の春の国だね」
ロバートが言う。
その次のドアは…
「あれ?これも『春』」
「向こうの世界に行く人たちのための部屋と、向こうの世界から帰ってくる人たちのための部屋と、二つあるのよ」
「へえー、空港みたい。到着ロビーと出発ロビー」
さて、次の部屋は…
「P市!」
山脈のような彫刻がしてある。嵌め込んであるのは水色の石だ。
「使うのは隣の部屋よ」
「あ、ほんとだ。outだって」
隣の、「P市」の下にinと刻んであるドアの前に一行が立つと、ドアがすうっと横に滑って壁に吸い込まれていった。
いよいよだ。
由の喉がこくりと鳴った。
そこは、心地よい明るさの、天井の高い部屋だった。大きさは学校の体育館の半分より少し小さいくらいだろうか。天井と壁は何やらぼうっと光って見える半透明のガラスのようなもので——光っているのはもしかしたら外の陽の光かもしれない——、床はつやつやした淡い水色の大理石のような石だ。あちこちに床と同じような淡い水色のソファや、ブナ材のような明るい木材を使った洒落た机と椅子、そして爽やかなサップグリーンの葉を揺らしている木の植わった大きな白い植木鉢が置かれている。そして、奥の方に大きな扉。
人はまばらで、ソファでくつろいでいる人たちもいれば、机に向かって何かを書いている人たちもいる。
部屋の隅の方には、やはり明るい木材を使った大きなインフォメーションデスクがあり、淡い水色の制服を着た男の人と女の人がカウンターの向こうに座っていた。
一行は雅代とロバートに導かれ、まずインフォメーションデスクに向かった。係の女の人は一人の老婦人の相手をしている。水色の制服と帽子を身につけた男の人が、一行に微笑みかけた。
「ようこそ」
「こんにちは。ええと、五人でP市へ行きたいのですが」
「では、この用紙に記入をお願いいたします。魔法を持たない方は?」
「いません」
由は用紙を覗きこんだ。薄い水色にグレイの罫線が入った少し厚手の紙。プリントしてあることはこれだけだ。
「『扉』を通る人の氏名をお書きください。また、行き先や滞在日数、緊急時の連絡先など、なんでも自由にお書きください。」
向こうの世界とだいぶ違う。
近くの机に移動し、置いてあったペンでそれぞれが自分の名前を記入した。ペンはつけペンで、そんなものを使うのは初めてだった由はちょっと緊張したけれど、思ったよりもずっと書きやすくてびっくりした。なんだか書いていて気分がいいし、気のせいか、黒いインクで書いた自分の名前がいつもより格好良く見える。中学入学のお祝いに、大叔父さんと大叔母さんから贈られた万年筆を思い出す。学校には持っていけないし、実用的じゃないよな…と思って、箱から出しもせずに机の引き出しの奥深くにしまったままになっていたけれど、使ってみようかな…。
最後にロバートがもう一度机の前に座って、緊急時の連絡先、と書いて、エレインの名前とリース家の電話番号と住所を書いた。ダンを見る。
「書くかい?」
「僕はいいよ」
ダンがちょっと笑って肩をすくめる。雅代が由と結花を見た。
「もし何かあったら、エレインが恵美ちゃんに手紙を出してくれることになってるから」
結花と一緒に頷いた由の頭の中に、一瞬のうちに、さまざまなシーンが映し出された。
フランスで事故。パスポートなし。身元不明の邦人らしき三人。日本大使館。別世界からの手紙。ひっくり返るお母さん…。
ロバートがインフォメーションデスクに行って戻ってきた。
「じゃ、行こうか。今なら列はそう長くないそうだよ」
由は部屋の奥にある大きな木の扉を見た。
誰も並んでなんかいない。
「列なんかないじゃない」
雅代が笑う。
「あれは『扉』じゃなくてただのドアよ。あのドアの向こうに、『扉』のある部屋があるの」
「なんだ」
さっきから、あのドアを見てドキドキしていたのに。なんだかドアに笑われているような気がしてしまう。
近づくと、このドアは壁の中に吸い込まれる代わりに、ふわりとまるで重さのないもののように向こう側に開いた。
こんなに重そうな分厚い扉なのに、なんでこんなふうに動くんだろう。
通り過ぎる時、さりげなく手を出して指先でちょんと触ってみたら、ちゃんと硬い木の感触だった。
「わあ…」
すぐ前にいた結花が小さく声を上げて前方を見上げる。
そこに、大きな大きな木があった。
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