ラビットフライ

皇海翔

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光石ほのか

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 フォンテーンスタッフと書かれたドアを押して事務所の中に入った時、車道の猛烈な熱暑から逃れたのと、これでようやく職にありつけるかもしれないという期待とで、ほのかはほっと息をついた。
「光石さんですね」
 事務机から上げた女性の瞳がキラキラ輝いている。いける、と思った。目隠しの衝立の奥にあるソファを指し示され、「どうぞ」という言葉を待ってから、丁寧に腰を下ろす。
「派遣コーディネーターの滝本です」
 上から目線でいきなり名刺を差し出され、「あ…」と腰を上げかけたものの、「そのまま、そのまま」滝本は手で制してハイヒールを鳴らし、のれんの下がった給湯室へ消えていった。と、片手で暖簾をめくって小型冷蔵庫を開けながら、「ね、冷たいコーヒーと麦茶、どっちがいい?」トップはライトブラウン、毛先は中型のロッドでややきつめにカールした地毛の黒という、余り見慣れない髪を傾けてにこやかにそう訊ねた。
「うん、・・うん、・・・うん」ほのかの履歴書を眺めながら、一つずつ確かめるように頷いている滝本の顔を盗み見ると、目尻に濃いめのモスグリーンが刷いてある。だいぶ前からここの紹介所の前を通る際、それとなくガラス越しに窺っていた、滝本の印象とは幾分違っていた。それでも、もうこの人に任せるしかない、ほのかはそう腹を決めていた。
「高校を卒業して、二年間は喫茶店でバイトしていたわけね…。希望職種は事務職ってあるけど、昨日お電話でお話しした通り…」
「あのー事務職でなくってもいいんです。女の私でできることでしたら…」この半年間、二十社近い企業の面接を受けるたび不採用だった。お金もそうだが親になじられ社会の不要物みたような存在に甘んじているのは、いくらかつてない就職氷河期と言ってもこれ以上は耐えられない。
「女の私、はどうかと思うけど…そうねえ、今は資格がないと。食べ物屋さんのキッチンで働いていたなら、料理を作るのが好きなのかしら。現場で働くことができるんだったら、食品会社の求人があるのよ?。従業員数二千八百、冷凍食品を作っている会社なんだけど」
「あの…はい。何でもやります」
「そうね?。工場で働くことになるけど、製造部に回されるか商品開発部に回されるか、それは行ってみないとわからないの」
「ええ、ぜひ、やってみます」
「うん。じゃあね、とりあえずうちの事務所との契約があるから、これ読んでいいと思ったら、名前と印鑑お願いできる?
。印鑑、持ってきてくれたかしら…これ、もういいわね?」まだ半分ほどは残っている、ほのかのアイスコーヒーを取り上げて、せわしなくハイヒールを蹴って滝本は給湯室に下がっていった。水を使う音ののち、すぐにまた取って返すと、「どうかしら?。もし家の人と相談したいんだったら、こちらから連絡するのが来週の半ばくらいになっちゃうの…ほら次の方がね、お待ちだから」意味ありげに髪を揺らす、滝本の視線につられて入り口を見ると、五十過ぎの頭をもしゃもしゃにした女性がエコバッグを両手に抱えて待っていた。迷っていたら、どんどん職を奪われる、そう思い、「いえ、大丈夫です」ほのかはびっしり細かい文字でつづられた書面の三分の一も読まないうち、それでも自分の気持ちは固まっているのを確かめながら、滝本の冷ややかな注視の中、朱肉に印鑑をなすりつけた。


 国道沿いの事務所を出ると再び猛烈な熱暑に襲われた。渋滞している車の吐き出す透明な排気ガスの向こう側に建物の輪郭が揺れている。ほのかは一瞬、そうして視界が揺れているのが熱暑のせいなのか立ち眩みのせいなのか、判断がつかなかった。隣の館林市では、昨日38・7度を記録し、二日連続で38度を超えている。後ろから声をかけられた。
「ほのか?…大丈夫?」
「あーお景」家が近所の女子高の時の同級生だった。
「どしたん、大丈夫?」
「ちょっとめまいがしただけ。お景こそどしたん、こっち戻ってきたん?」
「学校、夏休みなんさ。今電車で着いたとこ。ほのちゃん二年ぶりだし、どっか涼しいところでお茶しない?」
「あ…うん。でもスーパーで買い物しなくちゃならないんさ」
「買い物なんて後でいいじゃん。積もる話山ほどあるし」景子はじっと目を細めてほのかを見つめ、「わかった。じゃまたあとで。メールすっかんね」そう言って片手をあげた。
「あ―タカユキさん、会いたいって。ほのかちゃん全然メールくんないしって」
「え…タカユキと会ったん?」
「会うわけないじゃん、ほのちゃんの彼氏と。メール来たんよ。群馬に帰ったら、ほのちゃんにメールするように言ってって」
「別に彼氏じゃないし―でも、うん。わかった」
「じゃね」
  ピン、と背筋を伸ばして歩み去る景子の後姿を眺めながら、目標に向かって東京の専門学校に通っている彼女に比べ、自分は昔と何も変わっていない、進歩していない、そのことがつくづくと思いやられた。毎年毎年、同じ作物を植えてる畑みたい、自分のことをそう思う。肩から下げたトートバッグの中に片腕を差し込み、そっと財布の留め金を開く。この千円を使ってしまったら、今月は一文無しになってしまう。同じワンゲル部で、共に過ごした景子とは仲良しであった分、今は彼女との距離感がつらく感じられる。卑屈になっているつもりはない。けれどこうした気持ちは地元に残されたものにしかわからない、そう侘びしく思うことがある。東京の大学に通っている三歳年上のタカユキに返事をしなくなったのも、生きる世界が変わってしまった、そんな疎外感からだった。実際、ほのかには東京へ行く目的がなかった。タカユキとは、結局高校のころ一度この町でデートした、それだけの淡い関係でしかない。
 国道を南に折れて路地に入り、「一、にい、三、四」と数えていって、「十七」のところで足を止め、くるりと北の空を振り返る。商店街の向こう側に藤色の低い山並みを越え、男体山のコニーデ型の頂がさっそうと眺めやれた。不思議なことに、その位置は路地一つずれてしまうと展望が隠れてしまう、ほのかだけのビューポイントなのだ。ワンゲル部時代、季節を変えて幾度も登った、あの頃の無邪気な自分たちの情調が懐かしく胸の内によみがえってきた。

 滝本が運転する派遣会社の軽自動車で紹介してもらった会社へ行き、事務室に通されて課長と呼ばれている人の面接を受けたが、それも履歴書にざっと目を通しただけのいたって形式的なものだった。面接官というのはどうしてこう脂ぎった、歯に黄色くヤニのついた中年男が多いのだろう――そんなことを思っていると、こちらの考えを見透かしたように課長はフン、と鼻から息を吐き、「どうも日本の人はわがままな人が多くってねえ・・・」そうぼそりとつぶやいた。滝本の口元がククッとゆがむ。幾社かの企業がこの町で操業している、工業団地で働くブラジル人が数多くいることは、ほのかはむろん承知していた。けれども使う側からすれば日本人より使いやすい、ということは今話を聞いて初めて知った。
 契約期間一年間と書いてある。準社員として、とも書いてある。それはフォンテーンスタッフの事務所で読んだ雇用条件と同一の内容だったから、ほのかはただ返事して捺印するだけのことだった。ただし同じ内容の契約をどうして二度しなければならないのか、それを聞いてしまうと「だから日本人は面倒なんだ」そう言われそうな気がして、聞かずにおいた。
 滝本はタイムカードの場所を教え、ユニフォームを手渡すと、これで私の仕事はすべて終わりとでも言わんばかり、晴れがましい笑顔を浮かべ、職場の班長という人にほのかを紹介すると、携帯をチラリと見てから帰っていった。
 純白の上着とズボンに着替え、マスクを当ててその上から電磁帽と呼ばれる耳あてのついた帽子をかむる。鏡に映った自分の半身を見ていいると、これほど没個性的な制服を着たのは初めてだと侘びしくなった。滝本のスタイリッシュなスーツと比べると、まるで囚人のようだと思う。コンビニでたまに手に取るファッション誌には、自立した女の生き方とか自分らしさを磨くなどとうたってあるが、これはあんなキャリアウーマンの対極の世界だな、と太い綿のズボンをはいて短く見える自分の両足を見下ろし、かすかな屈辱を覚えた。まるで巨大な何かの一部になったようだ。けれど昨日までは何物にも属していなかったのだ――ほのかはそうポジティブな方に考えた。
 班長に導かれて殺菌室と表示してある分厚いドアの前に立つ。中に入ると数秒してから開いていたドアが背後で音もなくしまった。と同時に天井と左右の壁に空いた無数の穴から、ものすごい量のエアーが噴出した。上下左右からの風圧にもまれ、班長はバレリーナのように両腕を挙げてくるくると回る。手洗い、消毒、ドアを開けてまた手荒い。病的なまでに衛生的だ。
 ゆうに体育館の三倍ほどの広さがある、広大な空間の中二階につけられた渡り廊下を歩いていくと、眼下にはおびただしい数の工作機械が稼働していた。コンベアーの配置から、それがいくつかの部署に分かれているのがなんとなくわかる。班長に導かれるまま階段を降り、コンベアーの上を目まぐるしく運ばれていく段ボールの脇を通り過ぎ、やや小広い場所に出ると、「ここでね、コロッケの包装をしているわけね」と班長が言った。作業前の全体体操があり、朝礼で八人の人の輪に加わってほんの一言だけ紹介されて、作業はすぐに始まった。
「まずはね、ここでね、トレーをセットするの。一番簡単なところだから」コンベアから二本の管に入った一口サイズのコロッケが、風車のような回転盤でみるみるプラスチックトレーに収まっていく。機械の背後から、トレーがなくならないよう少しずつセットしていく。たまに送られてくる管の中でコロッケが詰まった。班長は慌てる風もなくドライバーを持ち、詰まったコロッケをツンと押し出した。「ね、簡単でしょ」
 確かに簡単だった。それでもミスしないよう、一時たりとも気を抜くわけにはいかない。やがて慣れてきたと思う頃、「ローテーションです」と背後から声をかけられた。 
   次が検品。トレーからはみ出したコロッケを両掌でならしながら、焦げて黒くなったものや穴のあいた不良品を排除する。それに慣れてきたと思った頃、再び「ローテーションです」とこえをかけられ、巨大な機械のわきについた。そこでも不良品をチェックしながら、トレーを包装するラッピングマシンの速度に合わせ、機械がトレーを二つ以上のみ込まないよう、トレーの混み具合を調整してやる。初日なので、今日は班長が横についているが、普段は一人でこなすのだそうで、ラインの中で最もむつかしい場所だった。
 ローテーションは十五分交代。横に立って指導している班長は両掌を目まぐるしく動かしながら、「あなたおいくつ?」「どこから来てんの?」としきりに話しかけてくる。ほのかは、検品と目の前を一定速度で行き過ぎるトレー同士が混みあわないよう、気を配るので精いっぱいだったが、新人の自分にそうして話しかけてくれるのはうれしかった。チラと班長の電磁帽を見上げると「上村」と刺繡してある。と、その瞬間「ン、何?」とほほ笑んですかさず聞いてくる。笑っているように細めた目、柔らかな高い声と肌の張りから言って三十代のッ終わりといいった女性だ。
 同系列のラインの中をぐるぐる回る、何もかも初めてなので精いっぱいだが、昼食をはさみ、気づくともう工場の窓がくすみかける時刻だった。もう一巡、ラインを回れば終業という頃、「今日は疲れたでしょ」そう班長に声をかけられた。「それじゃね、今度はあそこ。あそこもね、ちょっと量は多いけど検品なの」
 そこは製造部からコロッケが送られてくる、ラインの先頭で直径二メーターほどの回転盤の上に無数のコロッケがゆっくりと回転していた。焦げたもの、きつね色に揚がってないもの、衣の禿げたものがいくつも見える。
「パパパパっとね、やんなきゃだめなのよ」傍らに置いたポリ容器に、目も止まらぬスピードで班長は不良品をつまみ出しては捨てていく。一日中、左から右へ移動していくコロッケに慣れた目に、周回運動をしているそれらは全く不可解な動きに見えた。クラっとするのだ。もっともそれも何秒間かで、回転する全体でなく、なるべくコロッケ一つ一つに焦点を合わせるとめまいはふっと収まった。「じゃ、今日はここで終わりまで入ってくれる」振り向きもできないまま返事したが、初日を何とかこなすことができた、そう思って身内にほっと元気が湧いた。
「お疲れさんね」チラと視線を横にすると大柄の褐色の肌をした女性がポリ容器にたまったコロッケをコメ袋に似た麻袋にあけながら、ニッと笑った。「あっ......どうも」ほのかもつられて頭を下げつつ、ブラジルの人かな・・・そう思った時、「オラ――という叫び声が背後でした。びっくりして振り返ると、コンベアの後端から顔をゆがめた小さな女性がこちらへ向けて走ってくる。
「見ろっ、おらーっ!。こんなもん寄こしてくんじゃねーっ」
 水色のエンボス手袋の上に彼女が差し出したのは二ミリほどの穴の開いた一個のコロッケだった。真っ赤な顔の眉間に二本の深いしわを立て、ほのかをにらみつけている。
「あっ。すみません、すみません」
「まじめにやれーっ」怒鳴り散らすとまた素早い駆け足で自分の部署へと戻っていった。ほのかは動転してしま
い、顔を上げることもできなかった。指先が震え、コロッケをうまくつかむことができない。涙がにじんだ。
「ホホホホホッ」甲高い声がどこからかした。班長の上村の笑声だった。

  ほのかの父親は九年前、忽然と家から姿を消した。当時勤めていた大手通信会社がライバルのIT企業に吸収合併されて、管理職の任を解かれ、一技術者として働き始めた、一週間ほどのちのことだった。父親の職場環境がその時どういうものであったのか、家に訪れた会社の人はうつむいたまま重く口を閉ざしたままだった。事情を聞き出そうと懸命に問いただす母に対し、わずかに語られた父の苦悩を当時小学三年生だったほのかに伝えられることはなかった。記憶にあるのは、ある日ほのかが学校から帰ると、濡れた衣類をきちんとたたんで籠にしまいながら、干すこともせずに物干しざおの下で丸く背をかがめ、呆然と西日に見入っている母の姿ばかりだった。
 母はそれから言葉遣いに覇気がなくなり、目に見えて物忘れがひどくなった。ほのかが会社勤めをするようになり家に一人でいる時間が多くなると、帰宅したほのかに、朝から何も食べていないとこぼしたり、父親と同じに私を捨ててどこかに行ってしまうのねと、食って掛かったりした。炊事、洗濯はおろか、買い物に出ることすらしない。真夜中に冷蔵庫にある生野菜を両手でつかんでバリバリ食べたり、ミカンに皮ごとむしゃぶりついたりする。しかしそうした行為が日中捨て置かれていることの自分に対するいやがらせだとほのかが確信できたのは、ごみ箱に空のワインボトルを発見したからだった。一時は認知症を疑っていたものの、まだ五十代半ばできちんとお酒を買ってこられる人がどうして炊事、洗濯のできないことがあろう。ぼけ老人を装っているつもりなのであろうか。日中はワインを飲んでだらだらとテレビを見ている母親を心配するだけばからしい、そう思うようになった。むしろ吞んでいてくれるほうが上機嫌で、醜い面当ての言葉を聞かなくて済むので気疲れしない。
「ああ――今日もお昼ごはん、抜きだったから朝から何も食べてない。こんなにやせちゃって。とっとと早くなんか作れ」
 とろんとした目でうそぶく母に、工場勤めでぐったりして帰宅したほのかが、
「お母さんお酒切れたの?。別に昼間あたしに隠れて飲まなくっても、夜も堂々と吞んだらいいじゃない。ついでにコンビニでお弁当も買ってきてくれると助かるんだけど。」そう無気力に言い放つと、
「ういーっ!」と奇声を上げ、何やら白いポリ袋を投げつけてきた。とっさによけたほのかの背後で、食器戸棚のガラスが割れ、まだ封を切っていないウイスキーの小瓶が戸棚にあった湯飲み茶わんを粉砕していた。
 二階の自室に戻り鍵をかけてパソコンを開く。メールの着信履歴からタカユキの名をクリック。階下から母の怒鳴り声がするので耳栓をはめ、パーカーのフードをかぶってヘッドフォンを付けた。
      FROM高行

【お元気ですか。就職決まったそうでおめでとう。今年は例年にない就職氷河期だったようで、僕の後輩も三十、四十の会社に応募しても面接にこぎつけることすらできない者がざらにいると耳にした。東京ですらこうなのだから、群馬の地元にいて親元から通勤できる君はかえってラッキーだったかもね。正解だよ、そっちにいてね。僕は相変わらず穴倉暮らしだ。穴倉、というのはオフィスは地上十八階で、壁もガラス張りだから日はさんさんと注いでいるんだけど、朝から晩までパソコンのディスプレイをにらんでいると周囲がとっさに真っ暗闇に見えることがたまにあるんだ。取引先の病院から送られてくる、膨大なデータを数式に変換して、ひたすらパソコンに入力していく、実に単調でやりきれない仕事だよ。常に納期に追いまくられているんで最近は八時、九時まで残業している。休日もたまに出勤するんだ。上司は「あくまで本人の意思で」、なんてうまいこと言うけど、みんなそうしているから嫌とは言えないんだ。今年の夏はそちらへは行けそうにない。ほのちゃんに会いたかったけど、このソフトが完成するまで、まだ二年か三年はかかるだろう。仕事だと思ってあきらめている。でも暮れには何があっても会いに行くから、その時には必ず会える。お互い今は辛抱の時だね。というか、そんな嫌な時代なんだ】
 ほのかはふと、戸棚に立てかけてある写真立てを見た。初めてタカユキと出会った、長野県北アルプスの穂高連峰の中腹、涸沢小屋で撮った、スナップだった。ほのかたちワンゲル部五人パーティーがしゃがんで笑っている背後に、褐色に日焼けした胸板の熱い男が腕組みして立っている。朗らかで自信に満ちたタカユキの陽気な笑顔が、標高三千メートルの紺碧の空にくっきりと刻印されている。
 階下から、食器の割れるような音がかすかにした。
 パソコンのキーに、がっくりとうなだれたほのかの涙が染みていった。


   幅三十センチほどのベルトの上を、次から次へとコロッケが運ばれていく。何も考えないで手さえ動かしていれば作業は進んだ。むしろ頭を空っぽにしていたほうがミスは少なかった。高校のころは学力テストで常に上位にいたほのかからすると無思考を強制されているようで、ついあれこれと雑念が浮かんでしまう。中学、高校で学んできたことは、あれはいったい何だったのかしら――微積分や英文法が、今の私にどうだっていうの。そして最後は決まってタカユキの挙措が頭に浮かんだ。稜線で、自分たちをザイルで確保してくれた時のあのたくましい肩、どっしりとした腰回り。そして首筋に光る汗…。思い出に浸っているその時だった。
「オラーっ!」けたたましい怒声が構内に響き渡った。
 ことあるごとにほのかにつらく当たる女、根本の声だった。やせた小さい体をしているが動作は機敏でいつも眉間にしわを寄せている。ほのかはこれまで幾度彼女に怒鳴られたか知れなかった。
「おまえ、なにぼけっとやってんだーッ!、コンテナもってこいっ」
 はッとして振り返ると、ラインの中心にあるラッピングマシンに包装紙が詰まり、マシンに向かって作業中のコンベアが容赦なく運んでくるコロッケを全員が手作業で回収していた。ほのかは言われたとおりに慌てて空箱を取りに走った。
「緊急停止っ。製造部に伝えてっ」班長の声が響く。ライン全体が停止し、各部署でかき集められたコロッケが山となり、三箱、四箱と台車に積み上げられていく。
「光石っ。お前こっちこいっ」
「はいっ」
 根元に連れていかれたのはフリーザーの中だった。真っ白に霜の吹いたうす暗い小部屋の中で、大型船のスクリューのような巨大なスパイラル状の機械が直立したまま回転していた。その上をやはり霜がついた無数のコロッケがゆっくりと回転しつつ降りてくる。ラインの大元、つまり製造部はこの天井の上にあるのだ。
「いい?。あたしが外から手渡しするから、ここにおけるだけ積んでいって」
「は、はいっ」
 庫内はくっきりと息が形になるほどの寒さだった。すぐにまつげも凍り付き、鼻毛が凍って鼻梁がごわついたような違和感を覚えた。コロッケの詰まった箱を四段も積むと、ほのかの身長ではそれ以上積み上げるのができなくなったが、根本は休む間もなく箱を差し入れてくる。半開きになった扉の向こうにまだ台車に乗った箱の山が三台もあった。仕方なく隣に一段ずつ積んでいき、その山が三列目、四列目になったころ、ほのかは喉の奥が痛くなった。息が上がるので口を開くとのどの奥が寒気でひりついてくるのだ。まだ終わらないのか、まだかしら…泣きたい気持ちで念じていると小部屋の大半が箱で占領されたころ、ようやく根本の動きが止まった。救われた、そう思い外へ出ようとすると、スウと彼女の片腕がほのかを制した。
「まだまだ、あるからあなたは入ってて」
「あの、もう置くスペースが――」声がかすれて出しにくい。
『置けるんでしょ?」「置けますけど…」「じゃあ、そこに置いたらいいじゃない」「あの、私もう十分近く入っているんです。誰かと後退してもらえませんか」「交代してほしいの」「ええ、お願いします」
「じゃあ、根本さん、お願いですから交代してくださいって、言ってごらん」
 ほのかは寒気でパリついた瞳で根本の顔を注視した。
「言ってごらん。根本さん、助けてくださいって、言ってごらん。さあ」
「…根本さん、冬山へ行ったことありますか。お正月の八ヶ岳の寒さったら、こんなもんじゃなかったわ」
 そういってほのかが不敵な笑みをこぼした時だった。
「どう、こっちの様子は。まだ入りそう?」
 緊張した面持ちで班長が割り込んできた。「あらっ、光石さん、あなた防寒着も着ないで大丈夫?」
 ハッとしてほのかが根元を振り返ると、
「だってこの人、あたしが渡そうとしたのに勝手に入って行っちゃうんだもん」根本は不服そうに口をとがらせそういうと、クルリと向きを変えて消えてしまった。
 防寒着は庫内の扉側にきちんと二着つるしてあった。ずっと以前から自分は見ていたはずなのに、根本に命令されるまま何も考えずに冷凍庫に入ってしまった。自分の無思慮がほのかには悔しさより逆におっちょひちょいに思われて、おかしくてならないのだった。
「あたしは大丈夫、大丈夫――」そう心の中で呟きながら、ほのかはぐっとユニフォームの胸のあたりを握りしめた。

























































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