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第3話 パヴリーナとアンジェリーン
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「お城の生活には慣れましたか?」
鏡台の前で丁寧に髪をすきながら、クローデットは陽気に話しかけた。
「まだまだよ。でも、クローデットが起こしにきてくれるまで、我慢できるようになったわ」
やや情けない口調でインドラが言うと、クローデットはふふっと笑った。
エルド城にくるまで、インドラの朝は早かった。日の出とともに起きて、家事の手伝い、野良仕事、たきぎ拾いに山へ出かけたりしたのだ。ところが今は、インドラの専属となったレディーズ・メイドのクローデットが起こしに来るまで、フカフカなベッドの中で必死に待機していなくてはならない。エルド城に来た翌朝、日の出とともに起きて寝巻きのままソファに座っていると、クローデットに怒られてしまったのだ。
上流階級の子女は、メイドが起こしに来るまで寝ていなくてはならないという。
15年間身体に染み付いた習慣を変えることは、中々に苦労を強いられているが、自らに課せられた仕事の一つだと割り切って耐えている。
「しぶとく枕にしがみついていないのは、お起こしする身としては、とても助かります」
そばかすの浮いた顔を明るく笑いに包み込むと、インドラの身支度を整え終えたクローデットは部屋を辞した。
インドラは鏡台の前から立ち上がると、朝食をとるために部屋を出て食堂へ向かう。
エルド城へ来てから、早一週間が過ぎていた。
昨日まで食事は部屋に運ばれて、クローデットに付き添われて食べていた。勉強もまだ開始されておらず、城の中を案内されたり散策することで終わっていたのだ。新しい環境に、身体を馴染ませるためだという。しかしいよいよ今日から勉強が始まると、バトラーのドラホスラフに言われた。しかも朝食から行儀作法の勉強になるらしい。
食堂に入ると、そこには一人の若い女性が立って待っていた。そしてインドラを見ると、優雅な仕草でお辞儀をした。
「おはようございます、お嬢様。わたくし今日からお嬢様に勉強や行儀作法をお教えすることになりました、ガヴァネスのパヴリーナと申します」
「よろしくおねがいします、パヴリーナさん」
ぎこちない仕草で挨拶を返すと、早速パヴリーナから注意が飛ばされた。
「そういうときは、わたくしのことは”先生”、とお呼び下さい」
別段声を荒らげてはいないが、ピシャリと言われたような気がして、インドラは背筋が伸びる思いだった。
赤毛に近いブロンドで、柔和な面差しをしたとても綺麗な女性だ。シンプルなデザインの紺色のドレスを着ていて、よりブロンドが映えて美しかった。
「さあ、朝食をいただきましょう。ただし、行儀作法を学びながら、ですよ」
パヴリーナはにっこりと言ったが、インドラは行儀作法と聞いて、緊張から食欲が消えてしまったのを感じていた。
フォークやナイフの種類や、食べる順番を覚えながらの食事は困難を極め、食事が怖いものだと錯覚しそうになって、初日から大変な思いを味わった。
「ふふふ、行儀作法といったものは、最初は大変かもしれませんが、慣れてくると自然に振る舞えるようになりますよ」
「はい、努力します」
慰められながらパヴリーナに案内されダンスホールへ行くと、オリエル窓の棚状部分に座り込んで本を読んでいる青年が待っていた。
「お待たせしました」
パヴリーナが青年に声をかけると、俯いて本を読んでいた青年は顔を上げて小さく頷いた。
「紹介しますね。彼はアンジェリーン、大学生ですがここでアルバイトをしています。彼にはお嬢様のダンスのお相手をつとめてもらうことになります」
アンジェリーンと呼ばれた青年は、本を閉じて棚状部分から降りると、無言で歩いてきた。そしてインドラの前に跪くと、手の甲に軽くキスをした。手の甲から伝わってくる、柔らかな唇の感触に、インドラはドキリとして顔を赤らめる。こんなふうに男の人から挨拶をされるのは初めてのことだから。
艶やかな明るい茶色の髪と、やや線の細い整った顔立ちをしている青年。スッと立ち上がるとインドラの頭二つ分は背が高く、見上げるようにしてアンジェリーンの顔を覗き込んだ。
「よろしく」
そう短く発する声は低く、どこか寒々しい響きを帯びている。
「よろしくおねがいします」
慌てたようにインドラが挨拶を返すと、アンジェリーンはにこりともせず、インドラの手を取り、もう片方を背に回す。
「え、あの」
狼狽えるインドラにはお構いなしに、アンジェリーンはいきなりワルツのステップを踏み出した。
音楽は流れていないが、アンジェリーンの耳には聞こえているかのように、流麗なステップでホールの中を優雅に舞っている。しかしインドラはワルツなど当然踊ったこともないので、アンジェリーンに振り回されながら、まるで人形のようにくるくる舞わされていた。
ようやくアンジェリーンが足を止めると、インドラは荒く息をつきながらアンジェリーンにしがみついていた。
「いきなり一曲分を通しで踊らせるなんて、無茶ですよアンジェリーン」
パヴリーナが嗜めると、アンジェリーンは軽く肩をすくめただけだった。
「たいへん失礼しました。今のがワルツです、お嬢様」
申し訳なさそうにパヴリーナに謝られて、インドラは首を横に振った。
「ちゃんと踊れなくてすみませんでした。難しそうだけど、頑張って覚えます」
インドラがあまりにも真剣な表情で言うので、これまで表情が乏しかったアンジェリーンが、堪りかねたように顔を歪めて吹き出した。
「笑うなんて失礼です!」
「想像以上に素直だな」
おかしそうにひとしきり笑うと、インドラに向けたその表情は、とても優しい色に包まれていた。
「基礎を教えるから、しっかり着いてこい」
「は、はい!」
ダンスのレッスンが終わると、次は再びパヴリーナと二人に戻り、ピアノのレッスンになった。楽譜の読み方やピアノの弾き方を触りだけ教わり、もう昼食になった。やはり昼食も行儀作法を教わりながらとなって、何を食べたかすぐ忘れてしまうほど、色々なことを学んだ。
少し休憩時間が与えられ、そして書斎に移って午後は語学や計算などの勉強になる。
目まぐるしいほどたくさんの授業だが、インドラはとても楽しかった。
これまでのインドラは、勉強する機会すら与えられない環境に身を置いていた。それを不満に思ったことはないが、学びたいと思う気持ちは持ち続けていたのだ。でも今はこうして色々なことを教えられ、学ぶことができる。読み書きが出来るようになり、計算もできるようになる。今まで以上に世界が広がったような気がしていた。
行儀作法という夕食を終えた頃、ようやくインドラの勉強という名の仕事が終わった。
「ありがとうございました、先生」
「おつかれさまでございました。毎日大変だと思いますが、頑張ってついてきてくださいね」
「はい」
パヴリーナは去り際に、一冊の絵本をインドラに差し出した。
「今日お教えしたことで、読める簡単な物語です」
「まあ、ありがとうございます」
インドラは両手でその絵本を受け取る。表紙にはリスとネズミが可愛く描かれた、装丁の綺麗な本だ。
「はじめての……おるすばん?」
「はい」
パヴリーナはにっこりと微笑む。インドラが正しくタイトルを読めたのが嬉しいのだ。
「明日物語の感想を教えてくださいね。それでは、おやすみなさいませ」
「はい。おやすみなさい」
食堂を出て行くパヴリーナを見送ると、インドラは絵本をギュッと胸に押し抱いた。
本が読めることは、小さい頃からの憧れの一つだった。読み書きの出来ないインドラにとって、本とは無縁だったからだ。
でも、これからどんどん字を覚える。そうなれば、沢山の本を読むことができるのだ。
「頑張らなくっちゃ」
にっこりと絵本の表紙を見つめると、軽やかな足取りで部屋に戻っていった。
第3話 パヴリーナとアンジェリーン つづく
鏡台の前で丁寧に髪をすきながら、クローデットは陽気に話しかけた。
「まだまだよ。でも、クローデットが起こしにきてくれるまで、我慢できるようになったわ」
やや情けない口調でインドラが言うと、クローデットはふふっと笑った。
エルド城にくるまで、インドラの朝は早かった。日の出とともに起きて、家事の手伝い、野良仕事、たきぎ拾いに山へ出かけたりしたのだ。ところが今は、インドラの専属となったレディーズ・メイドのクローデットが起こしに来るまで、フカフカなベッドの中で必死に待機していなくてはならない。エルド城に来た翌朝、日の出とともに起きて寝巻きのままソファに座っていると、クローデットに怒られてしまったのだ。
上流階級の子女は、メイドが起こしに来るまで寝ていなくてはならないという。
15年間身体に染み付いた習慣を変えることは、中々に苦労を強いられているが、自らに課せられた仕事の一つだと割り切って耐えている。
「しぶとく枕にしがみついていないのは、お起こしする身としては、とても助かります」
そばかすの浮いた顔を明るく笑いに包み込むと、インドラの身支度を整え終えたクローデットは部屋を辞した。
インドラは鏡台の前から立ち上がると、朝食をとるために部屋を出て食堂へ向かう。
エルド城へ来てから、早一週間が過ぎていた。
昨日まで食事は部屋に運ばれて、クローデットに付き添われて食べていた。勉強もまだ開始されておらず、城の中を案内されたり散策することで終わっていたのだ。新しい環境に、身体を馴染ませるためだという。しかしいよいよ今日から勉強が始まると、バトラーのドラホスラフに言われた。しかも朝食から行儀作法の勉強になるらしい。
食堂に入ると、そこには一人の若い女性が立って待っていた。そしてインドラを見ると、優雅な仕草でお辞儀をした。
「おはようございます、お嬢様。わたくし今日からお嬢様に勉強や行儀作法をお教えすることになりました、ガヴァネスのパヴリーナと申します」
「よろしくおねがいします、パヴリーナさん」
ぎこちない仕草で挨拶を返すと、早速パヴリーナから注意が飛ばされた。
「そういうときは、わたくしのことは”先生”、とお呼び下さい」
別段声を荒らげてはいないが、ピシャリと言われたような気がして、インドラは背筋が伸びる思いだった。
赤毛に近いブロンドで、柔和な面差しをしたとても綺麗な女性だ。シンプルなデザインの紺色のドレスを着ていて、よりブロンドが映えて美しかった。
「さあ、朝食をいただきましょう。ただし、行儀作法を学びながら、ですよ」
パヴリーナはにっこりと言ったが、インドラは行儀作法と聞いて、緊張から食欲が消えてしまったのを感じていた。
フォークやナイフの種類や、食べる順番を覚えながらの食事は困難を極め、食事が怖いものだと錯覚しそうになって、初日から大変な思いを味わった。
「ふふふ、行儀作法といったものは、最初は大変かもしれませんが、慣れてくると自然に振る舞えるようになりますよ」
「はい、努力します」
慰められながらパヴリーナに案内されダンスホールへ行くと、オリエル窓の棚状部分に座り込んで本を読んでいる青年が待っていた。
「お待たせしました」
パヴリーナが青年に声をかけると、俯いて本を読んでいた青年は顔を上げて小さく頷いた。
「紹介しますね。彼はアンジェリーン、大学生ですがここでアルバイトをしています。彼にはお嬢様のダンスのお相手をつとめてもらうことになります」
アンジェリーンと呼ばれた青年は、本を閉じて棚状部分から降りると、無言で歩いてきた。そしてインドラの前に跪くと、手の甲に軽くキスをした。手の甲から伝わってくる、柔らかな唇の感触に、インドラはドキリとして顔を赤らめる。こんなふうに男の人から挨拶をされるのは初めてのことだから。
艶やかな明るい茶色の髪と、やや線の細い整った顔立ちをしている青年。スッと立ち上がるとインドラの頭二つ分は背が高く、見上げるようにしてアンジェリーンの顔を覗き込んだ。
「よろしく」
そう短く発する声は低く、どこか寒々しい響きを帯びている。
「よろしくおねがいします」
慌てたようにインドラが挨拶を返すと、アンジェリーンはにこりともせず、インドラの手を取り、もう片方を背に回す。
「え、あの」
狼狽えるインドラにはお構いなしに、アンジェリーンはいきなりワルツのステップを踏み出した。
音楽は流れていないが、アンジェリーンの耳には聞こえているかのように、流麗なステップでホールの中を優雅に舞っている。しかしインドラはワルツなど当然踊ったこともないので、アンジェリーンに振り回されながら、まるで人形のようにくるくる舞わされていた。
ようやくアンジェリーンが足を止めると、インドラは荒く息をつきながらアンジェリーンにしがみついていた。
「いきなり一曲分を通しで踊らせるなんて、無茶ですよアンジェリーン」
パヴリーナが嗜めると、アンジェリーンは軽く肩をすくめただけだった。
「たいへん失礼しました。今のがワルツです、お嬢様」
申し訳なさそうにパヴリーナに謝られて、インドラは首を横に振った。
「ちゃんと踊れなくてすみませんでした。難しそうだけど、頑張って覚えます」
インドラがあまりにも真剣な表情で言うので、これまで表情が乏しかったアンジェリーンが、堪りかねたように顔を歪めて吹き出した。
「笑うなんて失礼です!」
「想像以上に素直だな」
おかしそうにひとしきり笑うと、インドラに向けたその表情は、とても優しい色に包まれていた。
「基礎を教えるから、しっかり着いてこい」
「は、はい!」
ダンスのレッスンが終わると、次は再びパヴリーナと二人に戻り、ピアノのレッスンになった。楽譜の読み方やピアノの弾き方を触りだけ教わり、もう昼食になった。やはり昼食も行儀作法を教わりながらとなって、何を食べたかすぐ忘れてしまうほど、色々なことを学んだ。
少し休憩時間が与えられ、そして書斎に移って午後は語学や計算などの勉強になる。
目まぐるしいほどたくさんの授業だが、インドラはとても楽しかった。
これまでのインドラは、勉強する機会すら与えられない環境に身を置いていた。それを不満に思ったことはないが、学びたいと思う気持ちは持ち続けていたのだ。でも今はこうして色々なことを教えられ、学ぶことができる。読み書きが出来るようになり、計算もできるようになる。今まで以上に世界が広がったような気がしていた。
行儀作法という夕食を終えた頃、ようやくインドラの勉強という名の仕事が終わった。
「ありがとうございました、先生」
「おつかれさまでございました。毎日大変だと思いますが、頑張ってついてきてくださいね」
「はい」
パヴリーナは去り際に、一冊の絵本をインドラに差し出した。
「今日お教えしたことで、読める簡単な物語です」
「まあ、ありがとうございます」
インドラは両手でその絵本を受け取る。表紙にはリスとネズミが可愛く描かれた、装丁の綺麗な本だ。
「はじめての……おるすばん?」
「はい」
パヴリーナはにっこりと微笑む。インドラが正しくタイトルを読めたのが嬉しいのだ。
「明日物語の感想を教えてくださいね。それでは、おやすみなさいませ」
「はい。おやすみなさい」
食堂を出て行くパヴリーナを見送ると、インドラは絵本をギュッと胸に押し抱いた。
本が読めることは、小さい頃からの憧れの一つだった。読み書きの出来ないインドラにとって、本とは無縁だったからだ。
でも、これからどんどん字を覚える。そうなれば、沢山の本を読むことができるのだ。
「頑張らなくっちゃ」
にっこりと絵本の表紙を見つめると、軽やかな足取りで部屋に戻っていった。
第3話 パヴリーナとアンジェリーン つづく
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