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「屁が出そうで……」
屁ぇえ?と翔吾が靴底で踏まれたような声を上げた。
「そんなこと気にすんなよ」
男同士なんだから、と言いそうになって口の周りを硬くする。
「気になるんだよ。学生の時からずっとそうなんだ。緊張すると腹の調子が悪くなる。デスクワークなんて地獄だった。人が大勢いるところで屁なんかこいてみろよ。裏で何言われるか……」
頭を抱える竜也は、まるでウジ虫のようだった。
人に変に思われないか、嫌われやしないか、そう悩む気持ちは身に覚えがあった。
今でこそ慣れてしまったが、翔吾も母親の為に女装をし始めた頃は緊張しながら外を歩いたものだった。ずっと横隔膜が痙攣しているような気持ち悪さに、急激に食欲が無くなった時期があった。それでも病院にはかかれなかった。金がないのもあったが、『どうして? どういう状況で?』という問いに答えるのが恥ずかしかった。
一度正社員で働いていた職場の後輩に見られたことがある。翌日には「気持ち悪い」「変態」と噂になっていた。下卑た視線に耐えられなかった。
「分かる、私もそんなことあったから。ストレスって腹にくるよな」
竜也は沼から顔を出した妖怪みたいにじろりと翔吾を見た。人間不信の妖怪だ。
「『あった』って今は違うのか? どうやって治したんだよ」
「仕事辞めた」
「僕と同じじゃないか」
「でも今はバイトしてるし」
人間不信の妖怪は半信半疑を強調するように目を半分にして、水を啜った。
「ようは環境を変えたんだよ」
コップが音を立てずにテーブルに着地する。
「自分を認めてくれるところ。竜也は屁やうんこ漏らすのが恥ずかしいんだろ? だったらそれが気にならないところにいけばいいじゃん」
「そんな都合のいいところあるか? 僕は今までサラリーマンしかやったことないんだぞ」
「別にサラリーマンじゃなくてもいいだろ。いいとこ紹介するよ。竜也ならきっと楽しめると思うよ」
含み笑いをしてから、翔吾はあんみつを平らげた。竜也は思考を整理するようにゆっくりとそばを咀嚼して、コップの氷も一つ残さず噛み砕いてから「ふうん」と鼻を鳴らした。
店を出て、疲れきった様子の竜也と遊び足りない翔吾は連絡先を交換して互いに違うタクシーに乗った。
「また誘ってくれ」
手を上げた竜也は体重が何キロか落ちたような顔をしていた。
後日、明恵は発光しそうな笑みを浮かべながら店を訪ねて来た。
そして早々、小ぶりの紙袋を翔吾に手渡した。
「先日頂いたお茶、息子が気に入ってね。もう無くなりそうなんですよ。また作って頂きたくって。あ、今日じゃなくていいんです。沢山欲しいから、また後で受け取りに来ます。息子、仕事を始めたんですよ。バイトなんですけど、ちゃんと時間通りに行って、あんなシャキッとしたところ久しぶりに見て感動してしまいました。翔子さんのお蔭です。本当にありがとうございました」
マシンガンのように話して、明恵は帰って行った。台風にあったような気持ちで、翔吾は呆然とする。
「どなたか来ました?」
背後から声を掛けられて、漸く居間に戻った。
美鈴が紙袋の中の包装された箱を覗く。
「わあ、これSNSで話題になっていた和菓子屋さんのお饅頭ですね」
「後で食べましょうか」
明恵が注文の為に来訪したことを告げると、美鈴が指を折りながら「レモングラスとペパーミントですね」と翔吾に微笑み掛けた。
「胃腸の不調に効果的なハーブ。レモンに似た酸味と爽やかさで飲みやすく、まだ暑いこの季節にもぴったりです。素晴らしいブレンドですね」
「竜也君が腹の調子のことを気にしてたので、合うんじゃないかと思って」
褒められたことがくすぐったくて髪の毛をいじっていると、美鈴の腹がポコンと跳ねた。
「今日はいつにも増して元気なんですよ」
美鈴が母の顔で腹を撫でる。
「ブレンドの続きしますね」
翔吾は暗い廊下を、床板を軋ませながら歩いた。
――律はもう十六週目くらいか。
金を貯めなければ。そう言い聞かせるとこめかみが痛くなった。
屁ぇえ?と翔吾が靴底で踏まれたような声を上げた。
「そんなこと気にすんなよ」
男同士なんだから、と言いそうになって口の周りを硬くする。
「気になるんだよ。学生の時からずっとそうなんだ。緊張すると腹の調子が悪くなる。デスクワークなんて地獄だった。人が大勢いるところで屁なんかこいてみろよ。裏で何言われるか……」
頭を抱える竜也は、まるでウジ虫のようだった。
人に変に思われないか、嫌われやしないか、そう悩む気持ちは身に覚えがあった。
今でこそ慣れてしまったが、翔吾も母親の為に女装をし始めた頃は緊張しながら外を歩いたものだった。ずっと横隔膜が痙攣しているような気持ち悪さに、急激に食欲が無くなった時期があった。それでも病院にはかかれなかった。金がないのもあったが、『どうして? どういう状況で?』という問いに答えるのが恥ずかしかった。
一度正社員で働いていた職場の後輩に見られたことがある。翌日には「気持ち悪い」「変態」と噂になっていた。下卑た視線に耐えられなかった。
「分かる、私もそんなことあったから。ストレスって腹にくるよな」
竜也は沼から顔を出した妖怪みたいにじろりと翔吾を見た。人間不信の妖怪だ。
「『あった』って今は違うのか? どうやって治したんだよ」
「仕事辞めた」
「僕と同じじゃないか」
「でも今はバイトしてるし」
人間不信の妖怪は半信半疑を強調するように目を半分にして、水を啜った。
「ようは環境を変えたんだよ」
コップが音を立てずにテーブルに着地する。
「自分を認めてくれるところ。竜也は屁やうんこ漏らすのが恥ずかしいんだろ? だったらそれが気にならないところにいけばいいじゃん」
「そんな都合のいいところあるか? 僕は今までサラリーマンしかやったことないんだぞ」
「別にサラリーマンじゃなくてもいいだろ。いいとこ紹介するよ。竜也ならきっと楽しめると思うよ」
含み笑いをしてから、翔吾はあんみつを平らげた。竜也は思考を整理するようにゆっくりとそばを咀嚼して、コップの氷も一つ残さず噛み砕いてから「ふうん」と鼻を鳴らした。
店を出て、疲れきった様子の竜也と遊び足りない翔吾は連絡先を交換して互いに違うタクシーに乗った。
「また誘ってくれ」
手を上げた竜也は体重が何キロか落ちたような顔をしていた。
後日、明恵は発光しそうな笑みを浮かべながら店を訪ねて来た。
そして早々、小ぶりの紙袋を翔吾に手渡した。
「先日頂いたお茶、息子が気に入ってね。もう無くなりそうなんですよ。また作って頂きたくって。あ、今日じゃなくていいんです。沢山欲しいから、また後で受け取りに来ます。息子、仕事を始めたんですよ。バイトなんですけど、ちゃんと時間通りに行って、あんなシャキッとしたところ久しぶりに見て感動してしまいました。翔子さんのお蔭です。本当にありがとうございました」
マシンガンのように話して、明恵は帰って行った。台風にあったような気持ちで、翔吾は呆然とする。
「どなたか来ました?」
背後から声を掛けられて、漸く居間に戻った。
美鈴が紙袋の中の包装された箱を覗く。
「わあ、これSNSで話題になっていた和菓子屋さんのお饅頭ですね」
「後で食べましょうか」
明恵が注文の為に来訪したことを告げると、美鈴が指を折りながら「レモングラスとペパーミントですね」と翔吾に微笑み掛けた。
「胃腸の不調に効果的なハーブ。レモンに似た酸味と爽やかさで飲みやすく、まだ暑いこの季節にもぴったりです。素晴らしいブレンドですね」
「竜也君が腹の調子のことを気にしてたので、合うんじゃないかと思って」
褒められたことがくすぐったくて髪の毛をいじっていると、美鈴の腹がポコンと跳ねた。
「今日はいつにも増して元気なんですよ」
美鈴が母の顔で腹を撫でる。
「ブレンドの続きしますね」
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――律はもう十六週目くらいか。
金を貯めなければ。そう言い聞かせるとこめかみが痛くなった。
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