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ふうと一息ついて翔吾は考える。
もうミホちゃんのところに行くのはやめよう。
相手が本気になると面倒なのだ。過去にストーカーまがいのことをされたこともあったし、「恋人と別れろ」と刃物で脅されたこともあった。最近はそういったことが起きないように言動には慎重になってはいるものの、それでも勘違いする女は出てくる。経験豊富な年上だから安全ということもない。
山の稜線だけが僅かに橙色で、空のほとんどは闇に染まっている。
退勤のサラリーマンがちらほらいる電車に乗った。
田舎の電車など、通勤ラッシュを過ぎてしまえば隙間だらけだ。シートに座ると、離れたところで、よちよちと歩きたがる子どもをあやす母親の困った顔が見えた。
そうそう、ああいう『子ども思い』みたいな母親が俺と遊びたいとか言い出すんだよ。
胸も尻も大きくて、何か月も前に染めた髪の根本が黒くなっていて、ファンデーションで隠していても肌のあちこちがくすんでいて、そんな女が疲れを癒したくて金を払うんだよ。食い終わった自分の食器も片づけない子どもみたいな夫から開放されたくて服を脱ぐんだよ。
観察していた母親と視線が合う。翔吾が笑顔をつくると、彼女は見てはいけないものを見たように顔を背け、腰が丸見えになっていた服の裾を直した。
翔吾の大きな瞳は、男女問わず多くの人々を魅了する。星の瞬きのような薄茶色のきらめきに惑わされ、椿の花弁を当てたような色の唇に唾を飲み、きめ細やかで凹凸のある首筋に腹の奥を疼かせる。
愛想を振りまいているいるうちに目的の駅に停車した。窓に点々と水滴が伝っている。子どもと母親が降りるのを待ってから立ち上がった。
地下道を通って地上に出ると、やはり雨が振り出していた。六月の熱に蒸させた匂いが広がっている。傘が無くても大して濡れはしないが、水滴が視界を遮っていくのが煩わしい。居酒屋の立ち並ぶアーケードの中を歩いて、ふとバックポケットに入れていたポチ袋の中身を確認した。三枚の福澤諭吉が収まっている。それだけ抜き取り、袋は備え付けの灰皿に落とした。
アーケードから少し離れた裏路地に、ほとんど自宅と言っていいにアパートがある。築年数は古いが、中はリフォームされていて嫌悪感はない。モノトーンに揃えられた家具にリネン。花も無ければぬいぐるみもない。二列三段の真っ黒な本棚の上にアクセサリーが飾られているだけの洒落っ気のない1Kだが、シンプルで安心できる。
学生の時に時が止まったような、埃臭くてゴミだらけの自分の部屋とは比べものにならないくらい小綺麗で清潔な部屋だ。
そんな恋人の住処に向かいながら、翔吾は雨から逃れるように歩みを早くする。
夕立に長い髪を濡らしたまま、冷房の効いたスーパーで缶ビールとカップに入ったレアチーズケーキを二つずつ買った。
アパートの鉄階段を登って合鍵で中に入ると、室内は暗く、静寂に包まれている。翔吾は靴を脱ぎ捨て、冷蔵庫にビニール袋入れた後、壁とこたつの間にある長座布団の上に寝転がった。足をこたつ布団の中に潜り込ませる。
セックスは体力をつかう。
気怠く冷たい体を人工的な熱がじんわりと温めていく。全身から冷えが取れた頃にはもう意識が朦朧としていた。
嗅覚が何かに引っ張られて、微睡からじんわりと目覚めた。
肉と野菜と、濃厚なクリームの匂いに包まれている。
「あれ……いつ帰ってきたの?」
巣から出てきたネズミのように翔吾が起き上がると、部屋の外にあるキッチンスペースに立つ恋人――佐々木律(ささきりつ)が彼のほうに顔を向けた。日本人形のような長い後ろ髪が背中に貼り付いている。露が湖に落ちたような声で、律は簡潔に呟いた。
「三十分くらい前」
「声掛けろよ」
「ぐっすり寝てたから、ごはん出来たら起こそうと思って」
律はほとんど無表情で、煮立ったシチュー混ぜていた。
翔吾が座ったまま伸びをして、飲み物を取りに向かう。彼女のアンニュイな猫のような双眸を無視して、冷蔵庫から出した烏龍茶でコップを満たした。
「俺のやつ、ごはんに掛けて」
炊飯器が湯気を立てている。翔吾はこの蒸された匂いが好きだった。まともな生活を営んでいるという匂いがする。
ついでに律のぶんの茶も注いで部屋に戻った。
盆に乗せられたシチューと白米が届くと、翔吾はそれをぐっちゃぐっちゃと混ぜ始めた。
「今日は何をしてたの?」
対角に座る律がスプーンを口に運ばないまま尋ねる。
「パチ屋に行って、飯食って、古着屋に行ってきた」
「ふうん……そうなんだ」
納得していない様子である。幼いころからの付き合いだから互いに嘘など通じないのは分かっていた。それでも『隠したいことは隠したままにさせてあげよう』という心遣いで見逃されている。
「おかわりは?」
「要らね」
もともと山のように盛ってあったし。
食べ終えてそのまま寝そべった彼を見ても、律は何も言わなかった。二人ぶんの食器をシンクに運ぶ彼女を盗み見ながら、翔吾はいつもと変わらぬ風景のつまらない安心感にだらけ、疲れを癒していく。
泡が水と空気を含んで弾けるように膨らみ、流水がシンクを叩く涼し気な音が聞こえてくる。
当時まだ大きいと思っていた母の後ろ姿を思い出し、目を瞑った。
「……また寝るの?」
瞼の裏が暗くなった。目を開くと律に見下ろされていた。
「ダメ?」
「ダメじゃないけど」
翔吾が手を伸ばして、前屈みになった律の頬を撫でる。彼女の黒い髪が天蓋のように落ちる。
「俺のこと好き?」
「好きだよ」
彼女は小さな笑い声を上げてその場に座すと「嫌いにならないよ」と翔吾の頭を抱きしめた。
「愛してる? どこにもいかない?」
「うん」
甘えるような問いを続けながら、翔吾がついばむように律に口づける。
骨ばった手が律のシャツを捲り上げ、露わになった胸元に唇を寄せる。律の控えめな吐息に、ミホちゃんに精気を吸い取られたはずの翔吾の体が反応していく。
翔吾は律の体を倒すと、髪をかき上げてから恋人のブラウスのボタンを外し、短いスカートの中身を丁寧に暴いていった。
もうミホちゃんのところに行くのはやめよう。
相手が本気になると面倒なのだ。過去にストーカーまがいのことをされたこともあったし、「恋人と別れろ」と刃物で脅されたこともあった。最近はそういったことが起きないように言動には慎重になってはいるものの、それでも勘違いする女は出てくる。経験豊富な年上だから安全ということもない。
山の稜線だけが僅かに橙色で、空のほとんどは闇に染まっている。
退勤のサラリーマンがちらほらいる電車に乗った。
田舎の電車など、通勤ラッシュを過ぎてしまえば隙間だらけだ。シートに座ると、離れたところで、よちよちと歩きたがる子どもをあやす母親の困った顔が見えた。
そうそう、ああいう『子ども思い』みたいな母親が俺と遊びたいとか言い出すんだよ。
胸も尻も大きくて、何か月も前に染めた髪の根本が黒くなっていて、ファンデーションで隠していても肌のあちこちがくすんでいて、そんな女が疲れを癒したくて金を払うんだよ。食い終わった自分の食器も片づけない子どもみたいな夫から開放されたくて服を脱ぐんだよ。
観察していた母親と視線が合う。翔吾が笑顔をつくると、彼女は見てはいけないものを見たように顔を背け、腰が丸見えになっていた服の裾を直した。
翔吾の大きな瞳は、男女問わず多くの人々を魅了する。星の瞬きのような薄茶色のきらめきに惑わされ、椿の花弁を当てたような色の唇に唾を飲み、きめ細やかで凹凸のある首筋に腹の奥を疼かせる。
愛想を振りまいているいるうちに目的の駅に停車した。窓に点々と水滴が伝っている。子どもと母親が降りるのを待ってから立ち上がった。
地下道を通って地上に出ると、やはり雨が振り出していた。六月の熱に蒸させた匂いが広がっている。傘が無くても大して濡れはしないが、水滴が視界を遮っていくのが煩わしい。居酒屋の立ち並ぶアーケードの中を歩いて、ふとバックポケットに入れていたポチ袋の中身を確認した。三枚の福澤諭吉が収まっている。それだけ抜き取り、袋は備え付けの灰皿に落とした。
アーケードから少し離れた裏路地に、ほとんど自宅と言っていいにアパートがある。築年数は古いが、中はリフォームされていて嫌悪感はない。モノトーンに揃えられた家具にリネン。花も無ければぬいぐるみもない。二列三段の真っ黒な本棚の上にアクセサリーが飾られているだけの洒落っ気のない1Kだが、シンプルで安心できる。
学生の時に時が止まったような、埃臭くてゴミだらけの自分の部屋とは比べものにならないくらい小綺麗で清潔な部屋だ。
そんな恋人の住処に向かいながら、翔吾は雨から逃れるように歩みを早くする。
夕立に長い髪を濡らしたまま、冷房の効いたスーパーで缶ビールとカップに入ったレアチーズケーキを二つずつ買った。
アパートの鉄階段を登って合鍵で中に入ると、室内は暗く、静寂に包まれている。翔吾は靴を脱ぎ捨て、冷蔵庫にビニール袋入れた後、壁とこたつの間にある長座布団の上に寝転がった。足をこたつ布団の中に潜り込ませる。
セックスは体力をつかう。
気怠く冷たい体を人工的な熱がじんわりと温めていく。全身から冷えが取れた頃にはもう意識が朦朧としていた。
嗅覚が何かに引っ張られて、微睡からじんわりと目覚めた。
肉と野菜と、濃厚なクリームの匂いに包まれている。
「あれ……いつ帰ってきたの?」
巣から出てきたネズミのように翔吾が起き上がると、部屋の外にあるキッチンスペースに立つ恋人――佐々木律(ささきりつ)が彼のほうに顔を向けた。日本人形のような長い後ろ髪が背中に貼り付いている。露が湖に落ちたような声で、律は簡潔に呟いた。
「三十分くらい前」
「声掛けろよ」
「ぐっすり寝てたから、ごはん出来たら起こそうと思って」
律はほとんど無表情で、煮立ったシチュー混ぜていた。
翔吾が座ったまま伸びをして、飲み物を取りに向かう。彼女のアンニュイな猫のような双眸を無視して、冷蔵庫から出した烏龍茶でコップを満たした。
「俺のやつ、ごはんに掛けて」
炊飯器が湯気を立てている。翔吾はこの蒸された匂いが好きだった。まともな生活を営んでいるという匂いがする。
ついでに律のぶんの茶も注いで部屋に戻った。
盆に乗せられたシチューと白米が届くと、翔吾はそれをぐっちゃぐっちゃと混ぜ始めた。
「今日は何をしてたの?」
対角に座る律がスプーンを口に運ばないまま尋ねる。
「パチ屋に行って、飯食って、古着屋に行ってきた」
「ふうん……そうなんだ」
納得していない様子である。幼いころからの付き合いだから互いに嘘など通じないのは分かっていた。それでも『隠したいことは隠したままにさせてあげよう』という心遣いで見逃されている。
「おかわりは?」
「要らね」
もともと山のように盛ってあったし。
食べ終えてそのまま寝そべった彼を見ても、律は何も言わなかった。二人ぶんの食器をシンクに運ぶ彼女を盗み見ながら、翔吾はいつもと変わらぬ風景のつまらない安心感にだらけ、疲れを癒していく。
泡が水と空気を含んで弾けるように膨らみ、流水がシンクを叩く涼し気な音が聞こえてくる。
当時まだ大きいと思っていた母の後ろ姿を思い出し、目を瞑った。
「……また寝るの?」
瞼の裏が暗くなった。目を開くと律に見下ろされていた。
「ダメ?」
「ダメじゃないけど」
翔吾が手を伸ばして、前屈みになった律の頬を撫でる。彼女の黒い髪が天蓋のように落ちる。
「俺のこと好き?」
「好きだよ」
彼女は小さな笑い声を上げてその場に座すと「嫌いにならないよ」と翔吾の頭を抱きしめた。
「愛してる? どこにもいかない?」
「うん」
甘えるような問いを続けながら、翔吾がついばむように律に口づける。
骨ばった手が律のシャツを捲り上げ、露わになった胸元に唇を寄せる。律の控えめな吐息に、ミホちゃんに精気を吸い取られたはずの翔吾の体が反応していく。
翔吾は律の体を倒すと、髪をかき上げてから恋人のブラウスのボタンを外し、短いスカートの中身を丁寧に暴いていった。
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