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第五章 海の泡

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「リバイアサンが船を大破させたと証言があっても、竜はいない。痕跡もなければ、証拠さえない。大きな竜が入江に紛れることはないと専門家も解説した。

 仮にリバイアサンが船を大破させたと判明しても、真夜中に竜の存在を確認するため、僕が海上にいたことは気にかけられない。光を照射した竜と、船を大破させた竜が同一である証拠はつかめない。

 アンリの記憶だけを頼りに、僕の罪は問えない。

 当時から疑っていた。僕は船に体当たりするリバイアサンを間違いなく見ている。その竜が、前日に確認した竜の可能性を捨てられなかった。結果、ロビンが語るアンリの記憶と僕の記憶が合致した。
 やはり僕は間接的に人命を奪っていた。

 当時から疑っていた僕は、罪の心痛を和らげるために街へ支援を申し出た。定期船購入の寄付金を贈った。観光としての再起。街の長からの相談を僕は無視できない。

 僕は、ことロビンやアンリについては先走り過ぎる。妹の言う通りなんだ……。

 ロビンを産んで母は亡くなった。辛いんだ。愛する女性ひとを先んじて亡くすことが……。大事にする、愛するということが、失う恐怖とリンクしすぎる。

 そんな僕だから、アンリに選んでもらえなかったのだろうな。

 恐れるあまり、盲目となり事故の引き金さえ引いてしまった。君にも、苦しい思いをさせた。アンリにも、彼女の家族にも……、この街の人々にも。
 僕がしたことは、罪に問われない。だが、誰も責めなくても、悔恨はじくじくと僕を蝕み続けるんだ」

 吐露されるシーザーの弱さに、タイラーはなにも言えなかった。
 資産や容姿だけで人は彼を判断するだろう。寄付を贈って感謝されても、彼のもろさに目をかける人はいない。
 アンリはそんな彼の内面を理解していたのだろうか。理解して、その手を振り払ったのだろうか。タイラーにはアンリの思考は計り知れない。

「どうしても、ロビンだけは助けたい……」

 あたたかいコーヒーを飲みながら、それ以上タイラーとシーザーは黙して語らなかった。

「ふあぁぁぁ」
 大きなあくびが、静寂を破る。
「お兄様、タイラー。海の上にはついたのかしら」

 シーザーがぱっと顔をあげ、笑む。

「ああ、ついたよ。そろそろ、外に出ようか。アンリも待ちくたびれているかもしれない」

 デッキにあがる。外はすっかり暗くなっていた。星は輝き、丸い月も出ている。

「海上で見る星空は格別ね」
「まるでプラネタリウムだな」

 ロビンとタイラーは並んで詠嘆する。

「ほら、君たち。リバイアサンがいつ現れるか知れないんだ。空ばかり見てないで海を見ようね」

 シーザーがパンパンと手を叩く。

 人のあたたかな営みを灯す海辺の街。明滅する光に影として浮かぶ人魚島。島の裏手から民家は見えない。崖がそびえ、洞窟の出入り口がぱっくりとこちら向いている。
 室内で休んでばかりいたロビンは両目をキラキラと輝かせる。

 波は穏やかだ。規則正しい蕩揺とうようを、波音が追い響く。明度高い青はひそみ、波は黒々とした海底の色を浮き立たせている。波の先端だけ月明かりを透かして光り、すぐさま海の闇へと循環する。
  
 その時、船が大きく揺れた。ロビンがバランスを崩す。タイラーはよろめく彼女を支えた。

「ありがとう」
「海の上です。気をつけて」

 波が不自然に高くなる。船が前後に揺れた。そのまま揺れ続けるかと思えば、徐々に波は収まっていく。
 沈静化した海が緊張をもたらす。

 波を裂く音が立った。三人が同時に音の方へ顔を向ける。竜の背が波間を横切った。距離があっても、その大きさがうかがいしれる。巨体を誇るリバイアサンが海中で躍動し始めたのだ。

「きたな」

 シーザーが呟く。
 海中は広い。底へと沈めば遊泳する竜の波紋をも吸い込んでしまう。矮小な人間は固唾を呑んで静観する。

 遠くで波が渦を巻いた。その渦からリバイアサンが顔を出す。青い姿態を月に向かって突き上げ、半身を海上にさらした。
 
 人間は息をのみ、摩天楼のように見上げるのみ。

 青い体躯をくねらせながら、青い両眼が月明かりを反射させきらめく。世界有数の巨体を誇る竜種、リバイアサンがお目見えした。

「これは立派な……」

 すぐさまリバイアサンは海中へともどっていった。そこにいた者すべて海中へと誘われた気がした。

「ロビン、海へ入ろう」

 二人は着ていた衣類を脱ぎ捨てる。

「シーザー、浮き輪はあるだろ。ロビンに持たせてくれ」

 シーザーがロープがついた浮き輪を持ってきた。

「大丈夫よ。アンリが示した計画よ。きっとうまくいくわ」

 兄が心配そうに手渡し、妹が慰めながら受け取る。

「私は、どうせ長くないの。生きるためにこのぐらいの冒険をしても後悔はないわ」

 まるで今生の別れを言い渡されたといった苦悶の表情をシーザーは浮かべる。
 兄の気持ちを打ち払うように、ロビンは晴れやかに笑い返す。

「俺が先に海に入りますね」

 船尾横に海へと降りるはしごがある。そこから降りて海に入った。昼間の太陽を受け、熱を帯びていた海水は生暖かかった。残暑が残る時期で良かったとタイラーは心底思う。

 息を大きく吸い、タイラーは海水へ潜った。漂うなかで、竜が下方でぐるりと泳いでいる。首をしならせ、胴を左右に振り、無重力さならがに縦横無尽に動く。息が続かず、さばっと海面に顔をだした。額に張り付いてきた前髪を振り上げる。

 海面を凝視していたロビンと、タイラーの目があう。

「ロビン、下でリバイアサンが泳いでいた。階段はすべりやすい。ゆっくりおりてこい」

 脇に浮き輪を抱えて、ロビンはそろそろとおりてくる。うまくバランスが取れずフラフラしている。

「浮き輪を投げて」

 言われるまま、彼女は浮き輪をほおり投げた。手前に落ちた浮き輪まで泳ぎ、タイラーは捕まえる。

「両手ではしごを握ってゆっくり降りておいで」

 慎重に降り始めるロビン。足先が海水につく頃にタイラーは叫ぶ。

「飛んで!」

 ロビンはその掛け声とともに海へ飛び込んだ。

 勢いで彼女は沈む。目をつぶり、両手をあげて、落ちていく。タイラーは潜る。近づき、彼女の脇を抱える。なすがまましがみつくロビンを抱え、ざばっと海上に顔をあげた。
 すぐさまロビンに浮き輪を握らせた。

「失礼」

 タイラーがロビンを抱き締める。

「よく、あばれなかったですね。えらかった」
「そんな体力もないだけよ」

 くすくすとロビンが笑う。

「リバイアサンもちらりと見えたわ。もう、本当に、死んでもいいと思うくらい、感動したわ」

 シーザーが聞いたら、泣き出しそうなセリフを楽しげに口にする。
 タイラーは浮き輪を握らせて、彼女を海へと漂わせる。

「浮き輪はドーナツの真ん中に入るものだと思ったわ」

 ビートバンのように持たされたアンリが不思議そうな顔をする。

「潜る時、抜け出るのが不便だと思ったんです」

 二人寄せ合って波に揺られた。

「泡玉を確認したら俺はそちらへ泳ぎます。俺はあなたを助けられない」
「いいのよ。リバイアサンも私の外見は知っているわ。目の前に現れたら、潜ってとアンリにも言われているのよ」

 波の揺らぎが大きくなり始めた。

「見ろ」

 デッキからシーザーが指をさす。
 指し示す方向に、泡がブクブクと盛り上がり始めた。
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