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12.キス

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 小野塚は仕事に励んでいるようだった。高校時代は部活に打ち込みながらも成績は悪くないようだったので、もともと器用な性格なのだろうが、家にも仕事を持ち帰って励んでいたのを木崎も知っている。飲み会があるから今日は帰れない、とメッセージが来たこともある。

(先輩が頑張ってる。サッカーではないけど、昔みたいになにかに打ち込んでいるなら、僕が邪魔しないようにしなければ)

 木崎はわかりました、と短く返すと、作っておいた夕飯にラップをかけ、冷蔵庫になおした。
 数ヶ月後、着信を知らせるスマホを見ると、珍しく小野塚からだった。仕事を中断し、急いで折り返しかけ直す。

「正式に、社員にならないかと言われた」

 その報告を小野塚から受けたとき、木崎は会社にいたにもかかわらず、思わず声を上げて喜び、近くにいた人がぎょっとした顔を見せた。自分のこと以上に嬉しかった。

(今度の休みは盛大にお祝いしなくちゃ。なにかご馳走でも作って……いや、外食のほうがいいか。フレンチよりも和食のほうがいいか? この前つくった肉じゃが喜んでくれてた気がするし、お祝いにプレゼントも買わないと)

 本当は仕事を早退して今すぐ小野塚のもとへ駆けつけ、直接、祝福の言葉を言いたかった。気持ちばかりがはやって仕事に集中できず、隣の席の同僚から、「木崎がミスを続けるなんて珍しいな」と言われたほどだ。会社を早退したいと思うまで、誰かのことを考えるのは木崎にとって初めてのことだった。
 木崎はなんとか仕事を定時で切り上げると、真っ先に小野塚に電話をかけた。

「今度の週末なんですけど、お祝い、しませんか? お時間とか、大丈夫ですか?」
「……いや、しばらく忙しくなるから」
「……そう、ですよね。あ、なにかやっておくこととかありますか。作り置きとか、多めにストックしておきますか? 仕事で必要なものとか、欲しいものもあれば今週末買ってくるんで――」
「必要ない。……今週は、来なくていいから」
「わ……わかりました。すみません。……では」

 またお電話します、と心の中で呟き、電話を切った。短い通話時間が表示されているスマホの画面をしばらく見つめ、小さくため息をつく。

(これから覚えることも増えるだろうし、周りに気を遣って、余計に疲れることもあるはずだ。それなのに、僕の都合を押し付けるなんて身勝手だったな……)

 木崎はとぼとぼと歩きながら、目星を付けていたレストランのリストを消していく。

(先輩には頑張ってもらいたい。頑張って昔のようなきらきらと輝いていた先輩に戻ってもらいたい。そのためなら、僕ができることは、どんなことでもするのに。必要ないって言われたら、どうしていいかわかんないな)

 週末になったが、予定が何もなかった。いつもなら小野塚のところへ行くのだが、来なくていいと言われたし、忙しい彼のもとへ行っても邪魔なだけだろう。部屋の掃除をしたり、溜まった洗濯物を片付けたりしてしまうと、あとは何もすることがなくなってしまった。走りに行く気も、映画を見に行く気にもなれず、名前も知らないアイドルが出ているバラエティ番組をぼんやりと見ているうちに一日が終わった。

(きっと、先輩のもとへ行かないことも、先輩のためになっているはずだよな)

 木崎は自分にそう言い聞かせたが、胸の奥を締め付けるような寂しさは拭えなかった。



 小野塚は正社員として本格的に働き始めた。それは木崎にとって大変喜ばしいことであったが、一つだけ問題があった。木崎が休みの週末は、小野塚は仕事だったのだ。
 仕方の無いことだが、会う時間が極端に減ってしまった。
 いつものように金曜日、定時に仕事を終わらせ、新幹線に飛び乗る。駅に着くなりタクシーを捕まえ、途中二十四時間営業のスーパーで買い物を済ませると、小野塚のアパートへと向かう。
 部屋の明かりはついているようだ。小野塚の部屋の前に行き、時刻を確認する。もうだいぶ遅い時間だ。木崎は控えめにノックをした。しばらくして小野塚が顔を出す。

「すみません。こんな遅くに」
「……いや」

 いつものように短い返事で出迎えられる。小野塚はドアを開けて、部屋の奥へと戻っていく。帰れとも言われないし、ドアを開けていってくれるということは、入ってもいいということのはずだ。今日も拒絶されなかった、と安堵して部屋へ上がる。
 大量の荷物を抱え、木崎が部屋に入るときには、部屋の奥で、小野塚はもう寝る準備をしていた。

「……おやすみなさい」

 そう言って、木崎はテーブルを隅にのけ、持ち込んでいた布団を敷いて横になった。
 翌日、木崎は小野塚より早く起き、朝食を作る。昨日のうちに買っておいた鮭を塩焼きにし、卵焼きと味噌汁を作る。小野塚に食事をつくっているうちに、簡単な料理ならできるようになっていた。だが弁当は作らなかった。小野塚が会社で弁当のことを聞かれた時に、迷惑がかかると思ったからだ。
 起きてきた小野塚と一緒に食事を取り、小野塚が仕事に行ってしまえば、木崎はもう、掃除や洗濯をしながら、一人で小野塚の帰りを待つことしかすることがなかった。
 会えない時間が増えれば増えるほど、小野塚は自分のことを忘れ、側から離れていくと思った。共に過ごせない時間の代わりに身体で埋め合わせようとも考えた。ほんの短時間でも濃密な時間が過ごせれば、大丈夫だと信じたかった。
 経験などほとんどない。それでも木崎は小野塚を満足させてやりたかった。いつものようにキスをして、小野塚の下腹部に触れた。ズボンに手をかけたが、小野塚に手首を掴まれ、「疲れてるから」と、止められた。
 なんとか事に運べたとしても、結局体を慣らすまで時間がかかってしまい、小野塚を寝不足にさせてしまったり、木崎自身が疲れ果てて次の日寝過ごしてしまったり、あまりの腰の痛さに起き上がれない日もあった。
 自分のやっていることが全て空回りしていた。どうもうまくいかなくて歯がゆかった。

(甘いキスがしたい)

 木崎はそっと自身の唇に触れた。乾燥して口の端はひび割れていた。

(体に触れる許しを確認するためのキスじゃなくて、愛を伝えるためのキス。意味なんてなくても、ただ自然と、触れるだけの口づけでも。それとも、永遠の愛を封印するための……なんて)
 
 一緒にいられるだけでも十分幸せなはずなのに、寂しい、求められたいと感じる自分が女々しくて、鬱陶しいやつだと思った。

「……だったら僕は、どうしたらいいんだろう……」

 昔の自分だったらどうするかと考えて、何も出来なかった幼い自分を思い出しては、木崎は自己嫌悪に陥り、小野塚のいない一人きりの狭い部屋で、静かに涙を流した。



 小野塚は部活で忙しく、なかなか二人で遠くまで出かけることはできなかった。たまの休みに公園で話をしたり、ボールを蹴りあったりしただけだ。小野塚が貴重な休みの日を自分と過ごしてくれているだけで、木崎には十分すぎるほどだった。
 この日も、小野塚と木崎は公園にいた。さっきまで二人でパス回しをやっていた。といっても、木崎は球技が得意ではないので、思い切り横に逸れたボールを、小野塚が笑いながら追いかけるということばかり繰り返していた。少し動いただけで体は熱を持ち、汗をかいていた。日が長くなればその分、小野塚と一緒にいれる。夏が近づいていた。
 小野塚が休憩しようか、と近くのコンビニでソーダ味のシャーベットをおごってもらった。甘いものは苦手だったが、小野塚がくれたものなら何でもかまわない。二人は公園に戻り、ベンチに座って食べた。
甘さは苦手だったが、熱を奪う冷たさは心地いい。シャーベットを夢中でかじっていると、小野塚は木崎を見て笑った。

『舌、青いよ』
『した?』

 木崎は少し考えて、舌、だと分かった。分かった瞬間、見られたのが恥ずかしくなった。木崎は空色のシャーベットを食べていた。

『こっちにするか?』

 小野塚は自分が食べていたイチゴ味のカキ氷を木崎に差し出した。

(間接キスになる)

 気付いた木崎は真っ赤になった。

『い、いいです、そんな……。青くても、大丈夫なので』
『そう?』

(失礼だったかな、…か、間接キスもできたのに)
 と、木崎は断わった後で悔やんだが、小野塚は納得したように頷いた。

『舌が青いうえに、イチゴ食べたら次は紫になるよなー』
(そういう理由で断ったわけじゃないけど……キス……先輩と……)

 想像しただけで木崎の頭は沸騰したみたいに熱くなった。冷やそうと思って思い切りシャーベットを囓ると、きんと頭が痛くなる。歯を食いしばりながら、木崎がちらりと隣に座る小野塚を見上げると、小野塚はその反応を楽しんでいるかのようににやにやとしながら、イチゴのカキ氷を口に運んだ。

『ほら』

 べ、と小野塚は軽く舌を出した。真っ赤になっている。舌は唾液で妖しく光っており、見てはいけないようなものを見たようで、木崎はすぐに視線を逸らした。耳まで赤くなっているのが自分でもわかる。絶対変に思われてる、と木崎はうるさい鼓動を聞きながら思った。
 小野塚は、はは、と軽く笑ったあと、
『木崎』
 と、名前を呼んだ。木崎は顔を上げた。
 一瞬だった。
 徐々に遠ざかっていく小野塚の顔を見て、自分の身に何が起こったのかを悟った。

(キス、された……?)

 小野塚がじっと、木崎の顔を覗き込むように見つめている。そして呟くように何かを言った。木崎はどうしたらいいか分からず固まっていた。汗が、顔の輪郭をなぞって垂れた。
 小野塚が再びカキ氷を食べ初めてからも、しばらく動けずにいた。実感が湧いてくるのと同時にじわじわと体温が上がってきて、熱を冷まそうと、シャーベットを食べようとした。しかし、まだ三分の一ほど残っていたシャーベットはいつのまにか地面に落っこちていた。
 感触が、残っている。木崎は無意識に唇を結んだ。

(冷たかった。先輩の匂いと、イチゴの匂いがした)

 味は分からなかった。シャーベットのせいか。
 小野塚は食べ終わると、『行こうか』と短く言って、木崎の手を取った。公園を出るまで、手を繋いでゆっくり歩いた。そっと、先を歩く小野塚の後ろ姿を眺めた。耳が赤く染まっているのは夕日のせいなのか判断できなかった。
 そしてこの日は、言葉少なに別れた。

『唇だけじゃ、舌、紫にはならねえんだろうな』

 キスをした後、ぽつりと言った小野塚の言葉が耳に残っていた。
 木崎は家に帰ると、軽く唇を舐め、洗面台の鏡の前で舌を出してみた。
 うっすらと、青色が残っているだけだった。
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