消毒をして、ガーゼをあてて

九竜ツバサ

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息抜き

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 明日は休みだから、と誰かが言った。
 寮で夕餉をとった後だった。
 食堂に残った級友の数名が愉快そうに話していて、離れたところにいた透一がそこに呼ばれ、そして侃爾のもとへ使いのようにやって来たのだ。

「あいつらこれからカフェに行くらしいぜ」
 透一の含みのある言葉に、侃爾はテーブルに頬杖をついたまま「そうか」とだけ答えた。
 昨日、シイの愛猫を弔ったばかりで気力が擦り減っていた。歓楽に耽るような余裕は無い。己の態度と愛想の無い返事で透一は察するはず、と侃爾は顔を背けた。

 しかし透一は侃爾の肩に手を置いて、
「俺も行こうと思うんだけど、侃爾も一緒に行かないか?」
 と笑顔を作った。

 侃爾が振り向くと、彼は他人に媚びを売るときにする、とびきりの笑みを浮かべていた。涼やかな目元が細められると普段より可愛らしさが増し、ついついおねだりをきいてしまいたくなる、――とは、彼を気に入っている男色の先輩の談である。侃爾は弟以外の同性に可愛らしさなど微塵も感じたことは無いが。
 とにかく侃爾は首を横に振った。

「行かない。勝手に行ってこい」
「まあ、そう言わずに」
「行かないと言ってるだろう」
「お前、最近何か悩んでるみたいじゃないか。息抜きだと思ってさ」
「しつこいぞ」
「ほらほら」

 目尻を釣り上げ始めた侃爾の腕を、透一はひょいっと引き上げた。それなりの筋肉と体重のある体格のいい男の体が持ち上がる。細身だが見かけによらず腕力のある透一は爽やかな微笑みを崩さぬまま「昨日休んだぶんの授業のノートは見たくないのか? 別に酒だけ飲んで帰ればいいんだし、ガタガタ言ってないでついて来いよ」と凪いだ湖面のような声で言った。
 侃爾は嫌そうに眉根を寄せながらも自室に戻り、袴に着替えて皆に合流した。



 半ば脅されるようなかたちで連れて来られたカフェで、侃爾は構われぬようにと通されたボックス席の端に座った。しかしすぐに女給が傍に腰かけて来て、反応の薄い侃爾にも人懐っこく喋り掛けてくるので、己の浅はかな選択を後悔した。

「ねえ、おにいさん。学校ではどんなことを勉強してるの?」
「恋人や許嫁はいる? あ、もう結婚してたりして」
「体大きいねえ。運動得意?」
「ねえ、ねえ、おにいさん。わっ、ちゃんと見るとかっこいい」

 左目の下に涙ぼくろのある女給は、結い上げていた長い髪をいつの間にか解いて、「あつぅ」と手で顔を仰いだ。白エプロンの下に着ている赤地に大花の着物の衿を弛めてふうと息をつく。
「お酒飲む人と一緒にいると何だかこちらまで熱くなるよねえ」
 ボックス席の中は、――否、店全体が、酒場特有の熱気に包まれていた。酔っ払いの声は煩く、女給への接触は激しくなっていく。しんとしているのは侃爾と、その隣でホットコーヒーを飲んでいる透一だけだった。

「お前、飲むんじゃなかったのか?」
 侃爾は透一の耳に口を近づけて低く問う。
「そんなことは言ってないさ」
「ついて来いと言ったくせに」
「それは言ったけど。俺には許嫁がいるんで、あまりハメは外せないのさ」
「卑怯者め」
 あはは、と透一は笑った。

「でも侃爾に息抜きしてほしいのは嘘じゃない。たまにはいいだろう? それとも女は嫌いだったか?」
 侃爾は犬歯を剥き出して「そんなわけ無いだろう」と答えた。その瞬間、傍にいた女給が噴き出して笑った。
「正直者ぉ」
 自分と同じくらいの歳か、いくつか下に見える女に笑われ、侃爾は憤怒の形相で透一を睨む。

「いいじゃないか、ここにいる大多数は女が好きだぞ。 なあ?」
 投げ掛けるようにして席を見渡すと、級友たちが赤らんだ顔でぶんぶんと頷いた。侃爾は味方がいなくなったと世知辛そうに煙草に火をつける。涙ぼくろの女給が「はあ、熱い、熱い」と言いながら凭れ掛かってくるのを意識しないようにしながら色ガラスの嵌った窓に目を向けると、雪がちらついているのが見えた。
 雪の白、……がガーゼの色に見え、その下に隠れた脂肪にも達するほどの深い傷を、侃爾は思い出した。

 己の指に、
 手のひらに、
 傷口から溢れ出した紅が、
 涙のように生温く、
 ぬる、と、
 それは痛々しく、
 視界を汚して――――。
 


「おにいさあん、もうお店閉めるよお」
 突然耳に入ってきた声に、侃爾ははっと目を覚ました。
 反射的に体を起こすとそこはボックス席のソファーの上で、侃爾はそこに横たわっていたことを怪訝に思った。火照った顔を拭うと、手の平が汗で濡れる。
テーブルの向かいで、涙ぼくろの女給がエプロンを脱いだ姿で侃爾を覗き込んだ。

「突然、眠っちゃったのよ。飲み始めて大して経って無いのに。もしかしてお酒弱いの?」
 垂れがちの目が侃爾の様子を窺う。
 失態を起こしたのだと気付いた侃爾は、足を下ろしながらアルコール臭い溜息を吐いた。
「いや、疲れてただけだ」
 洋風の洒落た掛け時計を見ると、随分と夜が更けていた。
「迷惑を掛けて申し訳無い。閉店時間を過ぎているだろう。俺は帰るから……」

 言って席を出ようと立ち上がると、足がもつれて再びソファーに尻をついた。女が明るい笑い声を上げる。そして「うちにおいでよお」と侃爾の頬を、柔らかい手で撫でた。
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