【本編完結】海辺の街のリバイアサン ~わたせなかったプロポーズリングの行方~

礼(ゆき)

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第四章 人魚姫

25.

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 ロビンと同じ黒い髪に濃い紫の瞳。見紛うとこない、この屋敷の持ち主。
 ソニアの雇い主たるシーザー・グレミリオンがあらわれた。

 タイラーの頭は真っ白になる。
 気まずそうに手元の果実をくるくる回すシーザーが、眉を歪めて苦笑いする。

 タイラーとシーザーの視線が交差する間にソニアが立ちはだかった。

「タイラーは悪くないわ」

 真っ先にタイラーをかばうソニア。
 小さな体を震わせて、雇い主に歯向かう背を見上げるタイラーは、衝撃しょうげきのあまり初動が遅れ、愕然とした。

 ソニアが悪いわけがない。
 モーションをかけたのはタイラーである。

 少女に守られるだけでは男がすたる。
 タイラーは意を決し、立ち上がった。

 いつもの穏やかさを保っているシーザーは怒る素振りもなく、ただただ、困惑しているだけに見えた。

 このような場合、激昂しない、いつも通りの態度の方が恐ろしい。
 全身から汗が噴き出してきた。膝も微かに震える。

 立ちあがったものの勝算はない。斜め読みする小説の一ページ分ほど言い訳が頭の中を流れていった。
 無駄だと叫ぶ声が心底から脳天に突き上げる。
 このような場では、言い訳をすればするほど信頼を壊し、立場を悪くするはずだ。

 喉が締められ、呼吸が苦しくなる。

 シーザーはソニアの雇い主だ。かつ、彼女を保護した男なのだ。
 だとしたら、彼の立ち位置は、ある意味、父親のような立ち位置ととらえられないかとタイラーは思い至る。

「ご容赦ください!」

 タイラーは陳謝とともに、体を直角に曲げるほどの最敬礼を示した。
 横に立つソニアが、心配そうにタイラーの腕をさする。

 悲しそうな顔でソニアはシーザーを見つめ、薄く唇を食む。
 そんなソニアの顔を見て、シーザーもまた苦しそうに微笑みかける。

 頭を下げたタイラーに二人の顔は見えない。

 表情だけで互いの気持ちを確認し合うソニアとシーザー。意味ありげに数秒見つめ合っていた。
 耐えきれなくてか、ソニアから目を逸らしたシーザーが果実をぎゅっと握りしめる。潰れそうなほど果実が軋む。

「僕に謝られてもね……」

 呟きはタイラーの耳には届かなかった。もちろん、ソニアの耳にも……。

「シーザー。タイラーは悪くないの。分かるでしょ、彼はちゃんとした人よ」

 ソニアのよく通る声が食堂に響く。

 普段は旦那様と呼ぶソニアが、シーザーを呼び捨てにしたことが引っかかり、タイラーは混乱する。

 彼女とシーザーの関係は、雇い主と使用人で本当に間違いないのかと疑念がわく。それは今まで、考えもしなかった方向へとタイラーの思考を飛ばした。

(まさか……)

 目を見開いても、顔をあげれず、最敬礼の姿勢のまま凍り付く。

 見透かすようにシーザーが冷ややかにタイラーの後頭部に向け、言い放った。

「彼女は僕の情婦だ。そうは考えなかったのかな、タイラー」

 タイラーの脳天に雷を落すような一言。
 ざざっとタイラーは一気に青ざめる。

 ソニアとシーザーの関係は今まで微塵も疑っていなかった。
 しかし、よく考えて見れば、ここは街の喧騒から離れた別荘地だ。

 女の子一人雇う役割が、妹のお世話一つとは限らない。
 むしろ、海辺の街の特徴からすれば、人知れず女を囲いやすい立地である。
 住み込みはソニア一人。ロビンの様子を見る役割だと説明され、鵜呑みにしてしまったために見誤ったということか。

 怖ろしさのあまり、タイラーの血の気が引く。
 取り返しがつかないと肝が冷えた時だった。

「シーザー、なにを言い出すの! 冗談であっても許されないことよ!! 私が情婦なんて、言っていいことと悪いことの区別もつかないの!!」

 間髪入れずにソニアが叫んだ。彼女らしかなる金切り声で、まるで悲鳴のようだった。

 タイラーはちらりとソニアを盗み見る。目が吊り上がり、肩が戦慄いている。怒りに打ち震えている。その姿に、ほっと胸をなでおろすとともに、心が打たれた。

 怒りに震える双眸が凛々しく光り、シーザーを睨みつける。
 シーザーはくくっと喉を鳴らす。それから、高らかと笑い出す。

「シーザー!」

 ソニアが一喝すると、シーザーは笑いを押し殺した声で「ごめん、ごめん」と謝った。
 その軽い謝罪に、タイラーは置かれている状況がよく分からなくなった。

「タイラーの脳裏によぎったことを僕が口にしてみただけだよ。ソニア」
「それにしてはひどい嘘だわ。大の大人が、言っていいこととダメなことの区別もつかないの!」

 ソニアの剣幕に、タイラーも面食らう。
 心外だ言いたげに、溢れんばかりの怒りが全身からみなぎっている。

 最敬礼の姿勢を崩したタイラーは頭をあげて、シーザーを見つめた。彼は笑いをこらえている。
 はめられたと理解したタイラーはショックを受けつつも安堵していた。

「ごめんね。僕が違うと否定しも、タイラーはきっと半信半疑だよ。ソニアが全面的に否定してくれないとね」
「それにしても、やり口が回りくどいわ」

 とても雇い主に対する言葉遣いに聞こえず、タイラーは目を見張った。
 じとっとソニアが、タイラーをも睨みつける。

「なによ。タイラーも、私のことをバカにしてるの」
「まっ、まさか。そんなことはないさ。脳裏をよぎっただけで、君を疑ったわけでは、ない……よ」

 これでは、しどろもどろになるほどに、疑ってましたと白状するようなものだ。

「男って、どうしてこう短絡的なの。なによ、二人そろって変なことを考えて!」

 その後二人の男は、二十歳程の少女に、謝るやら、弁明するやらで、宥めるだけで一苦労であった。

 ふてくされる少女一人に収拾がつかなくなる。
 言い訳ほど事を面倒するものだと改めて自覚したタイラーは、ひたすら一生懸命ソニアのご機嫌を取り続けた。
 
 とにかく、情婦、と呼ばれたことに憤慨甚だしく、しかもそれをタイラーも考えたことが、ソニアの怒りを煽っていた。
 惚れたタイラーがひたすらにソニアをなだめすかす側にまわるしかない。

 ソニアの怒りがタイラーに一人に傾くと、シーザーは一歩引き、手にした果実を回しながら、ソニアとタイラーのやり取りを慈しむように見つめた。
 シーザーが「あのね」と声を発する。

 助かったとタイラーは安堵しシーザーに顔を向ける。
 まだ不満げなソニアは口をすぼめた。

 シーザーは、改めてソニアに視線を送る。

「ソニアが嫌じゃないなら……、僕は、あなたの恋路を邪魔する権利まではないんだよ」
「私は、タイラーが好きよ」

 苦笑いを浮かべるシーザーに、ソニアがまっすぐ答える。
 その返答に照れたタイラーは口元へ手を寄せ、天井を仰いだ。

「僕は使用人の自由恋愛まで、規制する気はないんだよ。ソニアがタイラーを選ぶと言うなら、そこに僕がなにかを言う権利はないんだ。
 ソニアが、望んでいないことをされたと訴えるなら、話は違うけど。
 そのようなことがないなら、僕が口をはさむことじゃないよね。
 二人とも大人だし、僕も大人だ。
 そうだな、しいて言うなら……、場はわきまえてね。そう、お願いするだけだよ」

 とは言っても、シーザーはすこし複雑な顔で二人を見つめていた。



 その後、タイラーとソニアは、シーザーの了解を得て、人魚島へ向かうことが決まった。





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