癒しのハーブはきみを変える

九竜ツバサ

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 泥を被ったように重い体を起こして、翔吾は「今日は帰る」とスマートフォンを見た。
 もう零時を過ぎている。

「今日、おばさんにお金渡す日?」

 ベッドに体を横たえたまま、裸の律は、眉を下げる。
 そう、と翔吾は財布の中身を数え、先ほどの行の名残を僅かも感じさせない冷えた声で答えた。

「今月五万負けたから、足りないって怒られる」

 重いものを乗せられたように肩を落とした彼を見て、律は財布から何枚かの札を掴むと、そのまま翔吾の胸に押し付けた。

「これ、使って」

 躊躇う――ふり。指先はすぐに紙幣の細かな凹凸をなぞっていた。

「いいのか? 悪いな、ありがとう。後で絶対返すから」

 翔吾の『絶対』が叶うことなど、七夕にお願いごとをするのと同じくらい期待できないことだとを律は知っている。これは合言葉みたいなものだ。一応、まともな人間らしくあるための。

 翔吾は安堵し口角を上げて、盗んだものを隠すようにポケットの中に押し込んだ。そして緩んだ顔を隠さないままウエストバッグから黒いエナメルのメイクポーチを取り出す。テーブルの上に化粧品が散らばる。

 これは儀式だ。

 安物の化粧下地を抜き出し、慣れた手つきで顔一面に塗っていく。ティッシュで軽く押さえて、粉ファンデーションを叩き、手鏡を覗き込みながらラメと赤みのあるアイシャドウで瞼を飾る。マスカラとカーラーで睫毛を上げて、最後にプラム色のリップグロスを滑らせたら、どこからどう見ても女性である。

「翔ちゃんやっぱり上手だね」
「十年以上やってるからな」
「翔ちゃんはそのままでも可愛いのに、おばさん気付かないんだね」
「そういうの狂ってるから、あの人。ていうか可愛いって言うな」

 顔を顰めてからすぐにふっと口元を緩ませ、「じゃ、行くわ」とバッグを身に着ける翔吾に、裸のままの律は声ををかけようかどうかと逡巡したが、結局口を噤んだ。夜の静寂に寂しいという思いだけが置き去りにされる。
 彼は律を置いてけぼりにして玄関に向かう。律は追いかけずにタオルケットで身を隠したまま手を振った。

「また来る」




 雨上がりの蒸した夜風が、しつこくまとわりついてくる。
 闇が深いのに、居酒屋の置き看板や提灯は煌々としている。
 ミホちゃんと律に貰った金で財布が潤い、遊びたくなる気持ちをぐっと堪えて翔吾は帰路に就く。すれ違う何人かが翔吾を見ては立ち止まり、声をかけたそうに口をパクパクさせていた。

 人生は簡単だ。
 顔がいいだけで人から注目され、親切にされる。
 忘れた頃に落ちてくる雨粒に顔を顰めながら、街灯の少ない道路を歩く。病院の前はひっそりとしていて、その先はますます暗い。道路沿いにある特徴のない二階建てのアパートの、一階の左端の部屋が翔吾と母親の住処だった。

 一つ咳をしてから、翔吾は開錠した。
 ダイニングへ向かうと、母――金沢陽子(ようこ)が、パート先から貰ってきた廃棄弁当を食べていた。

「あら、翔ちゃんおかえり」

 柔らかな声に導かれ、陽子の向かいに座ると、「食べる?」と食べさしのそれを指差され、首を横に振った。

「夕飯どこで食べてきたの?」
「律のとこ」
「あとは? 何してたの?」

 陽子の汚い咀嚼音。気分が悪くて、古いシステムキッチンに置かれたレジ袋を見た。ビニール袋の中で缶ビールが汗をかいていた。

「……しごと」

 浅く息を吸って呟く。
 シーリングライトの青白い光が陽子の目の下に濃いくまを作っている。
 彼女は笑顔という判子を押したような顔で、乞うように手の平を翔吾に向けた。

「明日返済日なの。覚えてるよね? 今月のぶんある?」

 喉の途中で空気の出入りが止まりそうになりながら、翔吾は操られたようにポケットから財布を取り出す。
 冷たい指先で札を正確に十枚数えると、しつけのよい犬のように陽子の手に乗せた。

 その瞬間、ぱっと花が咲いたように顔をほころばせた陽子は、強盗犯のような素早さで金を自分の財布に押し込んだ。

「今月もお疲れさまでした。一緒にビール飲もっ」
 母は声を弾ませた。
 しかし翔吾はファンデーションが落ちそうなほど額に汗を滲ませて遠慮した。この一連のやり取りが嫌いだ。金を渡せなかったときのことを考えると、胃が絞られて捩じ切れるような恐怖に駆られる。

「うふふ。じゃあ翔ちゃん、もっとお顔見せて」

 言い終わらないうちに、陽子のミイラみたいな両手に頬を挟まれて、翔吾は仕方なく母を見据える。

「可愛いねえ。若いころの私に似てる。お化粧しないとお父さん似だけど、お母さんに似てた方がいいもんねえ」

 可愛い可愛いと繰り返し、飽きたころに翔吾を解放した陽子は、そのままビールを開けて酔っぱらい始めた。

 低い声で、パート先の従業員の愚痴を言い、施設にいるボケた義母の話、借金があるのにパチンコ屋に通う別居中の夫の話を低い声で呟いた。
 母の濁って虚ろな目に、完璧な化粧を施した翔吾が映っている。話に付き合うのが億劫で逃げるように自室に籠った。物置と化している室内で、照明もつけずに湿った布団を引き、化粧も落とさず目を閉じた。
 近所の犬が低く鳴いている。律のところで昼寝をしたせいか、眼が冴えてしまっていた。尻に敷いていた財布を顔の前で眺める。もう僅かな小銭しか入っていない。

 明日は看護師のサッちゃんと会う約束をしているから、ある程度の金は手に入る。しかしその次の予定はどうだったか。
 小遣いを貰ったらパチンコとカラオケで遊ぶ。大学の友人に包むご祝儀は残しておかなければいけないことを忘れないようにしないと。

 携帯でパチスロの最新機種の設定と攻略法を確認する。
 確率の数字を目で追っていたら、うつらうつらとしてきて、いつの間にか意識が飛んでいた。

 淡い夢を見たような気がするが、忘れてしまった。朝になっても部屋はかび臭かった。


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