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2.お久しぶりです、先輩
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木崎は仕事を終えると、スーパーに寄った。割引のシールが張られた、残り少ない弁当を購入し、岐路に着く。星の見えない夜空を見上げながら、休日はどう過ごそうかと考える。
(部屋の掃除と、洗濯物を片付けて、買い物にもいかないと。三連休だし、だらだら過ごすのはもったいないな。あとは、久しぶりに映画でも見に行こうか。たしか先日公開されたアクション映画が面白かったって佐伯が言ってたっけ)
自然と高校時代からの友人の顔が思い浮かぶ。が、映画の話をしたのも随分と前で、最近は連絡を取っていなかった。プロのサッカー選手はやはり試合で忙しいのだろう。
久しぶりに佐伯にメッセージだけでも送ってみようかと、スマホを取り出したところで震えだした。着信だ。
佐伯か、と思ったが違った。珍しく実家からだった。母だ。
「久しぶり、元気してる? 全然連絡してこないから、仕事忙しいの?」
などと、一通り近況を話した後で、母は「そうそう」と声を一段階、高くした。
「明日は仕事、お休みなの?」
三連休だったが、その質問に続く言葉が、自分にとって良い話だという予感はしなかった。無言でいると、土日も祝日も休みだったわね、と母は一人、笑い声を立てた。
「明日は用事があるんだ」
「そう。いやね、しばらく顔を見てないと思ったもんだから」
考えてみると、去年は正月に一度実家に帰ったきりだった。帰ろうと思えば特に苦になるような距離ではない。だが、この年にもなって彼女の一人もいないのか、と面と向かってはないにしろ、向けられる言葉の端々に滲み出る本音には、居心地の悪さを感じていた。
「今度、時間がある時にでもそっちに行くよ」
「だったら今月の最後の土日に、帰ってきなさい。お兄ちゃんも来るから」
なんでも婿養子になった兄が今月の末に帰省するらしい。余計に彼女がいないことを詮索されるのではないかと思い、断ろうとしたが、母は「もうお兄ちゃんには言ってあるから絶対来なさいよ」と言ってすぐに電話を切った。木崎は苦笑した。あまりにも強引で、いっそのこと清々しく感じたので、母の言葉に従うことにした。
木崎が東京に就職した頃に両親は引っ越していた。新しい実家はまだ数えるほどしか帰省してないため、未だに慣れない門構えだ。見知らぬ小さなシーサーが、玄関先でこちらに牙をむいていた。
「あら、おかえりなさい。早かったじゃない」
出迎えにきた母の後に、兄もやってきた。「久しぶりだな」と右手を上げる兄は、一緒に暮らす義父母によほど気を遣うのか、少し痩せて見えた。その代わりといってはなんだが、母は少し丸くなったようだ。
「仕事は今忙しいの?」
「まあ、ね」
「素晴らしい会社だものね。そりゃあ、忙しいわよ」
母は木崎の勤める会社名を高らかに言う。誰もが聞いたことのある大企業だ。
「名前は、関係ないんじゃないかな」
「あるわよ。あんただって、東京の大学まで出てるんだから、忙しいわよ。東京よ」
母は木崎が居間につくまでに、仕事のことを聞き、それから、木崎の会社が有名な会社だということを褒め、東京の大学を出たことまで自分のことのように自慢し始めた。相手が木崎の兄でもお構いなしだ。すでに知っていることを、加えて何度も聞いている話にもかかわらず、兄は「自慢の弟だね」と微笑んで相槌を打っている。
義姉と父に挨拶を済ませるなり、暇をもてあましていた活発な甥二人が「おじさん遊んで!」と木崎に襲い掛かってきた。かくれんぼしようと外に出たはずなのに、しまいには鬼ごっこをするはめになり、たまにジョギングをするとはいっても、慣れない運動に疲れ切った木崎は、帰省したことを早くも後悔した。
「ねえ、おじさんはさー、カノジョいないのー?」
一通り、遊びに満足したのか、大きい方の甥がそんなことを聞いてくる。母や兄には聞かれなくてほっとしていたのだが、思わぬところに伏兵がいた。
木崎は苦笑する。
「いないよ」
「えー、なんでー。ぼくだっているのに」
小さい方の甥が、舌足らずの言葉で言った。目の前のあどけない少年は、まだ小学生にならない年齢だったはずだが。
「そんなんじゃ、コンキ、逃しちゃうよ」
(婚期、か……)
木崎が今まで好きになったのは同性の先輩だけ、その後も性的な魅力を感じるのは男性だけなのだから、この小さな甥たちが想像する結婚は、一生できない。
「おじさんはまだ、三十にもなってないんだけどな」
「でもさぁ、パパはママと結婚してたよ。でもおじちゃんは、カノジョ、いないんだね」
甥が見上げてくる、その表情には哀れみが含まれているようだった。親に言われるよりはマシかと思っていたが、子どもに言われるのも純粋な分、きつい。
「わかった」
大きいほうの甥が声を上げた。
「おじさんは、男が好きなんでしょ」
「え」
木崎は目を丸くした。咄嗟に言い訳も否定も出てこない。ぽかんと口を開けたまま、何も言わなくなった木崎の周りを甥たちが走り回る。何がそんなに楽しいのか、笑いながら、転げまわっている。
(……そんなものか)
木崎は軽くため息をつく。と、同時に心に小さな棘が刺さったような痛みを覚えた。子どもの言っていることなのだから、気にしなくていいとは思っても、過去の苦い経験もあり、小骨のように引っかかってしまった。
ごまかすように、木崎は走り回る甥たちを捕まえる。腕の中で暴れまわる小さな甥たちからは、子ども独特の甘い匂いがした。きっとこの先も、自分には縁のない匂いだ。
いつのまにか夕方になり、やっと甥たちから解放された木崎は、「友人と約束があるから」と嘘をつき、行くあてもなく外へ出た。一人になれる時間が欲しかった。
しばらく歩き続ける。そして明かりに引き付けられる蛾のように、赤い提灯がぶら下がる居酒屋に入った。木崎には普段から酒を飲む習慣はないし、強いわけでもない。しかしたまたま目に付いた居酒屋は、落ち着いた雰囲気が気に入ったし、お酒も料理も美味しかった。
いい感じに酔いが回って来たところで、上機嫌のまま店を出た。しばらく夜風に当たっていこうと、家とは逆方向に歩き始めた。足は自然と高校へと続く通学路をたどっている。
(懐かしいな、この辺りは、昔とあんま変わってないし)
たまに見慣れないコンビニや新居が建っている他は、思い出の中の風景と違いはなかった。木崎は目を細めながら歩いた。
やがて通っていた高校の近くまでやってきた。卒業してから十年近く。遠目からみる母校は、ところどころ新しく改築されているようだが、三年間の思い出が蘇ってくる。
白い外壁に囲まれた校舎の周りをぐるりと回る。近くにショッピングモールができたからか、制服が新しくリニューアルされたからか、近年は生徒数が増えているらしい。それに合わせて校舎も少し増築された、と以前、佐伯が言っていたのを思い出す。
校舎は記憶の中と少し異なっていたが、緑色のフェンスが囲むだだっ広いグラウンドは変わっていなかった。フェンスを掴み、グラウンドをのぞく。
昔と変わっていないことを嬉しく思う反面、胸を締め付けられるような気持ちにもなった。思い出の断片を見つけられると同時に、小野塚との甘い記憶も蘇ってくるからだ。
(先輩と初めて話したのはここだったな。早朝で、ほんの短い会話で……)
無意識に、フェンスを掴む手に力が入っていた。変わるなら、何も思い出せないくらいに新しくなってくれればよかったのに。
木崎は小さく頭を振り、その場を後にした。
しばらく歩き、小さな公園に足を踏み入れた。デートの日、よく小野塚と訪れた公園だ。さび付いていた遊具は撤去されており、夜の公園は人気がなく外灯も少なかった。自動販売機の明かりが暗闇に浮かび上がっている。世界から見捨てられたようにひっそりとしていた。
記憶をたどるように、木崎は奥へと歩を進める。たしかこの先にベンチがあるはずだ。
月明かりもなく辺りは暗くて見えにくかったが、ふと、人の気配がした。外灯に照らされたそこを見ると、ベンチに一人、誰か座っているようだ。
すぐにその場を離れればよかったのに。なぜかその人影が気になった。近づき、様子を伺う。
(……――っ)
その人物が誰なのかが、はっきりと分かった瞬間、木崎の体は強張った。
さっきまでの心地よい酔いが嘘だったかのように、すっと何かが抜け落ちたように体温が下がった。
(なんで、どうして、今頃……)
混乱する思いとは裏腹に、体は自然と歩みを進める。
ベンチに近づくと、その人影はゆっくりと顔を上げ、一瞬目を見開き、すぐに視線を落とした。
「……こんなところで会えるとは思いませんでした」
木崎は十年振りの思いがけない再会に内心驚いていたが、気取られないよう努めて明るい声を出した。
「お久しぶりです、先輩」
(部屋の掃除と、洗濯物を片付けて、買い物にもいかないと。三連休だし、だらだら過ごすのはもったいないな。あとは、久しぶりに映画でも見に行こうか。たしか先日公開されたアクション映画が面白かったって佐伯が言ってたっけ)
自然と高校時代からの友人の顔が思い浮かぶ。が、映画の話をしたのも随分と前で、最近は連絡を取っていなかった。プロのサッカー選手はやはり試合で忙しいのだろう。
久しぶりに佐伯にメッセージだけでも送ってみようかと、スマホを取り出したところで震えだした。着信だ。
佐伯か、と思ったが違った。珍しく実家からだった。母だ。
「久しぶり、元気してる? 全然連絡してこないから、仕事忙しいの?」
などと、一通り近況を話した後で、母は「そうそう」と声を一段階、高くした。
「明日は仕事、お休みなの?」
三連休だったが、その質問に続く言葉が、自分にとって良い話だという予感はしなかった。無言でいると、土日も祝日も休みだったわね、と母は一人、笑い声を立てた。
「明日は用事があるんだ」
「そう。いやね、しばらく顔を見てないと思ったもんだから」
考えてみると、去年は正月に一度実家に帰ったきりだった。帰ろうと思えば特に苦になるような距離ではない。だが、この年にもなって彼女の一人もいないのか、と面と向かってはないにしろ、向けられる言葉の端々に滲み出る本音には、居心地の悪さを感じていた。
「今度、時間がある時にでもそっちに行くよ」
「だったら今月の最後の土日に、帰ってきなさい。お兄ちゃんも来るから」
なんでも婿養子になった兄が今月の末に帰省するらしい。余計に彼女がいないことを詮索されるのではないかと思い、断ろうとしたが、母は「もうお兄ちゃんには言ってあるから絶対来なさいよ」と言ってすぐに電話を切った。木崎は苦笑した。あまりにも強引で、いっそのこと清々しく感じたので、母の言葉に従うことにした。
木崎が東京に就職した頃に両親は引っ越していた。新しい実家はまだ数えるほどしか帰省してないため、未だに慣れない門構えだ。見知らぬ小さなシーサーが、玄関先でこちらに牙をむいていた。
「あら、おかえりなさい。早かったじゃない」
出迎えにきた母の後に、兄もやってきた。「久しぶりだな」と右手を上げる兄は、一緒に暮らす義父母によほど気を遣うのか、少し痩せて見えた。その代わりといってはなんだが、母は少し丸くなったようだ。
「仕事は今忙しいの?」
「まあ、ね」
「素晴らしい会社だものね。そりゃあ、忙しいわよ」
母は木崎の勤める会社名を高らかに言う。誰もが聞いたことのある大企業だ。
「名前は、関係ないんじゃないかな」
「あるわよ。あんただって、東京の大学まで出てるんだから、忙しいわよ。東京よ」
母は木崎が居間につくまでに、仕事のことを聞き、それから、木崎の会社が有名な会社だということを褒め、東京の大学を出たことまで自分のことのように自慢し始めた。相手が木崎の兄でもお構いなしだ。すでに知っていることを、加えて何度も聞いている話にもかかわらず、兄は「自慢の弟だね」と微笑んで相槌を打っている。
義姉と父に挨拶を済ませるなり、暇をもてあましていた活発な甥二人が「おじさん遊んで!」と木崎に襲い掛かってきた。かくれんぼしようと外に出たはずなのに、しまいには鬼ごっこをするはめになり、たまにジョギングをするとはいっても、慣れない運動に疲れ切った木崎は、帰省したことを早くも後悔した。
「ねえ、おじさんはさー、カノジョいないのー?」
一通り、遊びに満足したのか、大きい方の甥がそんなことを聞いてくる。母や兄には聞かれなくてほっとしていたのだが、思わぬところに伏兵がいた。
木崎は苦笑する。
「いないよ」
「えー、なんでー。ぼくだっているのに」
小さい方の甥が、舌足らずの言葉で言った。目の前のあどけない少年は、まだ小学生にならない年齢だったはずだが。
「そんなんじゃ、コンキ、逃しちゃうよ」
(婚期、か……)
木崎が今まで好きになったのは同性の先輩だけ、その後も性的な魅力を感じるのは男性だけなのだから、この小さな甥たちが想像する結婚は、一生できない。
「おじさんはまだ、三十にもなってないんだけどな」
「でもさぁ、パパはママと結婚してたよ。でもおじちゃんは、カノジョ、いないんだね」
甥が見上げてくる、その表情には哀れみが含まれているようだった。親に言われるよりはマシかと思っていたが、子どもに言われるのも純粋な分、きつい。
「わかった」
大きいほうの甥が声を上げた。
「おじさんは、男が好きなんでしょ」
「え」
木崎は目を丸くした。咄嗟に言い訳も否定も出てこない。ぽかんと口を開けたまま、何も言わなくなった木崎の周りを甥たちが走り回る。何がそんなに楽しいのか、笑いながら、転げまわっている。
(……そんなものか)
木崎は軽くため息をつく。と、同時に心に小さな棘が刺さったような痛みを覚えた。子どもの言っていることなのだから、気にしなくていいとは思っても、過去の苦い経験もあり、小骨のように引っかかってしまった。
ごまかすように、木崎は走り回る甥たちを捕まえる。腕の中で暴れまわる小さな甥たちからは、子ども独特の甘い匂いがした。きっとこの先も、自分には縁のない匂いだ。
いつのまにか夕方になり、やっと甥たちから解放された木崎は、「友人と約束があるから」と嘘をつき、行くあてもなく外へ出た。一人になれる時間が欲しかった。
しばらく歩き続ける。そして明かりに引き付けられる蛾のように、赤い提灯がぶら下がる居酒屋に入った。木崎には普段から酒を飲む習慣はないし、強いわけでもない。しかしたまたま目に付いた居酒屋は、落ち着いた雰囲気が気に入ったし、お酒も料理も美味しかった。
いい感じに酔いが回って来たところで、上機嫌のまま店を出た。しばらく夜風に当たっていこうと、家とは逆方向に歩き始めた。足は自然と高校へと続く通学路をたどっている。
(懐かしいな、この辺りは、昔とあんま変わってないし)
たまに見慣れないコンビニや新居が建っている他は、思い出の中の風景と違いはなかった。木崎は目を細めながら歩いた。
やがて通っていた高校の近くまでやってきた。卒業してから十年近く。遠目からみる母校は、ところどころ新しく改築されているようだが、三年間の思い出が蘇ってくる。
白い外壁に囲まれた校舎の周りをぐるりと回る。近くにショッピングモールができたからか、制服が新しくリニューアルされたからか、近年は生徒数が増えているらしい。それに合わせて校舎も少し増築された、と以前、佐伯が言っていたのを思い出す。
校舎は記憶の中と少し異なっていたが、緑色のフェンスが囲むだだっ広いグラウンドは変わっていなかった。フェンスを掴み、グラウンドをのぞく。
昔と変わっていないことを嬉しく思う反面、胸を締め付けられるような気持ちにもなった。思い出の断片を見つけられると同時に、小野塚との甘い記憶も蘇ってくるからだ。
(先輩と初めて話したのはここだったな。早朝で、ほんの短い会話で……)
無意識に、フェンスを掴む手に力が入っていた。変わるなら、何も思い出せないくらいに新しくなってくれればよかったのに。
木崎は小さく頭を振り、その場を後にした。
しばらく歩き、小さな公園に足を踏み入れた。デートの日、よく小野塚と訪れた公園だ。さび付いていた遊具は撤去されており、夜の公園は人気がなく外灯も少なかった。自動販売機の明かりが暗闇に浮かび上がっている。世界から見捨てられたようにひっそりとしていた。
記憶をたどるように、木崎は奥へと歩を進める。たしかこの先にベンチがあるはずだ。
月明かりもなく辺りは暗くて見えにくかったが、ふと、人の気配がした。外灯に照らされたそこを見ると、ベンチに一人、誰か座っているようだ。
すぐにその場を離れればよかったのに。なぜかその人影が気になった。近づき、様子を伺う。
(……――っ)
その人物が誰なのかが、はっきりと分かった瞬間、木崎の体は強張った。
さっきまでの心地よい酔いが嘘だったかのように、すっと何かが抜け落ちたように体温が下がった。
(なんで、どうして、今頃……)
混乱する思いとは裏腹に、体は自然と歩みを進める。
ベンチに近づくと、その人影はゆっくりと顔を上げ、一瞬目を見開き、すぐに視線を落とした。
「……こんなところで会えるとは思いませんでした」
木崎は十年振りの思いがけない再会に内心驚いていたが、気取られないよう努めて明るい声を出した。
「お久しぶりです、先輩」
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