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第1章 堕ちる
1.消滅
しおりを挟む見て毬亜、これどう? わたし、似合うかな? 毬亜はいいよね。なんでも似合うから。
ここのラスク、美味しー! これ以上食べたら太っちゃいそう。毬亜は食べても太らない体質だっけ。うらやましいなぁ。
毬亜、聞いて! 告白されたんだけど! どうしよー。好きな人、べつにいないしなぁ。毬亜はどう思う? 毬亜って好きな人いないの?
毬亜、勉強ついていけてる? テストはどうだった?
毬亜、お母さん、仕事に行ってくるから。戸締まりして、だれが来てもドアは開けちゃだめよ。
旅行は行く暇ないけど、映画でも観にいこっか。毬亜の好きな漫画が映画になってるでしょ? そのあとは服を買って、それからハンバーグ屋さんでどう?
――毬亜。
それは、きっとあたしの名前だ。
記憶の奥底にあって、耳には残っていないほど――
ずっと、ずっとまえのこと。
*
「マリちゃん、顔だけ見ればまだ高校生でも通りそうだね」
五十歳をすぎた男に十六歳と二十歳の見分けがつくのかはわからないが、通りそうも何も、来月――八月五日の誕生日がくれば十七歳になるという毬亜は、大方の家庭に照らし合わせてみれば普通に高校生だ。
顔だけ、と限定されたことに気落ちしながら、毬亜はにっこり笑った。躰つきは確かに、二十歳と見分けがつかない。
「ありがとうございます。このままでいられればいいんですけど」
「マリちゃんはいつまでも他人行儀だな」
酒臭いため息が向けられ、毬亜はなんとか鼻を摘まむのを堪えた。
「僕はこんなところで上下関係を強要するつもりはないよ。対等でいいって云ってるだろう」
そう云いながらも太腿に置いた手は、自分は客だ、と暗に迫っている。
この男、倉田は菓子メーカーの会社の社長だ。トップクラスではないが、会社名は毬亜が知っているくらいだから、そこそこ知名度はあるということだろう。
不健康にも倉田の躰全体を脂肪化しようと企むのはだれか、いや、彼自身の会社に原因があるのかもしれない。毎日毎日カロリーの高い開発品を試食と称して食し、ついには指先までもがぶくぶくと腫れぼったい。
毬亜の腿をさすりながら、偶然を装い、倉田の手は短いフレアスカートの裾を捲りあげている。
せめて他人行儀にしていなければ、この男はどこまでもずうずうしくなるだろう。この男に限らず、どの男だってそうだ。
「倉田社長、お楽しみですか」
ふと、背後から声が割りこむ。毬亜が振り仰ぐと同時に、倉田の手は腿から離れた。
「ああ、吉村くん。マリちゃんに会うのが楽しみでね」
「それは何よりです」
倉田に云いながら、吉村の目は毬亜へと向く。切れ長の目はその雰囲気のとおり鋭く、毬亜を射貫いた。そうかと思うと、シャープな顎のラインを印象づけるようにゆったりとそっぽを向き、吉村は奥の席に向かった。
広い背中を目で追いつつ、吉村が定位置に座るのを見守った。毬亜の視線に気づいたかのように、その視線が正面から向かってきた。
目が離せない。
そんな呪縛は、吉村の隣にママ――毬亜の母、加奈子が座り、吉村がそっちに目を向けたことで解けた。
「吉村くんはいい男だねぇ。男の僕から見ても惚れ惚れするよ。四十一になると思うが、マリちゃんみたいに若い子から見てどう?」
倉田の質問に、毬亜は核心を突かれたような動揺を覚える。
「素敵だと思います」
動揺は笑顔の裏に隠して無難に応じると――
「僕のこともそう云ってほしいねぇ」
倉田は粘着質の声で云いながら、ぽんぽんと毬亜の腿を手のひらで叩く。そのまま手を置きっぱなしにすることはなかったが、嫌悪感は拭えない。
「今度お菓子をたくさんいただけたら云います」
冗談に取ってくれたら、と願いつつ云ってみると倉田はひとしきり笑い、毬亜はほっとした。
うまくあしらう方法を身に着けるべきなのに、一年たってもまだ慣れない。
母がそう見えるように楽しめればいいのだろうが、一向にそんな気持ちにはなれず、やめられるのであればこんな仕事はやめたい。
いつも不安と身の危険を感じていながら、ここから逃れる術も選択権も毬亜は持たない。
去年、十六歳になってまもなく、二十歳だと偽り、呼び名を変え、酒を飲む男たちが集うこのクラブで働き始めた。酔っぱらう楽しみだけではなく、女に持ちあげられて気分がよくなるらしく、男たちは金を惜しまず足繁く通いつめる。
酒を飲むのに破格のお金を払ったり、そのお金を払っているのだから当然とばかりに躰に触ってきたり、男には幻滅しか感じていない。
そもそも男に幻滅する発端となったのは、蒼井太二――父だった。
中学まで、毬亜は蒼井家という家庭のなかで普通に生活していた。
建設会社に勤めていた父は朝から晩まで忙しくしていて、一方で母の加奈子は、時給が高く、昼間に学校に行くことがあっても休まなくてすむからと夜間の弁当工場に。働く両親がそろい、そして、友だちと買い物に行ったり遊びに行ったり、ただの中学生だった独りっ子の毬亜がいた。友だちみたいに毎年の夏休みの旅行先が韓国だというような贅沢はできなかったけれど、ごく普通の日常の羅列。
けれど、それは母が取り繕っていただけの普通だった。
母が弁当工場などではなくクラブで働いていたことは、高校に入ってまもなく知った。
父は賭博中毒者で、多額の――その具体的な金額は知らないが借金を抱え、母の給料と日々の節約では間に合わなくなった。
残業をしていると思っていた父はどこかで賭け事に浸かり、地味な仕事をしていると思っていた母は派手な衣装で夫でもない男の酒の相手をする。そんなある夜、乱暴な形をした男が二人、アパートにやってきた。
ドアスコープを覗いたとたん、ドラマでしか見たことのない類の男たちだとわかった。
どんどんとドアを叩く音、あるいは蹴る音。伴って、甲高いキーで張りあげられた声。
鍵があのときほど頼りなく感じたことはない。とっさに飛びすさったあと、毬亜は立ち尽くし、一方的な不服、もしくは脅迫を聞かされていた。
貸した金を返せ――とそのひと言ですむことに、女房と娘がどうなっても知らないぞ、と付随する。高校生であろうが、それが遠回しの警告だとは察せられる。いや、警告だとかそんな生ぬるいものではなく、はっきり脅しだった。
二時間後に帰った父は泥酔して当てにならず、母が帰るまで毬亜は起きて待った。どういうことか聞きたい気持ちよりも、怖くて眠れなかったのだ。
夜中の三時にまだ起きていた毬亜を見て母は驚き、そして、借金のことを知らされた。
大丈夫だから。そんな安易な言葉でなだめられたけれど、いまになれば、それを信じた毬亜は本当に子供だったと思う。脅しに来た時点でもう返せない状態にあることは歴然だった。
それから返済を迫る男たちは、昼夜を問わずやってくるようになって、その対象は両親にとどまらず、高校の正門前にも現れてニヤニヤしながら毬亜を無言で脅す。
何が『大丈夫』なの?
毬亜が泣きじゃくりながら訊ねると、母はクラブでホステスをしていることを教えてくれた。それもどんな職業か、毬亜はドラマを見て知っているくらいだが、給料がどこよりもいいと云う。
大丈夫だと信じられたのは、結局わずかな日々だけだった。
男たちが会社に押しかけたせいで父は仕事を辞めざるを得ず、どこを放浪しているのか家にいることも少なくなり、母も家を空ける。両親が逃げまわるなら、毬亜を捕まえるのがいちばん確実だ。毬亜は、学校に出回る噂と男たちへの恐怖で、すぐ学校には通えなくなった。
あたしもお母さんのところで働かせて。
年齢的に夜間は働けないとか、そんな規則は知らなかった。手助けしようという献身的な気持ちからでもない。ただ、男たちに追いかけまわされるよりも、母の傍にいて少しでも恐怖から逃れたかった。
渋々だったけれど、母も傍に置いておけば、と思ったのかもしれない。
数日後、母は男たちと話を付けたと云って、毬亜は独りだという不安からも追いかけられる不安からも逃れられた。
「マリ」
仕事が終わり、いつものように控え室で待っていると、毬亜、とは呼ばなくなった母が入ってきた。ドアの近くで立ち尽くして見えるのは、疲れのせいだろうか。
「お母さん、お疲れさま」
「お父さんがいなくなったの」
母は放心し、途方にくれた声でつぶやいた。
日雇いでどこかの工事現場で働いている父と、夕方から仕事に出かける毬亜はすれ違うばかりだ。
その日――
「毬亜、すまない」
〝おかえりなさい〟と〝いってきます〟を相次いで云ったあと、父は突然そう呼びかけた。
母は、仕事中に間違って呼ばないよう、毬亜とは云わなくなって、だから毬亜は久しぶりにそれが自分の本当の名前だと認識した。驚いたのはそればかりではなく、謝罪されたこともそうだ。
まじまじと見た父は、顔立ちは悪くないのに四十そこそこの年齢よりも老けて見えた。外で働いていて、しわのすき間まで日焼けしているせいだろうか。
働くことをけっして放棄していない父がお金を賭けるなんていうゲームにのめりこむことさえなければ、いま頃ちゃんと毬亜は高校に通っていて、カレシだってできていたかもしれない。
母は賭け事を病気だと云った。けれど、病院に連れていく元手もなかった。
もう泣いてわめいて訴えてもしかたがない。
それが最後になるなんて思いもしないまま、毬亜は父には応えずに出かけた。
どういうことなの?
母に問いただすと、信じられない愚行を知らされた。
父は、毬亜と母が懸命にお金を工面している間、借金相手の誘いを受けて賭け事でお金を返そうとしていたという。
嵌められた。そんな父の云い分は、相手が卑劣であることを考慮しても、もはやまかり通るはずがない。
挙げ句、二進も三進もいかなくなるほど借金をふくらませて、果ては消えた。
消えたと知らせに来たのは借金取りの男たちらしく、最初、毬亜は母の報告を否定した。
夕方ちゃんと会ったんだから、どこかに出かけているだけかもしれない。
父に謝罪されたことを思いだした毬亜は、母にそう向けつつ半ば自分に云い聞かせていた。
その推測を母は首を振ってすぐさま退けた。
母はなぜ男たちの話をたやすく信じてしまうのだろう。そのことは、消えた、という意味をわからなくさせた。
ただ単に、毬亜と母や男たちのまえから、というだけなのか、この世から、なのか。
そして母は、おじいちゃんやおばあちゃんに迷惑をかけるわけにはいかないから――そう云って、話をしてくるから、とふたりでアパートに帰ったあとまた出かけていった。
それから一週間、母は帰っていない。クラブにも現れない。
携帯電話は通じて話せるけれど、店に出てくることもない。
母が疑いもせず確信したとおり、とにかく父は消えた。だから、母の声が聞けるだけでもいいと毬亜は思うべきなのだろうか。
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