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<3>First love~初恋~

<3>First love~初恋③~

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(この人が初恋の人。大好きだった蓮くん)

顔立ちは変わってない。

そのまま大人になった感じだ。

だけど胸がズシッと重くなり、抱えきれなくなった。

やさしい記憶が汚されたようだ。

パレットで黒くなった絵の具はキャンバスに塗っても黒いまま。

キレイになるかと期待して描いても余白はどんどん埋まっていく。

「あたしが……写真の女の子だってわかってたんだよね」

「……あぁ」

塗り終わる前にイーゼルが崩れた。

メキメキと腐ってキャンバスは裏っ返し。

(初恋さえも、あたしを裏切るんだ)

ほんの少し、居心地の良さを覚えた自分がバカみたいだ。

橋の下に生きるしか選択肢のなかった人間が他人に期待した分だけ損だ。

バカさ加減と情けなさに拳を振り上げて蓮の胸を叩いた。


だがそれは長く続かない。

振り回されることに慣れたあたしはささいな表情の変化を見逃さなかった。

(ずるい。なんでそんな顔するの……)

こんなの捨てられた子どもだ。

あの時の蓮くんがさみしさに慣れたしまった顔だ。

仮面を被った笑みの向こう側に泣きじゃくる子どもがいた。

動きを止めたあたしの手を冷たい手が掴む。

わずかに震える手は汗ばんでいた。

「れ……」

強張った腕に包まれる。

あたしの目は大きく開き、一瞬呼吸を忘れてしまう。

意味がわからないと喉の奥が詰まるも、突き飛ばすことが出来ない。

「優里は何も変わってない。あの時の少女のままだ」


顔を出しそうになった言葉が引っ込む。

指先がわなわなと震えている。

一気に顔が熱くなり、腫れぼったさに違和感を覚えた。

蓮は間違っている。

何を見てそう言ったか理解できず、だんだんと苛立ちが募った。

あの時のあたしは”王子様”を信じるくらい純粋だった。

対して今のあたしはお金を得て自分の居場所を探している。

擦り切れるばかりで価値がどんどんわからなくなった。

一般的には不純な生活。

それの何が悪いとさえ腹を立てる。

だけどあたしは割り切れていないのだろう。

心が渇いて、ひび割れがどんどん大きくなる。

自分なのに自分から目を反らすことを覚えた。

潤いはどこになる?

自分事を何一つコントロールが出来ない。

一番嫌いな自分に近づくだけ。

身の心も年相応に無邪気でありたかった。

美弥に出会い、仮面を知った。

その美弥ももういない。

あたしの世界は一瞬にして壊された。


誰も信じない。

キレイごとを言えるのはキレイしか知らないからだろう。

世界を恨むようなあたしは真っ黒だ。

――だから蓮は間違っている。


「嘘つき」

蓮の肩を突き飛ばす。

うつむいて、爪をたてて手首をかいた。

涙の止め方がわからなくて、ただ頬を乱すだけ。

正常な判断が出来るほど、生きることに余裕がない。

「嘘つき! こんなにも汚れたあたしが変わってないはずがない!」

熱い。目も喉も、みんな熱い。

「あの頃のあたしはもうどこにもいないの!」

鋭利な声が書斎に響く。

八つ当たりに力なく蓮の胸を叩いた。

喉を潰すよう叫んだ。

蓮くんを”王子様”と想い、慕った純粋な少女はどこにもいない。

あたしにとってこの身体は汚い。

心は恨みがましい感情でいっぱいだ。

歓楽街を歩く善人面を呪ってやる。

そんなあたしが変わっていないのなら、蓮は盲目だ。

こうしてまた抱きしめてくるのは卑怯だと訴えたかった。

「変わってない」

長い髪を指で梳く。

やさしい手つきはあの時の蓮くんとまったく同じだ。

破片を直視すれば余計に心が乱される。

ぐしゃぐしゃに泣くあたしの頬を、皮の厚い親指で何度も撫でた。

薄い唇が開いて名前を呼ぶ。

音色がやさしいものだから、涙がどんどん溢れ出た。

(いやなのに。泣きたくなんかないのに)

蓮の指を濡らしていく涙は弱さの証だ。

みじめさに襲われ、蓮の服を掴んで首を横に振った。

「蓮はわかってない! あたしはすごく汚い! 子どものときの純粋さなんてとっくに失くした!」

大きくなった真っ黒な塊に耐えられなくなって家を飛び出した。

幼い頃はまだ父と母が穏やかに微笑んでいて、それがうれしくてあたしも笑った。

家族そろって食卓を囲み、誕生日には少し贅沢をした。

そんなどこにでもありそうな家族物語は遠いだけ。

気づいたときにはもう家族から笑顔は消え、一人で過ごした。

「学校から帰ってもお父さんもお母さんもいなかった」

身体が成長していくにつれて、心と身体のバランスがとれなくなる。

その自覚もなく、言葉は乱暴になり、まわりと協調することが難しくなった。

人はどんどん離れた。

自分が何故孤立していくのか理解できない。

強がって平気なふりをした。

どんどん表情から笑みが消える。

怖い顔をしたあたしに人は指をさす。

それがプライドを傷つけることに繋がって、余計に当たり散らした。

「誰もおかしいことに気づいてくれなかった。あたしは八つ当たりをするだけ」

当たり前の枠組みから外れて、独りでいることが当たり前になる。

独りを自覚すると、余計に内側が侵食された。かき乱されて荒れて泣き叫ぶ。

この喉の詰まりは何?

生きるのはなぜ、こんなにも苦しいばかりなの?

心は成長しないわりに、身体だけは一人前に成長する。

身体に見合わない古着を着て、投げやりに電車に飛び乗って《身寄せ橋》にたどり着いた。
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