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コロッケと餡パン
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頁を捲る音。
ザアザアと降る雨。
今朝。登校し机に向かったものの、透一の言葉が耳の残り気分が悪かったのだ。だから少し散歩でもしようと外へ出た。校庭では暇を持て余した生徒が子供じみた遊びに興じていたため塀の外へ向かった。冬の冷気の中で吸う煙草は、体に悪いものである筈なのに肺の中が澄んでいく感じがする。
木立の下で、雲の多くなってきた青空に紫煙をくゆらせていた。
――――そのときだった。
激しく枯草を踏む音が聞こえてきたので、警戒して辺りを見回した。静けさに包まれた早朝に似合わぬ騒々しさを不審に思いながら、侃爾は煙草を踏み潰す。
足音に耳を傾けていると、それは突然現れた。
木の陰から出てきたのだと分かった瞬間、ドンッと胸の中に衝撃が飛び込んできた。
見ると、髪と着物を乱して呼吸を狂わせたシイだった。衿ははだけ、裾は大きく割れて白い足が露わになっていた。黒目がちの目には激しい怯えと悲しさが孕まれているように見えた。
あまりにひどい様相に侃爾は絶句した。
しかし動揺する心を押さえつけ、泣き崩れる彼女を支えてどうにか家へ帰った。
そして今、少しずつシイの様子は落ち着てきている。
それでも時折泣きそうに鼻を啜るのを、侃爾は一々気にしないようにして活字に目を凝らした。
目が滑る。
死んだ女房の墓を掘る、そんな出だしまでは理解したが、その後の展開が全く頭に入ってこない。次の行に進めない。
時間が経つのが遅い気がした。
しかし顔を上げると正午を過ぎていた。
屋根に落ちてくる雨粒が少なくなっている。
「……おい」
口を開くと舌が上顎から離れ難く、声が掠れた。
シイが体をびくりとさせて顔を上げる。
「俺は一度学校へ戻る。お前、飯はどうする」
「あ……、そ、そのうち……」
「そうか。――また戻る。どこへも行くなよ」
シイは二度頷いて、握った自分の手に視線を落とした。
湿った外気に触れると、侃爾は重い溜息を漏らした。
世の中の不幸を一身に背負ったような女と関わっていると、自分の正気と正義を疑いたくなる。
色んな意味で頭が痛い。
学校に戻り集中できない午後の授業を受け、学友から不審がられながら着替えと財布を持って再び出掛けた。
夕餉の準備をする家々から、醤油や味噌のふくよかな香りが匂ってくる。
昼餉を抜かした胃が音を立てるので、堪らず途中でコロッケと餡パンを買った。揚げ物の匂いに食欲を刺激され、唾を飲みながらシイの家へ戻る。
シイは暗いところで行李の中の猫を見ていた。その頭が髪を揺らして侃爾を振り向く。
「お、おかえりなさい」
「た……」
ただいま――――と、思わず返しそうになって焦って口を噤んだ。
そういうやり取りをするような仲では無い。もっと殺伐としていなければならない。
侃爾はそう思いながらも、相反するものが右手の中にあることを思い出した。苦々しく思いながら包みをちゃぶ台において、飯は食ったかとシイのほうを見ずに訊く。
「あ、うう、ええ、と、そ、あ、あの……」
彼女が冗談みたいにしどろもどろなので、侃爾は苦い顔をした。
「別に『食ってない』と一言言えばいいだろう」
叱られたと思ったらしいシイは小さな声で謝ってからどんよりと頭を下げた。侃爾はその目の前に紙袋を押しつける。
「ほら、食うぞ」
怪訝そうに首を捻るシイの前に胡坐を掻いて、包みから出したコロッケを手渡した。シイは戸惑ったような落ち着きの無い仕草でそれを受け取り、侃爾の表情を兢々と窺う。彼が何でもないふうに自分のコロッケに齧りつくと、『よし』と言われた犬のように浅くコロッケに歯を立てた。
サクッ。
途端にシイの目が大きくなる。
コロッケを見て、侃爾の顔を見て、何度か瞬きをして。
ごくんと嚥下すると唇に小さい弧を描いて、「おいしい」と漏らした。
その明るい表情に侃爾は驚いた。
咀嚼が止めて、じいっと彼女を観察する。
油に濡れてつやつやとした赤い唇が、少しずつコロッケを齧り取っていくさま。僅かに潤んだ瞳。落ちてくる前髪を除ける無造作な仕草。口の端にきつね色のパン粉がついているのが勿体無い、――と思うのと腕を伸ばすのは同時だった。
侃爾はシイの口元に親指をあて、ついていたパン粉を拭い取っていた。
そして条件反射のようにそれをぺろりと舐め取る。
すぐに、己の愚行を恥じた。顔が火をつけたように熱くなる。
「いや、あの、これは……弟と、間違えたんだ……」
黙って構えていればいいものを、何か言わないと気が済まなかった。
シイは頬を動かしたまま侃爾を見て「ありがとうございます」と薄く目を細めた。
滑らかに潰された馬鈴薯の舌触りに安寧を得た。それだけが救いのように侃爾は下を向いて食べ進めた。
餡パンを食べたときも、シイは子どものように嬉しがっていた。甘みに囚われたように急いで食べるので、そのうち喉に詰まらせ胸を叩く。侃爾は急いで水を汲んできてやった。
「ほらゆっくり食え」
「は、はい……」
餡パンを前にして緩む表情を見ていると、彼女が『普通の人間』と変らなく見えてきて侃爾は何とも言えない気持ちになる。
居たたまれなく思いながらも、暫くのうちは食事とシイの観察に集中していた。
薄暗くなってきた頃に、侃爾は吊りランプを灯してちゃぶ台に教材にを並べた。シイは行李の中の猫の毛についた汚れをて拭ってやりながらも、侃爾の様子を気にしているようだった。その視線に気付きながらも、侃爾はポケットから万年筆を出して教科書書き込みを始めた。ペン先が紙を引っかく音だけが、室内の寂しさを埋める。
カリカリと、耳を擽る音が鳴る。
勉学に集中して、何も気付かないふりをした。窓の外の暗闇も、正しさの概念も、今ここに残ってる理由も。
どうせ正解など、今は分からないのだし。
ザアザアと降る雨。
今朝。登校し机に向かったものの、透一の言葉が耳の残り気分が悪かったのだ。だから少し散歩でもしようと外へ出た。校庭では暇を持て余した生徒が子供じみた遊びに興じていたため塀の外へ向かった。冬の冷気の中で吸う煙草は、体に悪いものである筈なのに肺の中が澄んでいく感じがする。
木立の下で、雲の多くなってきた青空に紫煙をくゆらせていた。
――――そのときだった。
激しく枯草を踏む音が聞こえてきたので、警戒して辺りを見回した。静けさに包まれた早朝に似合わぬ騒々しさを不審に思いながら、侃爾は煙草を踏み潰す。
足音に耳を傾けていると、それは突然現れた。
木の陰から出てきたのだと分かった瞬間、ドンッと胸の中に衝撃が飛び込んできた。
見ると、髪と着物を乱して呼吸を狂わせたシイだった。衿ははだけ、裾は大きく割れて白い足が露わになっていた。黒目がちの目には激しい怯えと悲しさが孕まれているように見えた。
あまりにひどい様相に侃爾は絶句した。
しかし動揺する心を押さえつけ、泣き崩れる彼女を支えてどうにか家へ帰った。
そして今、少しずつシイの様子は落ち着てきている。
それでも時折泣きそうに鼻を啜るのを、侃爾は一々気にしないようにして活字に目を凝らした。
目が滑る。
死んだ女房の墓を掘る、そんな出だしまでは理解したが、その後の展開が全く頭に入ってこない。次の行に進めない。
時間が経つのが遅い気がした。
しかし顔を上げると正午を過ぎていた。
屋根に落ちてくる雨粒が少なくなっている。
「……おい」
口を開くと舌が上顎から離れ難く、声が掠れた。
シイが体をびくりとさせて顔を上げる。
「俺は一度学校へ戻る。お前、飯はどうする」
「あ……、そ、そのうち……」
「そうか。――また戻る。どこへも行くなよ」
シイは二度頷いて、握った自分の手に視線を落とした。
湿った外気に触れると、侃爾は重い溜息を漏らした。
世の中の不幸を一身に背負ったような女と関わっていると、自分の正気と正義を疑いたくなる。
色んな意味で頭が痛い。
学校に戻り集中できない午後の授業を受け、学友から不審がられながら着替えと財布を持って再び出掛けた。
夕餉の準備をする家々から、醤油や味噌のふくよかな香りが匂ってくる。
昼餉を抜かした胃が音を立てるので、堪らず途中でコロッケと餡パンを買った。揚げ物の匂いに食欲を刺激され、唾を飲みながらシイの家へ戻る。
シイは暗いところで行李の中の猫を見ていた。その頭が髪を揺らして侃爾を振り向く。
「お、おかえりなさい」
「た……」
ただいま――――と、思わず返しそうになって焦って口を噤んだ。
そういうやり取りをするような仲では無い。もっと殺伐としていなければならない。
侃爾はそう思いながらも、相反するものが右手の中にあることを思い出した。苦々しく思いながら包みをちゃぶ台において、飯は食ったかとシイのほうを見ずに訊く。
「あ、うう、ええ、と、そ、あ、あの……」
彼女が冗談みたいにしどろもどろなので、侃爾は苦い顔をした。
「別に『食ってない』と一言言えばいいだろう」
叱られたと思ったらしいシイは小さな声で謝ってからどんよりと頭を下げた。侃爾はその目の前に紙袋を押しつける。
「ほら、食うぞ」
怪訝そうに首を捻るシイの前に胡坐を掻いて、包みから出したコロッケを手渡した。シイは戸惑ったような落ち着きの無い仕草でそれを受け取り、侃爾の表情を兢々と窺う。彼が何でもないふうに自分のコロッケに齧りつくと、『よし』と言われた犬のように浅くコロッケに歯を立てた。
サクッ。
途端にシイの目が大きくなる。
コロッケを見て、侃爾の顔を見て、何度か瞬きをして。
ごくんと嚥下すると唇に小さい弧を描いて、「おいしい」と漏らした。
その明るい表情に侃爾は驚いた。
咀嚼が止めて、じいっと彼女を観察する。
油に濡れてつやつやとした赤い唇が、少しずつコロッケを齧り取っていくさま。僅かに潤んだ瞳。落ちてくる前髪を除ける無造作な仕草。口の端にきつね色のパン粉がついているのが勿体無い、――と思うのと腕を伸ばすのは同時だった。
侃爾はシイの口元に親指をあて、ついていたパン粉を拭い取っていた。
そして条件反射のようにそれをぺろりと舐め取る。
すぐに、己の愚行を恥じた。顔が火をつけたように熱くなる。
「いや、あの、これは……弟と、間違えたんだ……」
黙って構えていればいいものを、何か言わないと気が済まなかった。
シイは頬を動かしたまま侃爾を見て「ありがとうございます」と薄く目を細めた。
滑らかに潰された馬鈴薯の舌触りに安寧を得た。それだけが救いのように侃爾は下を向いて食べ進めた。
餡パンを食べたときも、シイは子どものように嬉しがっていた。甘みに囚われたように急いで食べるので、そのうち喉に詰まらせ胸を叩く。侃爾は急いで水を汲んできてやった。
「ほらゆっくり食え」
「は、はい……」
餡パンを前にして緩む表情を見ていると、彼女が『普通の人間』と変らなく見えてきて侃爾は何とも言えない気持ちになる。
居たたまれなく思いながらも、暫くのうちは食事とシイの観察に集中していた。
薄暗くなってきた頃に、侃爾は吊りランプを灯してちゃぶ台に教材にを並べた。シイは行李の中の猫の毛についた汚れをて拭ってやりながらも、侃爾の様子を気にしているようだった。その視線に気付きながらも、侃爾はポケットから万年筆を出して教科書書き込みを始めた。ペン先が紙を引っかく音だけが、室内の寂しさを埋める。
カリカリと、耳を擽る音が鳴る。
勉学に集中して、何も気付かないふりをした。窓の外の暗闇も、正しさの概念も、今ここに残ってる理由も。
どうせ正解など、今は分からないのだし。
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