21 / 46
第一部:第4章(グーサノイド城内)
21.売られた喧嘩
しおりを挟む
ローレンスの指輪は魔道具なのだが、彼の元では全く機能していない。そう指摘したにも関わらず、依然として身に付けたままだった。ちょうど良いので拝借し、『ちょっと光る』魔道具を、障壁の核に転用する。まともな魔術師がいれば、血走った目で問い詰められるところだが、そこはグーサノイドだ。そんなものかと受け流される。
「それで、ジャッ君だっけ?」
「ジャック! ジャック・フラヴィニーだ!」
「なるほどジャッ君。稽古をつけるのは良いんだけど、そもそもジャッ君は魔術師なの?」
「稽古じゃねえ、勝負だ! どっちが最強か決める真剣勝負!」
「どうしよう、何言ってるのかわかんない」
とはいえ、なんだか懐かしい感覚がある。すぐに思い当たった。レベッカ様の頓珍漢にそっくりだ。気が付いてみれば、親しみさえわいてくる。不思議に寛容な気持ちにもなる。一つ、大きくうなずいた。
「まあ、なんだって同じことだね」
「なんだ、話がわかるじゃねえか。ぐだぐだ考えるなんてアホくせえ」
細かいニュアンスに相違がある気はしたが、それこそどうでも良いことだ。
「私たちを囲んでうっすらと膜が張ってるの、わかる? この範囲から外には攻撃が届かない。…外の人たちも聞こえた? そっちに被害が出ることは絶対にないから、安心して」
「気が効いてんじゃねえか。最強を名乗るなんざ身の程しらずだが、心意気は悪くねえ」
「いや、名乗ってないけど。…じゃあどっちかが確実に仕留められたら終りね」
ここに来て初めて、ジャックの勢いがそがれた。
「そんな不穏なルール、始めて聞いたぞ…」
「初めては誰にでもあるものだよね。さあ、いつでもどうぞ」
ノアの居場所を確かめる。しょぼくれた顔で、悲しそうに見守っていた。隣にはアランもいる。クロエが着替えに行った隙に、ジャックを説得しようとしたのだが、あえなく撃沈したらしい。ノアこそが主君だろうに、それで良いのだろうか。
そんなことを考えながら、風を繰り、声が広がるように細工をして、確認がわりの咳払いをする。
「ノア君とアラン君…ご興味があれば他の皆さんも、今から魔術の講義を始めます。断っておくけど、だいぶ応用編だからね。――さて、私の魔術は、精霊石どころか、教本の精霊言語も使わない。本からは学べないから、よく見ておいてね」
とはいえ、ノアは攻撃魔術を使えない。それはおそらく『治癒魔術以外の魔術は使えない』ということだ。だとすれば、こんなことをしても、全く意味はないのかもしれない。
「余裕かましてんじゃねえぞ!」と剣を抜くジャックは、完全に怒気にのまれている。
「…あと、技術以前に冷静さを失うと死ぬからね」宙を指し、二三度つつくような仕草をした。「まずは分かりやすい魔術。ほら、ここに障壁を張るよ。――《剣を阻む壁を作って》」
攻撃は阻まれたが、すれすれだった。悲鳴と、息を飲む音。ノアなど卒倒せんばかりだ。ジャックは懲りずに剣を振るうが、結果は変わらない。
「少し前に話したように、私やアラン君が使ってる魔術は、精霊に指示を出すんじゃなくて、精霊の権限を移譲されてる。権限移譲のメリットは、言語に置き換えることが難しい事象を、イメージで引き起こすことができるってこと。――今のは、空気が凝って、剣を弾く壁になるのをイメージした。もし《風で剣を巻き取る》のを想像したら? ほら」
ジャックの剣が絡めとられ、浮き上がる。押しとどめようと奮闘しているが、悪態の激しさを見るに相当難航しているらしい。
「さて、応用編だよ。精霊言語には、人間が知っている何千倍、何万倍も語彙がある。その大半が、人間には、聞くことも発音することもできない。でも、精霊に良く聞こえるのはこっちの方なんだよ。人間が知る精霊言語は、精霊にとって、賢い九官鳥の囀りみたいなものでしかないから」
剣に引きずられるジャックに、視線を促す。
「今から私は、聞こえない言葉で、ジャッ君の剣を叩き落とすように言うよ」
宣言は、即座に実現した。慄くようなざわめきが広がる。
見物は引き気味だが、相対するジャックは目を輝かせる。どうやら頭も冷えたようで、立ち姿にも隙がなく、相当な強者なのだろうと感じさせた。
「お遊びはしまいだ!」と叫び、嬉々とした剣を振る「《炎!》」
縄上の炎がはい上り、刃に巻き付き、覆い尽くす。伸び縮みする艶やかな熱に、好戦的な鋭い笑みが照らしだされた。クロエは息を飲み、興奮に声を震わせる。
「魔剣士とはね!」
正式な称号ではない。だが、英雄譚ではお馴染みだ。騎士としても、魔術師としても、並みはずれた実力を持つものを、そのように表現する。クロエでも、ほとんどお目にかかったことがない。
「…私のせいで、魔術なんて簡単だと思うかもしれないけど、一般の魔術師は、もっともっと面倒で難解なことを考えながらやってるんだよ」
クロエは敬意を払い、門前払いのような真似は控えた。指先を伸ばして呟けば、切っ先が凍り付き、ジャックの動きが乱れる。それを危うく回避した。
「魔剣士が希少なのは、知力を限界まで酷使しているところに、身体的負荷まで要求されるから。まともな人間にはとても無理。…私が知る限り、例外は、思考を思考とも思わない大天才。あるいは、そもそも思考したことがない阿呆」
聞いていたものたちが、何とも言えない顔付きになった。アランは腹を抱えた。明白すぎる事実に、全員の心が一つになる。
ジャックが雄たけびを上げ、《炎》と繰り返す。火力が増し、氷が砕けた。気合を込めた一閃。引き千切れた火玉が散る。クロエがなでるような動きをすると、手近の熱が一つ集まり、ジャックの元へと打ち戻された。だが、苦も無く剣に飲み込まれる。
「器用なことするじゃん。火以外はどう?」
「軽口叩くな…! 《雷!》」
安い挑発に乗るものだ。だからこその魔剣士か。
炎の揺らめきに光がちらつく。――思う間に、閃光が目を焼き、雷が打ち出された。
轟音、粉塵、障壁に達し破裂する火花、抉れた床に覗く闇…瞬きする度、辺りの様子が一変していく。
それにしても、周囲への安全に気を取られ、床の保護を忘れたことが、どうにも情けない。深いため息がもれた。
妙な感触に足元を見ると、地面ともども凍り付いていた。この状況はつい最近も経験した。弓の魔道具を、面白半分に射てみた時だ。その時は悠長に溶かしていたが、――今度は駄目だ。やられる。
地面ごとえぐり、風を生んで身を投げた。案の定、寸暇の差で斬撃が襲う。
「やるじゃん。見直した」
魔術師だったら歓喜にむせぶところだが、あいにくとジャックの胸は打たなかった。爛々とした目で、獣性の強い気炎をはくばかり。…段々、相手は人か獣かと、不安に感じ始めた。通常時でも会話ができないのに、興奮状態ではどうなるのだろう。それに、全身に被った粉塵が不快で、早くお風呂に入りたい。
クロエの頭は、広い湯舟のことでいっぱいになった。
「…うん。これくらいで十分かな。じゃあ最後に、一番面白いものを見せてあげよう」
視線を向けられ、ノアはびくりと背筋を伸ばす。
本当に試すべきか、ちょっとの間ためらうが、直観には従うことにしていた。
だから、まっすぐにノアへと語り掛ける。
「精霊言語の内に、人に近いものがあるのなら、反対の極には、どんなものがあるんだろうね」
――《―――――》
クロエが何事か言う。しかし、何も聞こえない。
何かが起こっている。でも、それが何かは分からない。
見物人たちは、不安そうに囁きあう。
ノアは逆に、すべての屈託を拭い去ったようだった。初めてクロエを見た日を、思い出していた。
何か大きな力を使ったらしく、濃密な魔力を滴らせていた。その力の、あまりに純粋なことに、胸を打たれた。とても人のものとは思えない、狂いのない、透明で無機質な力。
眼前にしているものは、あれと同じだ。
甘くて酷薄な瞳が、ノアの憧憬を絡めとる。渇望か恐怖か…度を失い、天にあえいだ。
そうして時を無為にしたことは確かだ。それと同じくらい、彼女がノアに語り掛けていることも、確かだった。
何も聞こえない。だが、そこにあるという感覚が、あるいは、そこを押しのけて在る空隙が、生々しい実感として、うなじをちりつかせている。――そして、突如。
《――眠れ、眠れ、眠れ。ポピーの羽に包まれて、柔肌に身を寄せて、羽は高く降り積もる。沈む、沈む、沈む、夢を連れて》
剣の炎が爆発するように膨れ、ジャックの手をあぶる。凄まじい形相。歯ぎしりまで聞こえそうな気迫。彼は断固として手を離さない。アランが口笛を吹く。
《星降るかすみ草、ほつり、ほつり、ほつり。みなもは震え、やがて鎮める。夢にいざない、眠れ、眠れ、眠れ》
優しく揺するようなリズムに、頭の芯が麻痺するようだ。
目の前が遠ざかり、無感覚の暗闇の中に、現実と過去と夢が、一緒くたに投げ込まれる。
「子守歌、ですか?」
ああ、なんてかんのいいにんげんだ。
アランは怪訝そうに目をすがめる。ノアが何を聞いたのか、彼には分からない。クロエは呆気にとられた。自分が試したのではあるが、結果を目の当たりにすると、信じられない気持ちが膨らむ。喚く大男がうるさい。おざなりに手を振る。
ぞっとするような地響き。巨大な氷柱が生え、彼の半身を抱き込む。ぱちりと弾ける稲光…落ちていく剣を、茫然と見送る。熱風に目をあげれば、視界を覆いつくす炎の塊。
ようやくにして、ジャックも知る。彼女と、戦うべきではなかったのだ。
足元に転がる剣を蹴り、興味もなさげに拾い上げる。それは、クロエが持つとやけに大きく、重そうで、華奢な肢体を際立たせた。だが、その声は、時の奥底から響くようで、
「自分の剣で貫かれるっていうのも乙かもね」
その内容も、愛らしい容姿とはかけ離れていた。
剣は独りでに向きを変え、矢のように飛ぶ。最期を確信したのは、ジャックだけではなかった。その証拠に、見物の大多数は、腰を抜かすか失神している。
ありがたいことに、えぐられたのは氷だけだ。髪をいくらか切りはしたが、飛び散ったのはダイヤのような無色の輝きのみ。
それと同時に全ての魔術が消え、ジャックが投げ出される。実のところ、彼はかすり傷しか負っていないのだが、そのままぴくりとも動かなくなった。
「仕留められたと思うけど?」
何事もなかったかのような問いかけに、答えられるものなど、いはしなかった。
「それで、ジャッ君だっけ?」
「ジャック! ジャック・フラヴィニーだ!」
「なるほどジャッ君。稽古をつけるのは良いんだけど、そもそもジャッ君は魔術師なの?」
「稽古じゃねえ、勝負だ! どっちが最強か決める真剣勝負!」
「どうしよう、何言ってるのかわかんない」
とはいえ、なんだか懐かしい感覚がある。すぐに思い当たった。レベッカ様の頓珍漢にそっくりだ。気が付いてみれば、親しみさえわいてくる。不思議に寛容な気持ちにもなる。一つ、大きくうなずいた。
「まあ、なんだって同じことだね」
「なんだ、話がわかるじゃねえか。ぐだぐだ考えるなんてアホくせえ」
細かいニュアンスに相違がある気はしたが、それこそどうでも良いことだ。
「私たちを囲んでうっすらと膜が張ってるの、わかる? この範囲から外には攻撃が届かない。…外の人たちも聞こえた? そっちに被害が出ることは絶対にないから、安心して」
「気が効いてんじゃねえか。最強を名乗るなんざ身の程しらずだが、心意気は悪くねえ」
「いや、名乗ってないけど。…じゃあどっちかが確実に仕留められたら終りね」
ここに来て初めて、ジャックの勢いがそがれた。
「そんな不穏なルール、始めて聞いたぞ…」
「初めては誰にでもあるものだよね。さあ、いつでもどうぞ」
ノアの居場所を確かめる。しょぼくれた顔で、悲しそうに見守っていた。隣にはアランもいる。クロエが着替えに行った隙に、ジャックを説得しようとしたのだが、あえなく撃沈したらしい。ノアこそが主君だろうに、それで良いのだろうか。
そんなことを考えながら、風を繰り、声が広がるように細工をして、確認がわりの咳払いをする。
「ノア君とアラン君…ご興味があれば他の皆さんも、今から魔術の講義を始めます。断っておくけど、だいぶ応用編だからね。――さて、私の魔術は、精霊石どころか、教本の精霊言語も使わない。本からは学べないから、よく見ておいてね」
とはいえ、ノアは攻撃魔術を使えない。それはおそらく『治癒魔術以外の魔術は使えない』ということだ。だとすれば、こんなことをしても、全く意味はないのかもしれない。
「余裕かましてんじゃねえぞ!」と剣を抜くジャックは、完全に怒気にのまれている。
「…あと、技術以前に冷静さを失うと死ぬからね」宙を指し、二三度つつくような仕草をした。「まずは分かりやすい魔術。ほら、ここに障壁を張るよ。――《剣を阻む壁を作って》」
攻撃は阻まれたが、すれすれだった。悲鳴と、息を飲む音。ノアなど卒倒せんばかりだ。ジャックは懲りずに剣を振るうが、結果は変わらない。
「少し前に話したように、私やアラン君が使ってる魔術は、精霊に指示を出すんじゃなくて、精霊の権限を移譲されてる。権限移譲のメリットは、言語に置き換えることが難しい事象を、イメージで引き起こすことができるってこと。――今のは、空気が凝って、剣を弾く壁になるのをイメージした。もし《風で剣を巻き取る》のを想像したら? ほら」
ジャックの剣が絡めとられ、浮き上がる。押しとどめようと奮闘しているが、悪態の激しさを見るに相当難航しているらしい。
「さて、応用編だよ。精霊言語には、人間が知っている何千倍、何万倍も語彙がある。その大半が、人間には、聞くことも発音することもできない。でも、精霊に良く聞こえるのはこっちの方なんだよ。人間が知る精霊言語は、精霊にとって、賢い九官鳥の囀りみたいなものでしかないから」
剣に引きずられるジャックに、視線を促す。
「今から私は、聞こえない言葉で、ジャッ君の剣を叩き落とすように言うよ」
宣言は、即座に実現した。慄くようなざわめきが広がる。
見物は引き気味だが、相対するジャックは目を輝かせる。どうやら頭も冷えたようで、立ち姿にも隙がなく、相当な強者なのだろうと感じさせた。
「お遊びはしまいだ!」と叫び、嬉々とした剣を振る「《炎!》」
縄上の炎がはい上り、刃に巻き付き、覆い尽くす。伸び縮みする艶やかな熱に、好戦的な鋭い笑みが照らしだされた。クロエは息を飲み、興奮に声を震わせる。
「魔剣士とはね!」
正式な称号ではない。だが、英雄譚ではお馴染みだ。騎士としても、魔術師としても、並みはずれた実力を持つものを、そのように表現する。クロエでも、ほとんどお目にかかったことがない。
「…私のせいで、魔術なんて簡単だと思うかもしれないけど、一般の魔術師は、もっともっと面倒で難解なことを考えながらやってるんだよ」
クロエは敬意を払い、門前払いのような真似は控えた。指先を伸ばして呟けば、切っ先が凍り付き、ジャックの動きが乱れる。それを危うく回避した。
「魔剣士が希少なのは、知力を限界まで酷使しているところに、身体的負荷まで要求されるから。まともな人間にはとても無理。…私が知る限り、例外は、思考を思考とも思わない大天才。あるいは、そもそも思考したことがない阿呆」
聞いていたものたちが、何とも言えない顔付きになった。アランは腹を抱えた。明白すぎる事実に、全員の心が一つになる。
ジャックが雄たけびを上げ、《炎》と繰り返す。火力が増し、氷が砕けた。気合を込めた一閃。引き千切れた火玉が散る。クロエがなでるような動きをすると、手近の熱が一つ集まり、ジャックの元へと打ち戻された。だが、苦も無く剣に飲み込まれる。
「器用なことするじゃん。火以外はどう?」
「軽口叩くな…! 《雷!》」
安い挑発に乗るものだ。だからこその魔剣士か。
炎の揺らめきに光がちらつく。――思う間に、閃光が目を焼き、雷が打ち出された。
轟音、粉塵、障壁に達し破裂する火花、抉れた床に覗く闇…瞬きする度、辺りの様子が一変していく。
それにしても、周囲への安全に気を取られ、床の保護を忘れたことが、どうにも情けない。深いため息がもれた。
妙な感触に足元を見ると、地面ともども凍り付いていた。この状況はつい最近も経験した。弓の魔道具を、面白半分に射てみた時だ。その時は悠長に溶かしていたが、――今度は駄目だ。やられる。
地面ごとえぐり、風を生んで身を投げた。案の定、寸暇の差で斬撃が襲う。
「やるじゃん。見直した」
魔術師だったら歓喜にむせぶところだが、あいにくとジャックの胸は打たなかった。爛々とした目で、獣性の強い気炎をはくばかり。…段々、相手は人か獣かと、不安に感じ始めた。通常時でも会話ができないのに、興奮状態ではどうなるのだろう。それに、全身に被った粉塵が不快で、早くお風呂に入りたい。
クロエの頭は、広い湯舟のことでいっぱいになった。
「…うん。これくらいで十分かな。じゃあ最後に、一番面白いものを見せてあげよう」
視線を向けられ、ノアはびくりと背筋を伸ばす。
本当に試すべきか、ちょっとの間ためらうが、直観には従うことにしていた。
だから、まっすぐにノアへと語り掛ける。
「精霊言語の内に、人に近いものがあるのなら、反対の極には、どんなものがあるんだろうね」
――《―――――》
クロエが何事か言う。しかし、何も聞こえない。
何かが起こっている。でも、それが何かは分からない。
見物人たちは、不安そうに囁きあう。
ノアは逆に、すべての屈託を拭い去ったようだった。初めてクロエを見た日を、思い出していた。
何か大きな力を使ったらしく、濃密な魔力を滴らせていた。その力の、あまりに純粋なことに、胸を打たれた。とても人のものとは思えない、狂いのない、透明で無機質な力。
眼前にしているものは、あれと同じだ。
甘くて酷薄な瞳が、ノアの憧憬を絡めとる。渇望か恐怖か…度を失い、天にあえいだ。
そうして時を無為にしたことは確かだ。それと同じくらい、彼女がノアに語り掛けていることも、確かだった。
何も聞こえない。だが、そこにあるという感覚が、あるいは、そこを押しのけて在る空隙が、生々しい実感として、うなじをちりつかせている。――そして、突如。
《――眠れ、眠れ、眠れ。ポピーの羽に包まれて、柔肌に身を寄せて、羽は高く降り積もる。沈む、沈む、沈む、夢を連れて》
剣の炎が爆発するように膨れ、ジャックの手をあぶる。凄まじい形相。歯ぎしりまで聞こえそうな気迫。彼は断固として手を離さない。アランが口笛を吹く。
《星降るかすみ草、ほつり、ほつり、ほつり。みなもは震え、やがて鎮める。夢にいざない、眠れ、眠れ、眠れ》
優しく揺するようなリズムに、頭の芯が麻痺するようだ。
目の前が遠ざかり、無感覚の暗闇の中に、現実と過去と夢が、一緒くたに投げ込まれる。
「子守歌、ですか?」
ああ、なんてかんのいいにんげんだ。
アランは怪訝そうに目をすがめる。ノアが何を聞いたのか、彼には分からない。クロエは呆気にとられた。自分が試したのではあるが、結果を目の当たりにすると、信じられない気持ちが膨らむ。喚く大男がうるさい。おざなりに手を振る。
ぞっとするような地響き。巨大な氷柱が生え、彼の半身を抱き込む。ぱちりと弾ける稲光…落ちていく剣を、茫然と見送る。熱風に目をあげれば、視界を覆いつくす炎の塊。
ようやくにして、ジャックも知る。彼女と、戦うべきではなかったのだ。
足元に転がる剣を蹴り、興味もなさげに拾い上げる。それは、クロエが持つとやけに大きく、重そうで、華奢な肢体を際立たせた。だが、その声は、時の奥底から響くようで、
「自分の剣で貫かれるっていうのも乙かもね」
その内容も、愛らしい容姿とはかけ離れていた。
剣は独りでに向きを変え、矢のように飛ぶ。最期を確信したのは、ジャックだけではなかった。その証拠に、見物の大多数は、腰を抜かすか失神している。
ありがたいことに、えぐられたのは氷だけだ。髪をいくらか切りはしたが、飛び散ったのはダイヤのような無色の輝きのみ。
それと同時に全ての魔術が消え、ジャックが投げ出される。実のところ、彼はかすり傷しか負っていないのだが、そのままぴくりとも動かなくなった。
「仕留められたと思うけど?」
何事もなかったかのような問いかけに、答えられるものなど、いはしなかった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
はじめまして、私の知らない婚約者様
有木珠乃@『ヒロ弟』コミカライズ配信中
ファンタジー
ミルドレッド・カーマイン公爵令嬢は突然、学園の食堂で話しかけられる。
見覚えのない男性。傍らには豊満な体型の女性がいる。
けれどその女性から発せられた男性の名前には、聞き覚えがあった。
ミルドレッドの婚約者であるブルーノ王子であることを。
けれどミルドレッドの反応は薄い。なぜなら彼女は……。
この世界を乙女ゲームだと知った人々による、悪役令嬢とヒロイン、魔女の入れ替え話です。
悪役令嬢を救いたかったはずなのに、どうしてこんなことに?
※他サイトにも掲載しています。
冴えない建築家いずれ巨匠へと至る
木工槍鉋
ファンタジー
「建築とは、単なる箱を作ることではない。そこに流れる『時』を設計することだ――」
かつてそう語り、伝説の巨匠と呼ばれることになる男も、かつては己の名前に怯えるだけの冴えない二級建築士だった。
安藤研吾、40代。独立したものの仕事はなく、下請けとして「情緒のない真四角な箱」の図面を引き続ける日々。そんな彼が恩師に教えられた座標の先で迷い込んだのは、昭和初期を彷彿とさせる、魔法のない異世界だった。
現代の建築知識、そして一釘一釘を大切にする頑固大工との出会い。 「便利さ」ではなく「住む人の幸せ」を求めて、研吾は廃村に時計台を建て、水路を拓き、人々の暮らしを再生していく。
異世界で「百年の計」を学んだ研吾が現実世界に戻ったとき、その設計は現代の建築界をも揺るがし始める。 これは、一人の男が仕事への誇りを取り戻し、本物の「巨匠」へと駆け上がるまでの、ひたむきな再建の記録。
いつか優しく終わらせてあげるために。
イチイ アキラ
恋愛
初夜の最中。王子は死んだ。
犯人は誰なのか。
妃となった妹を虐げていた姉か。それとも……。
12話くらいからが本編です。そこに至るまでもじっくりお楽しみください。
帰国した王子の受難
ユウキ
恋愛
庶子である第二王子は、立場や情勢やら諸々を鑑みて早々に隣国へと無期限遊学に出た。そうして年月が経ち、そろそろ兄(第一王子)が立太子する頃かと、感慨深く想っていた頃に突然届いた帰還命令。
取り急ぎ舞い戻った祖国で見たのは、修羅場であった。
大ッ嫌いな英雄様達に告ぐ
鮭とば
ファンタジー
剣があって、魔法があって、けれども機械はない世界。妖魔族、俗に言う魔族と人間族の、原因は最早誰にもわからない、終わらない小競り合いに、いつからあらわれたのかは皆わからないが、一旦の終止符をねじ込んだ聖女様と、それを守る5人の英雄様。
それが約50年前。
聖女様はそれから2回代替わりをし、数年前に3回目の代替わりをしたばかりで、英雄様は数え切れないぐらい替わってる。
英雄の座は常に5つで、基本的にどこから英雄を選ぶかは決まってる。
俺は、なんとしても、聖女様のすぐ隣に居たい。
でも…英雄は5人もいらないな。
短編)どうぞ、勝手に滅んでください。
黑野羊
恋愛
二度も捨てられた聖女です。真実の愛を見つけたので、国は救いません。
あらすじ)
大陸中央にあるルオーゴ王国で、国を守る結界を維持してきた聖女ロザリア。
政略のため王太子と婚約していた彼女は、突如『真の聖女』が現れたとして婚約を破棄され、聖女の座を追われてしまう。さらに、代わりに婚姻しろと命じられた聖騎士からも拒絶され、実家にも見捨てられたロザリアは、『最果ての修道院』へと追放された。
けれど彼女はそこで、地位や栄光、贅沢などとはほど遠い、無条件に寄り添ってくれる『真実の愛』と穏やかな日々を手にいれる。
やがて聖女を失った王国は、崩壊へ向かっていき――。
ーーー
※カクヨム、なろうにも掲載しています
愚者による愚行と愚策の結果……《完結》
アーエル
ファンタジー
その愚者は無知だった。
それが転落の始まり……ではなかった。
本当の愚者は誰だったのか。
誰を相手にしていたのか。
後悔は……してもし足りない。
全13話
☆他社でも公開します
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる