穢れ姫

落汰花

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 それから天碧は立ち上がるとそっと裾を払った。

「君に手伝ってもらいたい仕事の詳しい話はまたおいおいにしよう。起き抜けに七面倒な話を聞かせて君を疲れさせるのは本意じゃないからね」

 起き抜けに十分七面倒なやりとりはさせられたけれど。

「ここは君の部屋だから好きに使って。屋敷内も自由に歩いてくれ。もし外の空気が吸いたくなったときは大庭か勝手口の小庭を使ってね。敷地まわりに一枚、それから正門に一枚、僕以外の強い霊力に反応する結界を張っているから」

「大庭の方には桜が植っているんだ。結構散ってしまったけれどまだ咲っているのもいくつかあるから、今度一緒にお花見でもしよう」と微笑む天碧に、穂白はため息だけを返した。

「とりあえず今は、腹ごしらえをしようか。君を起こしてからもうずいぶん時間が経っているし。さっきはさんざん待たせてしまってごめんね」

 (私より侍女に謝ってあげたほうがいい気がするけど)
 あの間暇で穂白のため息をさんざん聞いて震える羽目になったのだから……まぁ、ため息を止められなかった穂白のせいでもあるのだが。

「別に空いてないわ。もう話がないならひとりにして」
「少しでもいいから食べて、穂白。ただでさえ君は線が細く色が白い」

 たしかに、穂白の体は全盛期——祓穢としてあちこちを駆け巡っていた頃に比べたら遥かに不健康に痩せ細り、肌色も白の中に青い澱みがあった。穂白は追い回され、捕縛され、封印支度中の短期間ではあるが幽閉されたのちに封印されたのだから、当然の変化だった。

「ひとつでも強い風が吹いたら壊れてしまいそうでこのままじゃ外に連れ出せないよ」
「さすがにそこまでじゃないでしょ。馬鹿にしてるの」
「穂白が強いことは知っているよ。それでも、穂白が少しでも健康になってくれないと僕は心配でたまらなくなってしまう。ね、お粥一口でもいいから。僕が出す食事が信じられないというのなら、目の前で毒味をしよう」

 ここまでのやりとりで感じていたが、天碧は会話は成り立つ男だが、自分の意思を貫く気持ちが強い。やわらかな口ぶりで共感と同情を誘うように食い下がり、堀を埋めていくように言葉を重ねてくる。
 穂白も大概頑固で負けず嫌いなところがあるから反射的に反駁してしまうけれど、自分のこだわり外では押されると弱い節もあった。だからか、この男との相性は妙に悪く感じる。

「毒味なんていいわ。わざわざ封印解いた相手を毒殺する馬鹿がいる?」
「君を意のままに操るための術をかけるかもしれない」
「自分で言うことか」
「もちろん絶対にそんなことしないけれど。でも毒味役になれば、穂白と一緒にごはんが食べられる」
「私なんかとごはん食べてなにになるの。監視?」
「ごはんがとても美味しくなる」

 ならんだろ。
 呆れてまたため息を吐く穂白を気にすることなく、天碧は「とにかくお粥用意してくるね」と扉の方に向かった。

「あ。もし何かあったら、僕か、鳰《にお》と鳩《きゅう》……さっきの子と、もう一人いる家の使用人を呼んで。すぐに駆けつけるから」

 あの気弱そうな少女の名前は鳰というのか。それでふと、穂白はあることを思い出した。

「ねぇ、その鳰って子。私のこと式神とか言ってたんだけど」
「あの子たちは花樹の生まれでもなければ、最新の情勢を追ったり学べるような環境にも身を置いていなかったんだ。だから、穂白のことは元々知らなかったし。穂白に仕事を手伝ってもらうとき、穂白には僕の式神のふりをしてもらおうと思っていてね。万が一、鳰と鳩にも手伝ってもらう場面ができたとき、鳩はさておき、鳰は嘘が下手でね。君のことを正しく教えたら、君の名前を呼んでしまう恐れがあるから。とりあえず今は君のことを式神と紹介してある」

 たしかに、数時間ともに過ごしただけで会話もほとんどかわせてはいないけれど、その中で見た様子だけでも嘘とは縁遠そうな性質に見えた。しかし、じゃああの怯えは、穂白を災厄と知ってのものではなかったのか。過度な小心者なのか……それとも穂白の風貌がそんなに凶悪だっただろうか。たしかに祓穢の同僚からも「穂白って素で圧があるよね。だから特に考え事しているときと怒っているときはあまり近づきたくない」と言われたこともあった。昔から弟に絡むいじめっこだ大人になってからもそこらに蔓延る悪党だを前にしたら全力でガンを飛ばして相手になり退治していた結果かもしれない。

「穂白が目覚めたとき、最初に穂白の名前を呼ぶのは僕がよかったっていうのもあるけれどね」
「……あんたの発言をまとめたら口説き辞典が作れそうね」

 肩を竦めた穂白がしっしと手を振れば、天碧はにこにことしたまま部屋を辞した。
 部屋にひとりきりになった穂白は、再び寝台に倒れた。
 窓の方に目を向ければ、日がいくらか傾いていた。煌めく赤紗をしばし眺めてから、顔を逸らす。頬に触れる布団は少しひんやりとしていて心地いい。目を閉じて耳を澄ませば、鳥の鳴き声が遠くに、誰かが歩く音が扉の向こうに聞こえた。自分以外の存在がたしかにいる空間。
 ——本当に戻ってきてしまったんだな。
 また波のように蘇った過去に胸元をきゅっと掴む。それから意識を逸らそうとすると、先までやり取りをしていた相手の顔や声が脳裏に浮かぶ。
 天碧。にこにことして軽薄で、胡散臭いのに巧みなところがある厄介な人。
 穂白をどうしても必要だと言う人。
 それでいてなんのために穂白を呼び、どこを目指しているのか分からない、底が見えない人。
 ——そういえば、糾弾以外の言葉を耳にするのは本当に久々だったな。
 あれも全部演技かもしれないし、口が減らないと思ったのも本当だけれど。
 それでも、ふとした瞬間に蘇る糾弾を追いやるように彼が放った胡散臭くて甘ったるい言葉の数々を脳内で再生すれば、ほんの少しはマシな気分になるのも事実だった。
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