上 下
19 / 43
<6>slight sleep〜崩壊する祈り〜

<6>slight sleep〜崩壊する祈り②〜

しおりを挟む
***

ランドセルを背負ったあたしが息を切らして走っている。

玄関扉を開いて靴を蹴り飛ばし、廊下を突っ切った。

「お母さん、ただいま!」

リビングに入ると化粧鏡を置いたテーブルの前に座る母がいた。

振り向かない母は顔を手で覆い、嗚咽をあげている。

指と指の間からあふれる透明の雫にあたしは言葉を詰まらせる。

母は泣き虫で、暗い部屋にこもることが多かった。

あたしは純粋そのもので、また母に笑ってほしい。

その一心でランドセルの中身をあさる。

図工の時間に作った粘土の人形を取り出す。

べた塗りされた色は母をイメージしモカ色だ。

長いモカ色の髪の人形はにっこりと笑っていた。

「あのね、お母さん。今日ね、学校でこれ作ったの」

だから振り向いて。笑って。泣かないで。

背伸びをして母に手を伸ばす。

腕に触れると母は椅子から立ち上がり、あたしの手を振り放した。

その衝撃で手から人形が落ちる。


――ガシャンと、あっけなく粘土の塊が崩れた。

笑顔は真っ二つに割れ、身体はバラバラだ。

叩かれた手がじんじんと熱く、痛かった。

それ以上に心が痛かった。

粉々になった人形をかき集めていく。

母は頭を抱え、ヒステリックに叫ぶ。

「あぁぁああぁぁ! どうして、どうしてこうなったの! うるさい、うるさい、うるさい!」

「お母さん……」

「うるさい! 黙れ!」

もう温厚でやさしかった母はいない。

だけどそれが理解できる子どもでもない。

ただ悲しいばかりで、大粒の涙をこぼす。

それを見てようやく母親は我に返り、あたしの前に膝をつく。

泣きじゃくって、弱々しく震える指先であたしの頬に流れていた涙をぬぐう。

そしてちからいっぱい抱きしめた。

「ごめんね、優里。ごめんね」

息が詰まり、苦しい。

圧迫されそうな抱きしめ方に大きく口を開いて酸素を取り込んだ。

苦しさに蓋をして、母の背に手を回す。

泣くのを我慢して母の背を撫でた。

悲しみに暮れていたあたしを突き落としたのは何だっただろう?

聞こえてくるのは途切れ途切れの息遣い。

吐き出せない悲しみを走って振り払おうとする。

子どもの行動範囲なんて狭いもので、家の周辺を走ったあと庭へと突っ切った。


庭先に人がいる。

近づくと見覚えのあるキラキラした黒い宝石があたしに振り返る。

涙が止められなくなって、あたしは男の子に飛びつくように抱きついた。

だけど泣きじゃくることはなかった。

少年に突き飛ばされ、ドサリと音を立てて尻餅をつく。

痛み以外、何もわからない。

氷のように冷たい目があたしを見下ろしている。

不器用に笑う男の子だったのに、表情がなくて怖かった。

嫌悪をむきだしに、男の子は難しい言葉で突き刺してきた。

「お前の存在は汚い。お前なんか存在する価値もない。……大嫌いだ。お前なんかいなくなってしまえ!」

衝撃に動くことが出来ない。

ただぼうぜんと、男の子の拒絶を受けるだけ。

とてもキレイなはずなのに、なぜか真っ黒に見えた。

急激に吐き気が襲って、あたしは喉をしめた。

涙のしょっぱさに唇を噛む。

いつしか泣き疲れて、その場に倒れ込んだ。

幼いあたしに耐えられるのではなかった。

大好きな人からの否定は辛い。

言葉の真意なんてわかるはずもない。

考えるなんてできなくて、ストレートに傷を負った。

幼い子どもの心を壊すには十分すぎるほどだった。
 
(あたしね、お母さんのことも、男の子のことも、全部記憶から手放した)

それだけ辛くて、抱えていられなかった。

耳をふさぐと、頭のなかに艶めかしい声が響く。

聞きたくないと拒絶しても、内側にドロドロしみ込んでくる。

「あたしは忘れる事が上手なの。自分に都合の悪いところだけ、ぜーんぶ忘れちゃう。そうやって生きてきた。だから存在そのものが汚くなっててもおかしくない話でしょ?」

まだ、まだ何かを忘れてるの?

答えて。ねぇ、誰でもいいから答えてよ!
しおりを挟む

処理中です...