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「被告人、あなたは10月9日、被害者である田中氏に対し、「このまま黙っていてほしければ金を用意しろ」と発言していますね?」
法廷に響く、低く凛々しい声音があった。声の持ち主は、ワックスで清潔に整えられた髪に、皺ひとつないきっちりと着こなしたスーツを纏い、厳しい口調で被告人に問い詰める。
「録音データにもはっきりと、「子供に危害を加えられたくなければ、金で解決しろ」というあなたの声が残っています。これが脅迫に当たることは理解していましたか?」
対する被告人は――遠坂の父親は、小さな声でもごもごと何かを言った。途端に検察官の顔色が変わり、きつく詰問するそれに変わる。
「あなたは「ただの冗談だった」と仰いました。しかし、被害者がその日以降、精神的苦痛を訴え、会社も休職している事実をご存知ですか?」
被害者側から、すすり泣くような声が聞こえてくる。それを遠坂は不思議な気持ちで眺めていた。どうやら父は責められているらしい。しかし、父が可哀相とも、遠坂は思わない。
父が連れていかれる前に殴られていた腹が痛くて、遠坂は傍聴席の隅っこに座っていられずに、ぷらぷらと足を揺らした。周囲の目が、心配そうに遠坂に向けられる。それに気付くほど、遠坂は大人ではなく、何も知らないままに自分の手で痛む腹を撫でた。こうすると、少しだけ痛みが和らぐ気がする。
「恐喝とは、金銭を奪う手段として、相手の不安や恐怖につけ込む、極めて卑劣な行為です。あなたは子供までも盾に取ろうとした。あなたの言動はまさに恐喝に当たると考えますが、いかがですか?」
遠坂は顔を上げ、厳しい声音の検察官の顔を見つめた。厳しい表情をしているが、それはまるで、遠坂が日曜の朝にこっそり見ているアニメに出てくる格好いいヒーローによく似ていた。父親が起きてこないことを祈って、こっそり見るヒーローアニメ。変身して顔が隠れてしまう前の、その登場人物によく似ているように思った。
「守くん?」
小声で名を呼ばれたのはその時で、横を向けばスーツを着た女性が笑みを浮かべていた。
「喉渇かない? 外でジュースでも飲もっか」
白熱する法廷で、仮にも実親が責められる光景を子供に見せるのは酷だと思ったのだろう。後々遠坂は女性や周囲の行動原理に気付いたが、当時の遠坂は何も疑問に思わずに、女性の言葉に笑みを浮かべて頷いた。
ジュースなんて飲めるのは久しぶりだった。ご馳走のうちのひとつだったから、こんなよく分かりもしない何かに連れてこられて、理解も出来ない何かを見るより、外に出られる方が余程楽しい。
「お答えください、遠坂さん」
女性に連れられて外に出る途中、背中からは人々の耳を打つような鋭い声が響いていた。ちらりと後ろを振り返り、遠坂は検察官の姿を盗み見る。背筋ひとつ曲がらない、隙のない立ち姿。
格好いいなぁと、呟いた。あんなに格好いい人間に、遠坂は出会ったことはなかった。
女性と一緒に廊下を歩きながら、遠坂は先程の人物を思い出し、連想するように昨日見たヒーローアニメを思い出した。相変わらず、アニメの内容はよく分からないままだ。けれど、鏡の中にいる糸を吐く怪人と戦っていた。遠坂はそれを応援しながら、勝利をおさめたヒーローの姿を、テレビを消した後に布団に潜り込んで想像した。
もし、あそこで怪物に負けて、糸で縛られて、抵抗できずにぐちゃぐちゃにされていたら。
あまり良くない想像をしている自覚はあったが、人の想像は止められはしない。ヒーローが声を上げて痛めつけられて、怪人に負けていたら――ドキドキと高鳴る胸を感じて、遠坂は酷く満足していた。格好いい正義の人間が、悪い奴に負けてしまう姿を想像すると、変な気持ちになる。それは嫌な気持ちではなく、胸が高鳴るような、不思議な気持ちだった。
いつかそれが取り返しのつかない歪みになると知らない遠坂少年は、女性が買ってくれたオレンジジュースを両手で抱えて、父親の行く末も知らないままに、ありがとうと無邪気に笑っていたのだった。
◇
「倉木検察官」
倉木は声を掛けられ、脚を止める。振り返ると、被害者の母親が倉木に向かい頭を下げていた。
「ありがとうございます。起訴してくださって――貴方が徹底的にあいつを追いつめてくださって、本当に胸のすく思いでした」
「御礼には及びません。職務として当然のことをしたまでです」
倉木は真面目に答えてから、少し眦を緩めた。老齢の母親は、追いつめられた娘を慮り、気を揉んでいたと知っている。落とされた肩から安堵とどうしようもない憤りを汲み取り、慰めの言葉などないと知りつつ、倉木は言葉を添えずにはいられなかった。
「心労が少しでも早く癒えるよう、及ばずながらお祈り申し上げます」
言葉を足し、踵を返す。今回の被告人は恐喝のみならず、家庭内暴力の容疑もある。そちらは別の検察官が担当することになっているが、今後も続く法廷を想像すれば忌々しい思いがした。彼の余罪は芋づる式にまだ増えるような予感がしている。
無くならない犯罪に巻き込まれる人々を思うと、倉木の若い心の中には純粋な怒りが沸いて出てきた。
特に――傍聴席にいた子供をちらりと思い出す。
あのような存在をこれ以上、出してはならない。状況を理解できないまま昏い目をして座り続けている姿を不憫に思い、同僚に連れ出すよう目配せしたものの、いつか今日の出来事を理解できるようになった頃、犯罪に手を染めた父の姿をどのように思い出すだろう。
辛い記憶にならなければいい。父親が受刑に値すると裁判官が判断した場合、母親も既に絶縁状態であり、親族の引き取り手もいないことから、あの子供は孤児院に入ることになると聞いていた。その轍のような複雑な未来を倉木は思うが、他人の子供の未来までは検察官の自分が関与できる部分ではないと、首を振って気を取り直す。
今、この時だって苦しんでいるのは彼だけではない。そして、彼のような人物を出さないように努力することこそが、倉木の職務であり使命であった。
倉木はネクタイを締め直し、厳しい眼を上げた。
倉木に出来るのは、司法の下で犯罪を見つけ、相応しい裁きを受けさせることだけだ。自らの使命を新たにし、長い廊下を歩いていく背中を、再び頭を下げた被害者の老いた母親だけが見送っていた。
法廷に響く、低く凛々しい声音があった。声の持ち主は、ワックスで清潔に整えられた髪に、皺ひとつないきっちりと着こなしたスーツを纏い、厳しい口調で被告人に問い詰める。
「録音データにもはっきりと、「子供に危害を加えられたくなければ、金で解決しろ」というあなたの声が残っています。これが脅迫に当たることは理解していましたか?」
対する被告人は――遠坂の父親は、小さな声でもごもごと何かを言った。途端に検察官の顔色が変わり、きつく詰問するそれに変わる。
「あなたは「ただの冗談だった」と仰いました。しかし、被害者がその日以降、精神的苦痛を訴え、会社も休職している事実をご存知ですか?」
被害者側から、すすり泣くような声が聞こえてくる。それを遠坂は不思議な気持ちで眺めていた。どうやら父は責められているらしい。しかし、父が可哀相とも、遠坂は思わない。
父が連れていかれる前に殴られていた腹が痛くて、遠坂は傍聴席の隅っこに座っていられずに、ぷらぷらと足を揺らした。周囲の目が、心配そうに遠坂に向けられる。それに気付くほど、遠坂は大人ではなく、何も知らないままに自分の手で痛む腹を撫でた。こうすると、少しだけ痛みが和らぐ気がする。
「恐喝とは、金銭を奪う手段として、相手の不安や恐怖につけ込む、極めて卑劣な行為です。あなたは子供までも盾に取ろうとした。あなたの言動はまさに恐喝に当たると考えますが、いかがですか?」
遠坂は顔を上げ、厳しい声音の検察官の顔を見つめた。厳しい表情をしているが、それはまるで、遠坂が日曜の朝にこっそり見ているアニメに出てくる格好いいヒーローによく似ていた。父親が起きてこないことを祈って、こっそり見るヒーローアニメ。変身して顔が隠れてしまう前の、その登場人物によく似ているように思った。
「守くん?」
小声で名を呼ばれたのはその時で、横を向けばスーツを着た女性が笑みを浮かべていた。
「喉渇かない? 外でジュースでも飲もっか」
白熱する法廷で、仮にも実親が責められる光景を子供に見せるのは酷だと思ったのだろう。後々遠坂は女性や周囲の行動原理に気付いたが、当時の遠坂は何も疑問に思わずに、女性の言葉に笑みを浮かべて頷いた。
ジュースなんて飲めるのは久しぶりだった。ご馳走のうちのひとつだったから、こんなよく分かりもしない何かに連れてこられて、理解も出来ない何かを見るより、外に出られる方が余程楽しい。
「お答えください、遠坂さん」
女性に連れられて外に出る途中、背中からは人々の耳を打つような鋭い声が響いていた。ちらりと後ろを振り返り、遠坂は検察官の姿を盗み見る。背筋ひとつ曲がらない、隙のない立ち姿。
格好いいなぁと、呟いた。あんなに格好いい人間に、遠坂は出会ったことはなかった。
女性と一緒に廊下を歩きながら、遠坂は先程の人物を思い出し、連想するように昨日見たヒーローアニメを思い出した。相変わらず、アニメの内容はよく分からないままだ。けれど、鏡の中にいる糸を吐く怪人と戦っていた。遠坂はそれを応援しながら、勝利をおさめたヒーローの姿を、テレビを消した後に布団に潜り込んで想像した。
もし、あそこで怪物に負けて、糸で縛られて、抵抗できずにぐちゃぐちゃにされていたら。
あまり良くない想像をしている自覚はあったが、人の想像は止められはしない。ヒーローが声を上げて痛めつけられて、怪人に負けていたら――ドキドキと高鳴る胸を感じて、遠坂は酷く満足していた。格好いい正義の人間が、悪い奴に負けてしまう姿を想像すると、変な気持ちになる。それは嫌な気持ちではなく、胸が高鳴るような、不思議な気持ちだった。
いつかそれが取り返しのつかない歪みになると知らない遠坂少年は、女性が買ってくれたオレンジジュースを両手で抱えて、父親の行く末も知らないままに、ありがとうと無邪気に笑っていたのだった。
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「倉木検察官」
倉木は声を掛けられ、脚を止める。振り返ると、被害者の母親が倉木に向かい頭を下げていた。
「ありがとうございます。起訴してくださって――貴方が徹底的にあいつを追いつめてくださって、本当に胸のすく思いでした」
「御礼には及びません。職務として当然のことをしたまでです」
倉木は真面目に答えてから、少し眦を緩めた。老齢の母親は、追いつめられた娘を慮り、気を揉んでいたと知っている。落とされた肩から安堵とどうしようもない憤りを汲み取り、慰めの言葉などないと知りつつ、倉木は言葉を添えずにはいられなかった。
「心労が少しでも早く癒えるよう、及ばずながらお祈り申し上げます」
言葉を足し、踵を返す。今回の被告人は恐喝のみならず、家庭内暴力の容疑もある。そちらは別の検察官が担当することになっているが、今後も続く法廷を想像すれば忌々しい思いがした。彼の余罪は芋づる式にまだ増えるような予感がしている。
無くならない犯罪に巻き込まれる人々を思うと、倉木の若い心の中には純粋な怒りが沸いて出てきた。
特に――傍聴席にいた子供をちらりと思い出す。
あのような存在をこれ以上、出してはならない。状況を理解できないまま昏い目をして座り続けている姿を不憫に思い、同僚に連れ出すよう目配せしたものの、いつか今日の出来事を理解できるようになった頃、犯罪に手を染めた父の姿をどのように思い出すだろう。
辛い記憶にならなければいい。父親が受刑に値すると裁判官が判断した場合、母親も既に絶縁状態であり、親族の引き取り手もいないことから、あの子供は孤児院に入ることになると聞いていた。その轍のような複雑な未来を倉木は思うが、他人の子供の未来までは検察官の自分が関与できる部分ではないと、首を振って気を取り直す。
今、この時だって苦しんでいるのは彼だけではない。そして、彼のような人物を出さないように努力することこそが、倉木の職務であり使命であった。
倉木はネクタイを締め直し、厳しい眼を上げた。
倉木に出来るのは、司法の下で犯罪を見つけ、相応しい裁きを受けさせることだけだ。自らの使命を新たにし、長い廊下を歩いていく背中を、再び頭を下げた被害者の老いた母親だけが見送っていた。
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