30 / 43
30
しおりを挟む
半袖だともう寒い。
長袖シャツに薄手のカーディガンを羽織って、金木犀の香りを嗅ぎながら庭の土を弄っていた翔吾は、どこからか呼ぶ声に耳を澄ませた。
「おねえちゃん!」
庭の入口に六、七歳の少年が立っていた。
「おねえちゃんに用があるの」
怪訝に思いながら曲げていた腰を伸ばし向き合う。
「何?」
「ここは魔女の店なんでしょ? 僕のお願い聞いてほしいの」
はあ? と翔吾は柄の悪い仕草で片目を細めた。少年は熱の籠った双眸で翔吾を見上げる。
「魔女なわけねえじゃん」
「だってみんな言ってるよ」
「みんなって誰」
「ママとかそっちの家のおばちゃんとか」
なるほど、近所の子供らしい。
少年はチラチラと店の方を気にしていたが、面倒ごとを招きたくないので中には入れず立ち話を続けた。
「一応聞くけど、お願いって何?」
「シイナが寝なくてママが困ってるの。だからシイナが寝るお薬を作ってほしいの」
「薬なんか作ってねえよ。いい匂いの草売ってるだけ」
「でもママが言ってたよ」
「じゃあママ呼んで来いよ」
少年は首を振り、身振り手振りで『ママは寝不足が原因の体調不良で外に出られないこと』『シイナというのは生後数か月の乳児だということ』を説明した。
「だから一人で来たんだよ」
憎いくらいさらさらとした前髪の間から、汗に濡れた額が覗く。
あまりに熱心な口調に、翔吾はこれを無下にしたら罰が当たるのではという根拠の無い妄想に憑りつかれ、少年を玄関へ通した。美鈴を呼ぶと、彼女は顔のパーツが落ちそうなほど表情を緩ませ出迎えた。
冷えた麦茶を一気に飲み干し、少年は美鈴に名を聞かれて『コウノトウヤ』と名乗った。きちんと正座をして、隣に寄り添う美鈴の腹を見つめる。
「おねえちゃんの赤ちゃんはいつ出てくるの?」
「あと二か月くらい経ったらかな」
トウヤは感慨深げに頷いてから、自分の任務を思い出したように、縁側で庭を見渡す翔吾に向かって声を上げた。
「ねえ黄色の髪のおねえちゃん、お薬作ってくれる?」
幼い顔は切実さを湛えていた。さりげなく翔吾が美鈴を見ると、こともなげに「いいよ」と笑みを深くした。
とうやと翔吾を待たせて、美鈴は調合室に入っていく。
残された二人が靴飛ばしや追いかけっこをしていると、気付かないうちに美鈴が戻ってきていて慈しむような表情でその様子を見守っていた。
彼女が渡したタオルで汗を拭きながら、トウヤと翔吾は彼女がテーブルに置いたものを見た。
「サシェとハーブティーですか、これ」
翔吾はまじまじとそれを見る。
「作り方はサシェと変わりませんが、これは『バスハーブ』というものです。天然の入浴剤です」
手のひらに収まるサイズのガーゼの巾着袋に、ドライハーブが詰まっている。中身は丸く黄色い花。
「カモミールですね。そっちのお茶の方も」
身を乗り出しす翔吾の真似をして、トウヤもしげしげと眺める。
「そうです。翔子さん、たらいにぬるめのお湯を汲んできてもらってもいいですか」
翔吾は言われた通りに湯を張り、それを美鈴の前に置いた。彼女はその水面にバスハーブを落とし、僅かな間をおいて湯を掻き混ぜた。徐々に、立ち上る甘い芳香が強くなっていく。
「トウヤくん、ここに手を入れてみてくれる?」
頷いて、とうやは恐る恐る指先を入れた。
「あったかい」
ふふふと無邪気な笑い声を上げたトウヤの日に焼けた手を、美鈴が自分の両手で包む。風呂桶ほどのたらいの中で、二人の手が蕾の形を作っている。美鈴が優しく揉んだり労うように擦ったりするうちに、トウヤは眠そうに体を揺らし始めた。
「手、出していいよ」
美鈴に言われ手を上げたとうやは、手を拭き目をこすった。
彼女が自分の手の甲を鼻に近づけるのを見て、眠そうな少年もそれに倣う。幼い顔がライトをつけたようにパッと明るくなった。
「いい匂い!」
「これはね、カモミールっていうお花なの。気持ちをリラックスさせたり、眠りやすくする効果があるんだよ。シイナちゃんが眠れないときはこうやって手とか足とかお湯につけてあげてみて。こっちのお茶はママに。淹れ方はメモに書いておくからね」
美鈴はそれらを紙袋に入れてトウヤに持たせた。
「お金これで足りる?」
小さな手が半ズボンのポケットを探り、握った拳を開く。
二百三十円分の硬貨がチャラリと鳴った。
「お前これ足りな……」
「トウヤくん。これはね、シキョウヒンなの。もしママやシイナちゃんが気に入ったら、また買いに来て。今日のはお金要らないからね」
翔吾の台詞を遮ってトウヤの頭を撫でた美鈴の母性的な微笑みに、翔吾は少年を少しだけ羨ましく思った。向けられた慈愛を享受し満足そうに笑った少年は見えなくなるまで手を振り、陽炎の向こうに帰って行く。
玄関先で「いいんですか」と翔吾が問う。
「ハーブには相性があるから。茶葉のブレンドをするときも、試飲はしてもらうんですよ」
自分がカウンセリングした客にそんなことをしたことはなかったな、と思ったが口を噤んだ。
それから二週間ほどして、再びトウヤが現れた。
長袖シャツに薄手のカーディガンを羽織って、金木犀の香りを嗅ぎながら庭の土を弄っていた翔吾は、どこからか呼ぶ声に耳を澄ませた。
「おねえちゃん!」
庭の入口に六、七歳の少年が立っていた。
「おねえちゃんに用があるの」
怪訝に思いながら曲げていた腰を伸ばし向き合う。
「何?」
「ここは魔女の店なんでしょ? 僕のお願い聞いてほしいの」
はあ? と翔吾は柄の悪い仕草で片目を細めた。少年は熱の籠った双眸で翔吾を見上げる。
「魔女なわけねえじゃん」
「だってみんな言ってるよ」
「みんなって誰」
「ママとかそっちの家のおばちゃんとか」
なるほど、近所の子供らしい。
少年はチラチラと店の方を気にしていたが、面倒ごとを招きたくないので中には入れず立ち話を続けた。
「一応聞くけど、お願いって何?」
「シイナが寝なくてママが困ってるの。だからシイナが寝るお薬を作ってほしいの」
「薬なんか作ってねえよ。いい匂いの草売ってるだけ」
「でもママが言ってたよ」
「じゃあママ呼んで来いよ」
少年は首を振り、身振り手振りで『ママは寝不足が原因の体調不良で外に出られないこと』『シイナというのは生後数か月の乳児だということ』を説明した。
「だから一人で来たんだよ」
憎いくらいさらさらとした前髪の間から、汗に濡れた額が覗く。
あまりに熱心な口調に、翔吾はこれを無下にしたら罰が当たるのではという根拠の無い妄想に憑りつかれ、少年を玄関へ通した。美鈴を呼ぶと、彼女は顔のパーツが落ちそうなほど表情を緩ませ出迎えた。
冷えた麦茶を一気に飲み干し、少年は美鈴に名を聞かれて『コウノトウヤ』と名乗った。きちんと正座をして、隣に寄り添う美鈴の腹を見つめる。
「おねえちゃんの赤ちゃんはいつ出てくるの?」
「あと二か月くらい経ったらかな」
トウヤは感慨深げに頷いてから、自分の任務を思い出したように、縁側で庭を見渡す翔吾に向かって声を上げた。
「ねえ黄色の髪のおねえちゃん、お薬作ってくれる?」
幼い顔は切実さを湛えていた。さりげなく翔吾が美鈴を見ると、こともなげに「いいよ」と笑みを深くした。
とうやと翔吾を待たせて、美鈴は調合室に入っていく。
残された二人が靴飛ばしや追いかけっこをしていると、気付かないうちに美鈴が戻ってきていて慈しむような表情でその様子を見守っていた。
彼女が渡したタオルで汗を拭きながら、トウヤと翔吾は彼女がテーブルに置いたものを見た。
「サシェとハーブティーですか、これ」
翔吾はまじまじとそれを見る。
「作り方はサシェと変わりませんが、これは『バスハーブ』というものです。天然の入浴剤です」
手のひらに収まるサイズのガーゼの巾着袋に、ドライハーブが詰まっている。中身は丸く黄色い花。
「カモミールですね。そっちのお茶の方も」
身を乗り出しす翔吾の真似をして、トウヤもしげしげと眺める。
「そうです。翔子さん、たらいにぬるめのお湯を汲んできてもらってもいいですか」
翔吾は言われた通りに湯を張り、それを美鈴の前に置いた。彼女はその水面にバスハーブを落とし、僅かな間をおいて湯を掻き混ぜた。徐々に、立ち上る甘い芳香が強くなっていく。
「トウヤくん、ここに手を入れてみてくれる?」
頷いて、とうやは恐る恐る指先を入れた。
「あったかい」
ふふふと無邪気な笑い声を上げたトウヤの日に焼けた手を、美鈴が自分の両手で包む。風呂桶ほどのたらいの中で、二人の手が蕾の形を作っている。美鈴が優しく揉んだり労うように擦ったりするうちに、トウヤは眠そうに体を揺らし始めた。
「手、出していいよ」
美鈴に言われ手を上げたとうやは、手を拭き目をこすった。
彼女が自分の手の甲を鼻に近づけるのを見て、眠そうな少年もそれに倣う。幼い顔がライトをつけたようにパッと明るくなった。
「いい匂い!」
「これはね、カモミールっていうお花なの。気持ちをリラックスさせたり、眠りやすくする効果があるんだよ。シイナちゃんが眠れないときはこうやって手とか足とかお湯につけてあげてみて。こっちのお茶はママに。淹れ方はメモに書いておくからね」
美鈴はそれらを紙袋に入れてトウヤに持たせた。
「お金これで足りる?」
小さな手が半ズボンのポケットを探り、握った拳を開く。
二百三十円分の硬貨がチャラリと鳴った。
「お前これ足りな……」
「トウヤくん。これはね、シキョウヒンなの。もしママやシイナちゃんが気に入ったら、また買いに来て。今日のはお金要らないからね」
翔吾の台詞を遮ってトウヤの頭を撫でた美鈴の母性的な微笑みに、翔吾は少年を少しだけ羨ましく思った。向けられた慈愛を享受し満足そうに笑った少年は見えなくなるまで手を振り、陽炎の向こうに帰って行く。
玄関先で「いいんですか」と翔吾が問う。
「ハーブには相性があるから。茶葉のブレンドをするときも、試飲はしてもらうんですよ」
自分がカウンセリングした客にそんなことをしたことはなかったな、と思ったが口を噤んだ。
それから二週間ほどして、再びトウヤが現れた。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
灰かぶりの姉
吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。
「今日からあなたのお父さんと妹だよ」
そう言われたあの日から…。
* * *
『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。
国枝 那月×野口 航平の過去編です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる