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第九十二話【居場所】
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それから暫くして、私は会社を辞めた。
私は旭岡先輩が既婚者だということを知らなかった。故に私は被害者。法律上はそうだった。しかし、私の周りは違った。先輩と女性社員に処分が下った直後から、私の周りは再び変わり始めた。距離を縮めていた同僚は以前よりも距離を取って来たし、慕ってくれていた後輩も業務上必要な最低限の会話しかしてくれなくなった。私は社内で完全に腫れもの扱いされ、浮いた存在になった。最初は元に戻っただけだと思っていたが、遂には陰口を叩かれるようになった。
「あの二人は処分されたのに、あの子は残ってるんだ」
「神経図太過ぎ」
「如何にもな陰キャだし、あれは騙されるわ」
「私だったら恥ずかしくて辞めちゃうな」
オフィスでも食堂でもトイレでも、私に聞こえるくらいわざと大きな声で繰り広げられる会話を何度聞いただろう。しまいには、陰口の幻聴まで聞こえるようになった。上司も私のことを快く思っていなかったのだろう、騒動が起きる以前から関わっていたプロジェクトから何の問題もないのに外されてしまった。最早、会社には私の居場所など、どこにもなかった。
これが不倫の代償か。美海さんとお酒を飲んだ日、少しばかり軽くなったと思っていた心が一段と沈んで行った。
「……こっち、帰って来たら?」
どうしても耐えられなくなったある日、私は地元の親友にこの騒動のことを打ち明けた。麗とは最近も連絡を取り合っていたが、この話をするのは初めてだった。親にも打ち明けていないことを私は泣きながら電話口で話す。彼女は親身になって聞いてくれた。そして、私が全てを話し終えると、静かにそう言った。
「確かに不倫をしてしまったっていう事実は消せないけど……それでさくらが責められたり、そんな扱い受けるなんておかしいよ。あんただって被害者なんだから」
久しぶりに私の存在を肯定された気がした。最低三年は勤めろ……就職が決まった際、古い昭和の考えを持った両親に言われた言葉だった。私は必死にそれを守ろうとしたが、もうこれ以上は無理だと思った。麗と話した一週間後、私は退職した。
そして、実家に戻った。生まれ育った家なら、私を受け入れてくれると、肯定してくれると思った。でも、現実は厳しかった。事の経緯を家族に洗い浚い話すと、慰めの言葉どころか「騙されるお前が悪い」「恥ずかしい」「そのくらいで会社を辞めるなんて」という言葉を浴びせられた。ここにも私の居場所はなかった。実家に戻り、ひと月もしないうちに家を出た。
そして、今に至る。
「……寒っ」
気が付くと、寝室のカーテンの隙間から薄っすらと光が漏れていた。時刻は午前七時を回っていた。どうやら私は、あのまま寝てしまったらしい。コートを着ているのに寒いと感じる程、室内は冷えている。私はヒーターを点けると、コートを脱いでヒーターの前に蹲った。足元から温かい風が出て来る。段々と温まって来ている筈なのに、私の心は冬の寒空に晒されているかのように冷たかった。
事実は小説より奇なり、とは正しく今の私の状態を言うのだろうか。いや、私の様な経験をしている人は一定数はいると思う。只、自分の身に起きるとは思っていなかっただけ。不倫された彼と、不倫をした私……双極にいなければならなかった存在が惹かれ合ってしまった。どうして神様は再び私たちを会わせたのだろう。どうして恋をさせたのだろう。どうしてその恋を実らせたのだろう。あんまりだ。
離れたくないけれど、きっと私は隆康さんから離れるべきだ。一緒にいるべきじゃない。そう思うと、涙が溢れて止まらなくなった。嫌だという思いと、離れなければという思いが頭の中で衝突し、自分でもどうすればいいかわからなくなってしまう。
そうしているうちに、再び眠気に襲われた。
このまま眠って、目が覚めたら時が戻っていないかな……隆康さんと再会する前……いや、出会う前に。そうすれば、好きになったりしないかもしれない。苦しい思いもしないかもしれない。全て上手くやり直せるかもしれない。馬鹿で幼稚で現実離れした希望だ。
結局、そのまま眠ってしまったが時が戻っているなんてことはなく、無理な姿勢で眠った為、身体中が痛みで悲鳴を上げただけだった。そして、自分の中で結論を出せないまま、一日、また一日と過ぎて行った。
私は旭岡先輩が既婚者だということを知らなかった。故に私は被害者。法律上はそうだった。しかし、私の周りは違った。先輩と女性社員に処分が下った直後から、私の周りは再び変わり始めた。距離を縮めていた同僚は以前よりも距離を取って来たし、慕ってくれていた後輩も業務上必要な最低限の会話しかしてくれなくなった。私は社内で完全に腫れもの扱いされ、浮いた存在になった。最初は元に戻っただけだと思っていたが、遂には陰口を叩かれるようになった。
「あの二人は処分されたのに、あの子は残ってるんだ」
「神経図太過ぎ」
「如何にもな陰キャだし、あれは騙されるわ」
「私だったら恥ずかしくて辞めちゃうな」
オフィスでも食堂でもトイレでも、私に聞こえるくらいわざと大きな声で繰り広げられる会話を何度聞いただろう。しまいには、陰口の幻聴まで聞こえるようになった。上司も私のことを快く思っていなかったのだろう、騒動が起きる以前から関わっていたプロジェクトから何の問題もないのに外されてしまった。最早、会社には私の居場所など、どこにもなかった。
これが不倫の代償か。美海さんとお酒を飲んだ日、少しばかり軽くなったと思っていた心が一段と沈んで行った。
「……こっち、帰って来たら?」
どうしても耐えられなくなったある日、私は地元の親友にこの騒動のことを打ち明けた。麗とは最近も連絡を取り合っていたが、この話をするのは初めてだった。親にも打ち明けていないことを私は泣きながら電話口で話す。彼女は親身になって聞いてくれた。そして、私が全てを話し終えると、静かにそう言った。
「確かに不倫をしてしまったっていう事実は消せないけど……それでさくらが責められたり、そんな扱い受けるなんておかしいよ。あんただって被害者なんだから」
久しぶりに私の存在を肯定された気がした。最低三年は勤めろ……就職が決まった際、古い昭和の考えを持った両親に言われた言葉だった。私は必死にそれを守ろうとしたが、もうこれ以上は無理だと思った。麗と話した一週間後、私は退職した。
そして、実家に戻った。生まれ育った家なら、私を受け入れてくれると、肯定してくれると思った。でも、現実は厳しかった。事の経緯を家族に洗い浚い話すと、慰めの言葉どころか「騙されるお前が悪い」「恥ずかしい」「そのくらいで会社を辞めるなんて」という言葉を浴びせられた。ここにも私の居場所はなかった。実家に戻り、ひと月もしないうちに家を出た。
そして、今に至る。
「……寒っ」
気が付くと、寝室のカーテンの隙間から薄っすらと光が漏れていた。時刻は午前七時を回っていた。どうやら私は、あのまま寝てしまったらしい。コートを着ているのに寒いと感じる程、室内は冷えている。私はヒーターを点けると、コートを脱いでヒーターの前に蹲った。足元から温かい風が出て来る。段々と温まって来ている筈なのに、私の心は冬の寒空に晒されているかのように冷たかった。
事実は小説より奇なり、とは正しく今の私の状態を言うのだろうか。いや、私の様な経験をしている人は一定数はいると思う。只、自分の身に起きるとは思っていなかっただけ。不倫された彼と、不倫をした私……双極にいなければならなかった存在が惹かれ合ってしまった。どうして神様は再び私たちを会わせたのだろう。どうして恋をさせたのだろう。どうしてその恋を実らせたのだろう。あんまりだ。
離れたくないけれど、きっと私は隆康さんから離れるべきだ。一緒にいるべきじゃない。そう思うと、涙が溢れて止まらなくなった。嫌だという思いと、離れなければという思いが頭の中で衝突し、自分でもどうすればいいかわからなくなってしまう。
そうしているうちに、再び眠気に襲われた。
このまま眠って、目が覚めたら時が戻っていないかな……隆康さんと再会する前……いや、出会う前に。そうすれば、好きになったりしないかもしれない。苦しい思いもしないかもしれない。全て上手くやり直せるかもしれない。馬鹿で幼稚で現実離れした希望だ。
結局、そのまま眠ってしまったが時が戻っているなんてことはなく、無理な姿勢で眠った為、身体中が痛みで悲鳴を上げただけだった。そして、自分の中で結論を出せないまま、一日、また一日と過ぎて行った。
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